“幻”に終わった「党規約による小池氏独裁」の企み

「小池氏独裁のための規約」が作られた経過とは。

一応評価できる今回の規約改訂

前回記事【"小池氏独裁"のための、恐るべき「希望の党」規約】で指摘した規約が改訂された。改正は、11月2日付けだったようだが、11月6日になって、ようやく希望の党ホームページ中の「党規約」で、改訂後の規約が公開された(【希望の党規約】)。

最新の規約を(C)、その改訂前の規約を(B)、後に詳述する結党時の規約を(A)とする。

規約(B)に関して、「創業者」である小池百合子氏の「独裁」を可能にする規定として指摘したのは、

①「結党時の代表」である小池氏は、病気にならない限り、6年間は絶対に解職できないことになっていること

②「共同代表」「幹事長」「政調会長」等の党執行部の役員人事の権限も、すべて「代表」に帰属していること

③代表が指名する「ガバナンス長」が、国会議員の候補者の公認、推薦や、現役国会議員及び国政選挙の候補者となろうとする者の実力及び人物評価、「コンプライアンス委員会」「コンプライアンス室」を所管するなど党所属国会議員の生殺与奪に関わる広範な権限を持つこと

の3点であった。

このうち、①については、8条2項で、「代表の任期は就任から3年とし、重ねて就任することができる」とされているのは変わらないが、「任期満了に伴う新たな代表の選出をもって、任期は終了するものとし」とされたことで、「結党時の代表」も、3年の任期満了の際に代表選挙が行われて新代表が選出されれば、3年の任期で代表を退任することが明確にされた。

②については、「共同代表」については、「代表とともに党務及び国会活動全般を統括する」とされ、両院議員総会で選出することも明記された。「幹事長」「政調会長」等の役員人事についても、「代表及び共同代表が協議の上決定し、両院議員総会の承認を得る」とされた。

そして、③の「ガバナンス長」に関する規定は、すべて削除された。

これにより、「結党時の代表」にすべての権限が集中する「独裁のための規約」としての性格は、概ね解消されたと言えよう。一般的には、「最高機関」として位置づけられる「党大会」の規定がないことなど、まだ党の規約として特異な点もあり、「結党時の代表」の位置づけも含め、今後、さらなる規約改訂が必要になると考えられるが、役員人事、党運営等を民主的に行っていく方向は明確になったと言える。

「小池氏独裁のための規約」が作られた経過

前回ブログ記事】以降に、規約の改訂の経緯について、新たにわかったことがある。「希望の党」の「チャーターメンバー」(結党時の国会議員メンバーのことを小池氏は「チャーターメンバー」と呼んでいる。)の一人とも話したが、実は、私が、「小池氏独裁のための規約」と指摘した規約(B)は、9月25日の結党時の規約(A)を衆議院選挙の公示直後に改訂したものだった。

結党時の規約(A)では、「代表」は複数選任可能で、「各代表」が党を代表するとされていた。また、幹事長、政調会長人事も、「代表」が指名するが、両院議員総会承認を必要としていた。それが、改訂版(B)では、「共同代表」は「代表の指名により、代表を補佐する役割を担う」とされ、幹事長、政調会長等の役員も、「両院議員総会の承認」は外され、「代表の指名」のみで任命が可能とされた。

しかも、「ガバナンス長」という耳慣れないポストは、結党時の規約(A)では、その任務が「コンプライアンス及びガバナンスの構築の統括」に限定されていたが、公示直後の改訂(B)によって、「国会議員の候補者の公認、推薦」や、「現役国会議員及び国政選挙の候補者となろうとする者の実力及び人物評価」など広範な権限を持つように変更されている。

つまり、「希望の党」の結党時の規約(A)は、国会議員以外の者が代表に就任した国政政党の規約として、相応に合理的で民主的なものであったが、衆議院選挙公示直後に、「結党時の代表」に権限を集中させる改訂(B)が行われたこと、しかも、その改訂の段階で、代表に指名される「ガバナンス長」が、国会議員の活動にとって重要な権限をすべて独占する方向で改訂されたということだ。

この規約の改訂(A B)は、若狭勝氏主導で行われ、「チャーターメンバー」の国会議員の会合で「了承」されたそうだ。結党時の規約(A)でも、規約改訂は、両院議員総会の承認が必要とされていたので、「チャーターメンバー」の会合での「了承」をもって、「両院議員総会の承認」とみなしたということのようだ。

当時の状況を思い起こしてみよう。9月25日、小池氏が突然「希望の党」結党表明し、民進党側が事実上の解党と所属国会議員の「希望の党」への合流によって、「政権交代」をめざして衆院議員選挙を戦う姿勢が明確になり、「希望の党」が、都議選と同様に圧勝することへの期待が高まった。「希望の党」の獲得議席数が100を超えることは確実視され、200に迫るとの予測もあった。結党時の規約(A)は、このような状況で作成されたものだった。つまり、この時点では、若狭氏が立ち上げた「輝照塾」の出身者など、「希望の党」が独自に擁立した候補者による獲得議席が相当な数に上ることを想定していたはずだ。

そのような前提で作られたのが、結党時の規約(A)だった。「結党時の代表」以外にも「代表」を置き、各「代表」を対等に扱い、役員人事も両院議員総会の承認に係らしめるという民主的なものだった。

しかし、その後、小池氏の「排除発言」を境に一気に逆風が強まり、若狭氏が、「政権交代は次の次」と発言したこともあって、政権交代への期待は急速にしぼんだ。結局、小池氏の衆院選への出馬もなく、10月10日の公示の頃には、自公で300議席を超える圧勝、「希望の党」の獲得議席は100にも届かないとの予想が一般的となった。小池旋風が逆風に変わったことで、「希望の党」の独自候補の当選は少数にとどまり、当選者の大半は民進党出身者となることが確実となっていった。

「独裁規約」への改訂の意図

結党時の規約の改訂は、このような状況の下で行われた。議員の大半が民進党出身者に占められることが確実になったので、党規約上、小池氏に権限を集中させ、それを後ろ盾に、若狭氏を中心とする少数の「希望の党」プロパー議員で民進党出身議員を抑え込んでしまおうという意図によるものだったことは明らかだ。しかも、改訂版(B)では、「本規約を変更するのが望ましいと代表が判断した場合」にのみ行えることになっている。小池氏自身が判断しない限り規約の改訂はできないので、規約上、「小池氏独裁」となるはずだった。

しかし、選挙期間中に、「希望の党」への逆風はさらに高まり、結局、規約改訂(A B)の中心となり「ガバナンス長」に就任することを意図していたであろう若狭氏も、小池氏から引き継いだ小選挙区で落選、比例復活もできないという惨敗を喫し、政界引退に追い込まれた。「希望の党」プロパーの候補者の当選者は、近畿ブロック単独2位に指名され、惜敗率30%余りで復活当選した候補1人という惨憺たる結果に終わった。

結局、若狭氏も含めて、「希望の党」プロパー候補がほとんど全滅したため、「党規約による小池氏独裁」の企みも「幻」に終わったのである。

若狭氏は、選挙後のテレビ出演で、

希望の党は要するに、立ち上げ、あるいは立ち上げた後も、選挙が直後にあるということですから体制が整っていなかった。その体制が整っていない中で、じゃあどうすればいいかというと、やっぱりリーダーというか、トップリーダーの人がどんどん進めていかなければ、決めていかなければ動かない。いわば会社でいうと創業者。創業者の、ある意味一人が、率先して会社をどんどんどんどん力強く動かしていくのと、ほぼ同じだと思うんですけどね。

などと発言していた(10月31日「ゴゴスマ」)。

しかし、実際には、結党時には比較的常識的な内容の規約(A)であったのに、「希望の党」への逆風が強まり、「希望の党」のプロパーの候補の当選者が少数になることが確実な状況になったことから、「規約による独裁」を目論んで規約改訂(A B)が行われたというのが真相のようである。

「独裁的規約」への改訂経緯は、政党の重大な汚点

前回ブログ記事】でも指摘したように、今回の改訂前の「小池氏独裁」の規約(B)は、政党の組織及び運営については民主的かつ公正なものとすることを求めている政党助成法の趣旨にも反する、民主主義政党としてはあり得ないものだ。このような規約が衆議院議院選挙期間中、公開もされないまま党規約となっていた。もし、「希望の党」のプロパー候補者が、10名程度でも当選していたら、小池⇒若狭ラインで、党の国会議員全体を支配するという恐ろしい構図になっていた可能性がある。若狭氏が、このような規約によって小池氏の「虎の威を借る狐」のように党組織の支配を目論んでいたというだけなのか、「チャーターメンバー」の国会議員も、その趣旨を理解した上で「独裁規約」(B)への改訂に賛成したということなのか。いずれにせよ、このような規約改訂の経過が、民進党から合流した候補者には全く知らされていなかったことは間違いないであろう。

「希望の党」の結党と最初の国政選挙に臨む際に、党運営の根本規範である党規約に関して、このような経過があったことは、政党としての一つの重大な汚点である。「希望の党」所属の国会議員全体が、そのことを肝に銘じ、民主主義政党に相応しい規約と党の組織を持った政党をめざし、現在の規約(C)をさらに進化させていくべきであろう。

(2017年11月8日「郷原信郎が斬る」より転載)