幸田文の生き方とは−今こそ会いたい作家、世田谷文学館で初の本格的な展覧会

「人には運命を踏んで立つ力があるものだ」。自らの子供時代をつづった随筆「みそっかす」でそう書いたのは、作家・幸田文(1904年〜1990年)だった。明治の文豪の父・幸田露伴を看取ったのちに40代で遅咲きの文壇デビュー、「流れる」や「おとうと」など珠玉の作品をあまた残した。どんな苦境にも曲がることなく、幼い頃からその身の内にあった種をゆっくり育み、すくっと立つ大樹のごとく生きた幸田文の人生に光をあてた展覧会が、東京・世田谷文学館で開かれている(12月8日まで)。
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猪谷千香

「人には運命を踏んで立つ力があるものだ」。自らの子供時代をつづった随筆「みそっかす」でそう書いたのは、作家・幸田文(1904年〜1990年)だった。明治の文豪の父・幸田露伴を看取ったのちに40代で遅咲きの文壇デビュー、「流れる」や「おとうと」など珠玉の作品をあまた残した。どんな苦境にも曲がることなく、幼い頃からその身の内にあった種をゆっくり育み、すくっと立つ大樹のごとく生きた幸田文の人生に光をあてた展覧会が、東京・世田谷文学館で開かれている(12月8日まで)。多才な人材を輩出してきた幸田家にあって、幸田文ひとりに焦点をあてた初の本格的な展覧会。初公開を含む原稿や着物などの資料300点を展示し、幸田文の生き方を浮き彫りにする。

■「みそっかす」からベストセラー作家へ

心の中にはもの種がぎっしりと詰っていると、私は思っているのである。一生芽をださず、存在すら感じられないほどひっそりとしている種もあろう。(中略)何の種がいつ芽になるか、どう育つかの筋道は知らないが、ものの種が芽に起き上がる時のちからは、土を押し破るほど強い。

展覧会「幸田文展」の冒頭、晩年の作品「崩れ」の一節が紹介されていた。「種」とは、家族の性格から受け継ぐものもあれば、若い日に読んだ書物からもらったもの、あるいは一本一草、鳥やけものからもらうものもあり、心の中いっぱいに満ちているのだという。展覧会では、幸田文が持っていた「種」や、それが芽吹き育つさまを、多数の資料をひもとき、丁寧に紹介している。

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幸田文は露伴の次女として、現在の東京都墨田区東向島に誕生。聡明でかわいがられた姉と一人息子で大事にされた弟に挟まれ、自分は「みそっかす」であると感じながら育つ。早くに母と姉を亡くし、病弱だった継母に代わって、少女の頃より露伴に家事一切を厳しくしつけられた。24歳で清酒問屋に嫁ぎ、一人娘(作家・青木玉さん)をもうけるが、33歳で離婚。実家へ戻って戦火の中で父を介護し、最期を看取った。

父との思い出をつづって43歳で作家デビューを果たしたが、「私が文章を書く努力は私として最高のものではなかった」と断筆してしまう。父への追慕から離れ、「何でも書ける人間としてでなくては」と、向かった先は柳橋の芸者置屋だった。名を伏せて住み込みで働き、体当たりの経験をもとに小説「流れる」を発表。映画化されて日本芸術院賞も受賞するなど作家としての地位を高めた。続いて、結核で夭折した弟のことをつづった「おとうと」も好評となり、デビューして10年で早くも「幸田文全集」(中央公論社)が刊行されるなど、充実した執筆の日々を送る。

■厳しくて優しい日常へのまなざし

展覧会は、作家として開花してゆく幸田文の人生を年代で追っているが、作品だけでなく、露伴に鍛えぬかれた美意識や自身で体得した暮らし方についても、身の回りの品々を通じて紹介している。たとえば、自ら刺繍した花模様の半襟や、玉さんのため袖先に小花模様をあしらった黒の羽織、裁ちかけの浴衣など大切に受け継がれてきた箪笥の引き出し。幸田文は着物とともに、こんな言葉を残している。

和服をきるのには、上前下前(うわまえしたまえ)をかき合わせて着ます。あれは自分を大事にして、いとおしむ形だとおもいます。いつも、着物が私を大事にしてくれるな、といった感じがして私は着ているんです。(「振り袖を買う」より)

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暮らしの中から生まれた随筆には、こんな言葉もあった。

心の凍てつくとき、目を閉じて、身は伊豆のいで湯の中、と思ってごらん。

湯を思えば、湯はきっと答える。(「こわれた時計」より)

無い、と有体に正直に早くいってしまえば、たちどころにその一言の“無い”が味方になってくれるのです。金がない、物がない、なんにもないの場合に、役立つものといえば心と、心から出る言葉しかないのです。なにもないということを素直に認識して、正直にそれをいえば、気もらくになるし、解決の道もひらけようというものです。(「ございません」より)

幸田文が残した言葉には、厳しさと優しさが同居し、今なお心に響く強さがある。

■心の発芽をおろそかにしない

幸田文の中で芽吹いた「種」は、晩年になっても伸びやかにその枝葉を伸ばした。60代で、戦時中に落雷で焼失した奈良・斑鳩の法輪寺三重塔の再建に奔走。ライフワークとして北海道の「トド松の枯れ林」、福島県の「三春の滝ざくら」、鹿児島県屋久島の「縄文杉」など、各地の樹木を見て歩き、その生命力を描いた連載「木」を執筆した。木を見た先に、今度は山の崩れに出会う。70代からは静岡県の「大谷崩れ」を始め、全国の山河の崩壊地を行脚した。自然が抱える強さとやがて訪れる衰えを、老境の幸田文はその目で見届けている。これらは没後、「崩れ」「木」として刊行された。

富山県常願寺川上流の鳶山の崩壊現場を見に行った際の写真が残されている。人に背負われ、急峻な斜面を登る幸田文。玉さんの長女で、作家の青木奈緒さんは孫から見た祖母の姿を展覧会の図録にこう寄せている。

晩年の祖母はあちこちに木々を訪ね、その先に山の崩れを見た。普通なら家で孫に囲まれて気楽に過ごしたらよさそうな歳になって、なぜ滅多に人も行かないような奥地へ、ときには他人様の背中を拝借してまで行こうとしたか、疑問に思う方は多いかもしれない。

それでも身内にとってはなんの不思議もない祖母の姿である。興味をひかれることに出会ったら、その心の発芽をおろそかにせず、自ら行動をおこして知ろうとする姿勢は生涯を通じ一貫している。

■幸田家に残されていた「五重塔の心柱の燃え残り」

一般公開に先駆け、10月4日に開かれた内覧会には、玉さんと奈緒さんも訪れた。玉さんは展示について触れ、「幸田さんはこういうことを考えていたみたいだけれど、こういうふうな景色も出てくるんじゃないかな。こういうようなことも考えられるんじゃないかな。実に細やかなお心づかいを頂いたと思います」と話した。

また、「うちの母は一生、苦労が多かった。何もそうまで苦労をしなくてもよかったような気もするぐらい、苦労が多うございましたけれど、その後にこうやってみなさんがお越しくださり、身内の者にとってはこの上ない、母が幸せなことを得たと今日、しみじみ思わせていただきました。文学館のみなさんのご尽力に感謝いたしますとともに、ここまでお運びくだすったみなさんにどうもありがとうございますと申し上げます」と謝辞を述べた。

展覧会では、幸田家に残された品々が展示されているが、中には露伴の小説「五重塔」のモデルで、昭和32年に焼失した東京・谷中の五重塔の心柱の一部もあった。奈緒さんは展示品を選んだ時のことをこう振り返る。「この夏の暑い時にも何度も(自宅を)訪ねてくださいまして、うちにある物置の中の資料、本当にほこりだらけのものでございます。谷中の五重塔の心柱の燃え残りなんてほこりだらけだったものです。それをひとつひとつご覧くだすって、どれをお目にかけたらよいか、いちいち気をつけて考えてくださったんです。不肖の孫としては、祖母に対して母と一緒に、これで面目が立ったかなという気がいたしております」

この日、奈緒さんは艶やかな着物姿だった。ここにも、家族のエピソードがこめられている。「この着物は祖母がわたくしに作ってくれた着物です。一押しの着物でした。わたくしは昭和二桁、消費は美徳な時代に生まれたにも関わらず、たいそうもったいながりで、またちょっと着る場所をみるような派手さがございまして、あまり着る機会がなかったものでございます。祖母の着物というのは、わたくしが若い頃のことを想定しております。わたくしはどんどん年を取ってしまいますけれども、着物は年をとらないものです。着られる数少ない機会が祖母への供養だと思っております。今日は母と一緒にこちらへ伺えて、本当に幸せでございました」

■「会ってみたかった」幸田文

この幸田文展には、「会ってみたかった。」というキャッチコピーがつけられている。それは、もしも幸田文が現在も生きていたら、今の私たちの国、社会、暮らしをどう見るのか。ともすれば、見失いがちなものをその確かな目でとらえてほしいという願いのあらわれなのかもしれない。人が持つ「運命を踏んで立つ力」を信じて生きた幸田文。今こそ、その言葉、その生き方から私たち何かを得ることができるのではないだろうか。