私の本当の名前は鈴木綾ではない。
かっこいいペンネームを考えようと思ったけど、ごく普通のありふれた名前にした。
22歳の上京、シェアハウス暮らし、彼氏との関係、働く女性の話。この連載で紹介する話はすべて実話にもとづいている。
個人が特定されるのを避けるため、小説として書いた。
もしかしたら、あなたも同じような経験を目の当たりにしたかもしれない。
ありふれた女性の、ちょっと変わった人生経験を書いてみた。
◇◇◇
「落ち込んでいるときは出かけた方がいい」と子供のとき、母によく言われた。「出かけて人と交流すれば脳がセロトニンを分泌して気分がよくなる」
モラハラっぽい彼氏といつも喧嘩して気分が落ち込んで母の言葉を思い出して、本当かどうかはわからないけど自分で「セロトニン治療」をやってみた。
イベントに招待されたら、必ず参加した。ジムに通い始めた。お茶を勉強した。料理教室に行った。そして、友達からの飲み会の誘いを受けた。
飲み会のメンバーはすでにみんな仲良かったからテーブルの端の席に座っていた私はあまり会話に入れなかった。向こうの席にいた男性もあまり会話に参加してなかったら、声をかけてみた。
彼の名前は健太だった。5分話したら、お互いが同じところで育ったということがわかり、地元の話で盛り上がった。東京に来てからはじめて同じ出身の人にあったので、砂漠のなかで水を見つけたような気がした。
健太もラップとクラブ音楽が好きでマイナーなアーティストをよく知っていて感心した。地元の大学で国際開発を勉強して将来新興国で国際開発の仕事をしたかったけど、説明会で適当にエントリーシートを出した金融関係の会社から内定もらって入社したと言った。
「世界を変えようと思っていたんだよ。だけど結局日本のジジババたちのお金を運用してるだけ。綾が夢に妥協せず東京に来たってすごい」と健太が目を大きくして言った。
私の仕事について色々聞かれた。久しぶりに人があんなに私の仕事に興味を示してくれて本当に嬉しかった。
「綾みたいに意味のある仕事をしてる人、羨ましいな。綾みたいな人の話を聞くと、会社をやめてそういう意味のある会社を作りたくなるな。社会に貢献して」
「作ればいいのに!どんな会社?」
「日本人はあまりお金の運用の仕方分かっていないので、みんなが簡単かつ安くお金を運用してもらえるサービスを考えてる。今証券会社は手数料すごいとるから。海外にロボアドバイザーというサービスがあるんだけど...」
「面白い!あったら若者もそういうサービスを絶対使うと思う」
「そうだ。若者は本当に3,4万から投資ができたらいい」
「会社のお客さんにインキュベーターがいるのでよければ紹介するよ」
「本当にいいの?」
「いいよ」
確かに健太の夢だったけど、私は篝火に飛んでくる虫のようにその夢の明るさにつられていた。もう離れられなさそうだったから、帰る時間になったらわざと健太を避けて連絡先を交換しなかった。
そこから数週間後に別の飲み会でまた一緒になった。
「綾のことを調べたけど、本当にすごいね。すごい仕事してるね」
彼が調べてくれて嬉しかった。宿題をちゃんとする人だな、と思った。
「綾がこの間会社を作ればいいって言ってくれたけど、そのあと色々考えた。やった方がいいよな」
二人がカンパリソーダをちびちび飲みながら周りを忘れて健太の起業の話に没頭した。
翌日から具体的な詳細をメールで議論し続けたり、好きな音楽を送り合ったりした。面白いことにFacebookでは友達にならなかった。久しぶりに真面目に長文のメールを書いてどきどきした。
健太はもしかして太郎より私のことを分かってくれているかな、健太と付き合うのもいいな、と心の片隅でときどき思った。健太は付き合っている人がいたけど、コーヒー飲みながらスタートアップのことを話そうと誘ったら食いついてくるかな、と何回も誘った。
健太はいつも忙しくしていて、飲む約束をしても仕事が遅くなってドタキャンしたりした。
健太は事前に会う計画をあまりできない人だとなんとなく分かってきた。
だからまた数週間後にいきなり健太に飲みに誘われてびっくりした。
「明日の夜、会社の人たちと8時から渋谷のバーで飲んでるけど、綾も来ない?」
健太がどうせドタキャンするんだろう、と予想しながら8時半にバーに着いた。健太はもう二人と一緒にすでに飲んでいた。お店に入った瞬間から健太と私の間に「なにか」があることを感じた。
それをなんとなく分かった他の2人は私と健太が自然と近づける余裕をくれた。さすが健太、バーの音楽は最高だった。会話を独占している人もいなくて4人の話がいい感じに平等に盛り上がって、気持ちよく酔っ払った。健太が立ち上げる予定のベンチャー起業の話もたくさんして、何回も「健太社長にかんぱい!」とグラスをあげた。
高校時代に地元ではやっていた懐かしい曲が流れた。健太も同じところで育ったので彼はもちろん知っていた。
「一緒に踊らない?」とすでにテキーラを4杯ぐらい飲んでいた健太が私に聞いた。
私は実は踊るのが得意だけど、それを見せるのがいつも恥ずかしい。その日はちょうどその恥ずかしさが忘れられるぐらい酔っ払っていた。頷いて健太の手をとった。
はじめて健太の肌を触ったときに感じたお互いの体の確実な相性に驚いた。健太とはどういう人かまだあまり知らなかったけど、そのときに感じたぬくもりはお酒のせいじゃなかった。お互いが「ただ踊っているだけ」と言えるか言えないかぐらいのギリギリのラインで音楽に合わせて体を動かした。
バーやクラブを出て渋谷の眩しいネオンに出ると酔いは悪い意味で冷めちゃいがちだけど、真夜中過ぎてバーを出てたこ焼きを食べに行ってもみんなまだ楽しんでいたし、笑いながらたこ焼きを食べていた。そしていつの間にか健太の友達がどっかに消えていて、健太と2人で夜中の渋谷をうろうろ歩いていた。
「綾はなかなか見えない渋谷の景色、見たい?」
センター街の方の7階建ての建物(私がよく行くワンコインランチのお店が入っている建物)の外の階段を登って最上階にあるフェンスを超えて誰かが残したはしごを登って屋根に着いた。フォーエバー21の看板と他のセンター街の建物が見えてなかなか迫力のある眺めだった。
「ここどこ?」と私が興奮して健太に振り向いて聞いた。
健太は答えずに近づいてきた。私は恥ずかしくて屋根の上に横になった。
「何してんだ」と健太が笑って一緒に横になってくれた。
真上を見たらロフトのでっかい看板がそびえていた。横になっていたから看板の文字が逆に書かれたようにみえた。
「t・f・o・l。たふぉーる?」と私は健太の顔を見て笑って言った。
彼はキスをした。お互いの体が溶け合っていた気がした。
屋根の上、たふぉーるの看板の下でどのぐらいキスしあって抱き合っていたか覚えていない。いつかは必ず実現するような欲求に正直に応えて開放感に圧倒された。
健太がようやく立ち上がって、私を立たせた。
「明日仕事があるから帰らなきゃ。綾もそうでしょ?」
また長い歴史のある恋人たちみたいにキスして、二人で降りた。健太が私にタクシーをひろってくれた。
タクシーの後ろの窓で手を振っている健太がますます小さくなっていくことをずっと見た。
仮に一生二度と彼に会わなかったとしてもその夜に関しては何の後悔もない、と思った。
(続く)