沈没事故で露呈したのは、韓国社会にはびこる裏切りの連鎖だ

問題が発生すれば、大統領を非難する私たちの社会が野蛮だと言う人が現れる。しかし、本当に野蛮なのは、他者を野蛮と見る視線そのものであり、悲劇的な事故のときでさえ忠誠の連鎖に割り込もうと機会をうかがう心性だ。
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セウォル号事件は多くの動画データを残した。沈没する船の中で高校生が撮影した動画は特に心に突き刺さる。その中に船を捨てて真っ先に脱出する船長と船員の姿もある。その場面を何度も放送する地上波テレビの狙いを推測することは難しくないが、放送局の意図とは無関係に、この場面はトラウマになる。

「どうしてあんなことができるのか?」という言葉が心の中にわき上がる。この言葉には怒りがこもっている。疑問形だが「あんなことはできない、ああなってはならない」という断固とした批判が込められている。しかし、疑問文は消えずに心に残る。「どうしてあんなことができるのか?」「なぜ避難命令を下さなかったのか?」

「待機せよ」と命じた彼らの行動を推測してみる。そう言わないと、乗客は全員が甲板に飛び出し、自分たちが救助される確率が低くなると懸念したのかもしれない。そういう意味で彼らがひどく利己的だったのは明らかだ。しかし海洋警察が公開した動画を見ると、脱出前後の行動は実に落ち着いている。救助された直後、船員の1人は電話をかけている。どうしてそんなことができるのか?

疑問文に、すでにいくつか答えが含まれている。「こんな悪い奴ら」「人の皮をかぶった獣だね」「頭おかしいんじゃないか」。こんな答えが浮かび上がる。彼らは最初から「私たち」と違う人種、例えば悪魔なら怒りがこみ上げても不思議はないからだ。しかし彼らは悪魔ではなく、今日、道ですれ違った人と別段変わらない人だと私たちは知っている。むしろ彼らの姿が、韓国社会が抱えるいくつかの深刻な状態を例示しているのではないかという直感を振り切るのは難しい。そんな考えに至ると胸が苦しくなる。

この質問の苦痛から抜け出すためには、彼らの行動を「理解」する必要がある。船員や海洋警察の行動を許すつもりは全くなくても、理解に努めることは必要だ。彼らの行動を理解できれば、真相に少し近づけるし、何より「なぜあんなことができるのか」という質問の圧迫から抜け出すことができるのだ。

理解の作業は「慈悲の原則(principle of charity)」を要求する。他者の言葉や行動に彼らなりの理由があることを前提としなければならない。船長と船員の行動を理解するためには、その行動が彼ら自身にとって妥当な点があると考えなければならない。よく韓国やアメリカのメディアがするように、金正日総書記やその息子の金正恩を「狂った」指導者と決めつけるすることは、好むと好まざるに関わらず理解を放棄した行動だ。理解のためには彼らの行動に理由があると仮定しなければならない。

私が思うに、セウォル号の船長と船員たちの行動を理解するためには、彼らの言葉よりも態度や挙動に注目する必要がある。態度や挙動はウソをつきにくく、その分、行為者の内面的動機や状況把握がよく表れるからだ。

すると注目すべき点は、救助されたときの落ち着きぶりだ。船長はパンツ姿で脱出したが、私が見るに船員の動作全般は落ち着いており、事態が事前の予想範囲を逸脱していないときに見せる態度だった。彼らが管制センターとの交信で何度も海洋警察が来たのか尋ねる姿、救出直前に電話機を探しにいった1等航海士の姿は、このような推測を強化する。

この落ち着いた様子を慈悲の原則に照らして理解する唯一の方法は、彼らが「海洋警察が到着したから、乗客を助けるだろう」と信じていたと考えることだ。船員たち、そして海洋警察は「自分たちとは違って」善意をもって職務に忠実にあたってくれるだろうと信じ、救助のバトンを気楽に海洋警察に渡したのだ。そう思っていたから、安心して利己的に行動できた。

もし、乗客数百人が死ぬと予測していたら、あるいは事故直後に大統領から「殺人のような」行動と言われると予想していたら、彼らは決して落ち着いてはいなかっただろう。

ところが海洋警察は船員たちと違っただろうか? 現場に最初に到着した救助艇の艦長はインタビューで、セウォル号に救助船を近づけると、共に沈んでしまうことを懸念したと述べた。自分の安全が優先であり、その意味では船員と同様に利己的だった。メディアの報道によると、海難救助のための訓練や機器の購入予算は非常に少なかったが、ゴルフ場建設に140億ウォンの予算を使ったという。海洋警察は利権に執着するが職務の忠実性はなかったことを物語っている。さらに、なぜ彼らは船員は助けても船の中の乗客を助けなかったのか。彼らは連絡がついた集団に対し、できることだけをやる組織なのだ。

まともな潜水組織を持たない海洋警察は、目の前の状況を解決できないと分かった。だから、自分たちと関係の深い海洋企業「アンディン・マリン・インダストリー」に解決のバトンを渡した。アンディンは「自分たちとは違って、救助の問題を解決してくれるだろう」と信じ、さらに自分たちのミスも帳消しにしてくれると信じたのだ。もしアンディンがまともに仕事をできないと考えたならば、海洋警察は海軍の特殊部隊と海難救助隊を断り、ボランティアを志願した民間潜水士を追い払うような大胆なことはできなかっただろう。しかしアンディンは、独占事業権で得られる利益には関心があったが、まともな救助能力を持っていなかった。

このような連鎖はセウォル号の沈没後だけでなく、それ以前にもさかのぼる。事故を起こした清海鎮海運は違法改造、過積載、貨物固定装置の不備などで事故の危険性を高めていたが「自分たちと違って」船員は緊急事態をうまく処理してくれるはずで、救助は海洋警察がちゃんとやってくれるはずで、損失は保険会社が埋めてくれるはずだと信じていたようだ。

報道によると、セウォル号の救命ボートの検査を怠った容疑で韓国海洋安全設備の代表者らが拘束された。彼らはおそらく、自分が検査を適当にやっても、船員たちが救命ボートを使うことはないだろうと信じていたようだ。

同様にセウォル号の改造を検査した韓国船級、海運組合、海洋水産省は、仕事をなまけて利権にありつくことに熱心だったが、「自分たちとは違って」船会社は自分たちの利益を優先させても、船を沈めるような愚かなまねはしないと考えたのだろう。

船員と海洋警察が「どうしてあんなことができるのか」を理解しようとすると、ある奇妙な信頼の連鎖にたどりついた。セウォル号の惨事を巡って起きたことの後には「私は無能で怠慢であり、職務そっちのけで特権を享受して、ほとんど腐りきっているが、他の人は私と違って、職務に忠実できちんと仕事をこなすだろうという信頼」の連鎖が働いているのだ。自分は社会の信頼を裏切るが、その裏切りがつきつけた課題は誰かが処理するだろうという信頼だ。

利己的な人が腐敗や背任で利益を得るためには、まず当人に何らかの社会的な信頼が与えられていなければならない。例えば、海運組合は過積載や貨物固定装置も不備なままで船を出港させないだろうという信頼があるから、彼らに検査権限が与えられる。その場合、海運組合の構成員が私腹を肥やす最も簡単な方法は、その信頼を裏切ることだ。

しかし、それだけで裏切りはすぐ起きない。事故を起こしたら対価を支払わなければならないからだ。ただもし裏切りに伴う危険に何重かのセーフガードがあって、その一つだけでは事故が起きないのであれば、自分は裏切っても他の人は正直という世界を仮定することができ、そのような仮定が裏切りを呼び起こす。

この仮定はさほど非現実的ではない。ある意味、世の中の信義と善意を深く信じる彼らは、逆説的にもそれを裏切ることで利益を得ようとする者たちだ。なぜなら、自分以外の他者の善意が前提にならなければ、裏切りの利益自体が得られないからだ。コンサート会場に入る列に割り込んでくる人を考えてみよう。もし全員が割り込んだら、割り込みは成功しない。詐欺師が人をだますためには、だまされやすい人、つまり無邪気に信じやすい人がいなければならない。全員が詐欺師の世界では、詐欺で利益を得ることはほとんど不可能だ。

この推論が正しければ、セウォル号の惨事は、それを取り巻く者たちが生きる世界、そしてその背景にある韓国社会の現在地を示している。信頼を裏切って善意を略奪することが続いた結果、その裏切りを通じて利益を得るために、前提となる他者の善意と絆が激しく枯渇しているのだ。そして今、自ら犯した信頼の略奪による危険から身を守り、破壊を誰かが治癒してくれると、裏切り者たち自ら信じるしかない状況になったのだろう。

とはいえ、信頼と希望が社会からすべて蒸発してしまったわけではない。セウォル号の惨事は、少なくともどこまで信頼の略奪が行われたのかを証明できる。我々は、海洋水産省~(過積載の検査をする)海運組合/(船舶改造の検査をする)韓国船級~(事故を起こした)清海鎮海運~船長と船員~海洋警察~(海洋警察から救助の潜水作業を請け負った)オンディンの連鎖から、他者への信頼というバトンを受け取る集団がなかったことを目撃しており、惨事を処理する局面では、中央官僚そして官僚と企業が絡まった地点から、裏切りが蔓延することが分かった。信頼を略奪する者たちの中でも、彼らとは異なり、公益的な価値を守る「純粋な企業人」「純粋な官僚」「純粋なスポークスマン」「純粋な大統領」がいないのだ。

「純粋な大統領」がないとは言い過ぎか? そうではない。朴槿恵大統領は「長年の悪弊」を一掃できなかったことが問題だとした。確かにそういう面はある。しかし、その悪弊に対して大統領がやったことは何だろう? 彼女は数多くの公約を破棄することで、自分が信頼を裏切る者だったと立証しており、信頼を裏切ることでより大きな利益を得られるという悪いシグナルを、政府や社会に強力に発信してきた。悪弊に悪弊を積み重ねたのだ。

それだけではない。大統領は多くの反対にもかかわらず、大統領府スポークスマンや検事総長、国家情報院長などの問題人事を断行し、悪弊を忠誠の連鎖で並び替えた。これにより、無責任と無能は深まった。さらに、このような忠誠への並び替えは、中央官僚を飛び越えてメディアの中まで深く浸透した。その結果は、誤報と誤導、そして「クズ記者」の量産だった。

このような悪徳の連鎖が数百人の高校生と罪のない乗客を海に沈めたはずなのに、大統領や政治家や地上波テレビと大手新聞社は「自分とは違い」公益に忠実でなければならなかったのに、「自分たちのように」行動した集団に「裏切り」を見いだし、彼らに責任の爆弾をたらい回すのに余念がない。

この悲惨な光景を批判すれば、問題が発生すれば、大統領を非難する私たちの社会が野蛮だと言う人が現れる。しかし、本当に野蛮なのは、他者を野蛮と見る視線そのものであり、悲劇的な事故のときでさえ忠誠の連鎖に割り込もうと機会をうかがう心性だ。

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