私と民族国家とキム・ヨナ

ソチ冬季オリンピックが幕を閉じた。今回のオリンピックは韓国人にいい思い出だけを残したとは言えないだろう。釈然としない判定で金メダルを逃したキム·ヨナ選手のためだ。キム·ヨナ選手の件で、想像以上に多くの人々が怒った。
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ソチ冬季オリンピックが幕を閉じた。今回のオリンピックは韓国人にいい思い出だけを残したとは言えないだろう。釈然としない判定で金メダルを逃したキム・ヨナ選手のためだ。キム・ヨナ選手の件で、想像以上に多くの人々が怒った。怒りの要因は一つではないだろうが、何より「不公正」への不満が挙げられるだろう。

今回のオリンピックでのフィギュアスケート女子の結果は、国内外を問わず、専門家の間でさえ議論になった。別に専門家でなくても、比較的簡単に「不当性」に気づいただろう。オリンピックという、不正があれば大規模な怒りが起こりやすい条件だったことも一役買っただろう。

そのような怒りの奥底を見ると、韓国社会の素顔がある。民主主義社会の基本原則である機会の平等さえまともに確保されず、既得権のための法治主義だけが存在し、様々な特権など不正が横行する韓国で、平凡な市民として生きるということは不公正に敏感になるということだ。数年前、韓国の書店を席巻したマイケル・サンデルの「正義とは何か」の流行は、その証拠だろう。

にもかかわらず、ナショナリズムという古い分析方法を呼び起こすしかないのは、次のような理由からだ。まず、今回のオリンピックでショートトラック女子のパク・スンヒ選手とぶつかって彼女を転倒させた英国の選手への韓国人の怒りも大きかった。フィギュアスケートの不公平な判定の背景(?)と思われる主催国ロシアと、金メダリストのソトニコワに見せた過度の攻撃性も好ましくはないだろうが、少なくとも不公正さへの抗弁というそれなりの正当性は持っていた。しかし、パク・スンヒ選手と交錯した英国の選手は「不公正」ではなく「不可抗力」によって結果的に韓国の選手を妨害したのに、インターネット上で韓国人の無分別な攻撃対象となり、最終的に自分のSNSを閉鎖した。

第2に、2010年のバンクーバーオリンピックで金メダルを獲得する前のキム・ヨナだったら、韓国人の怒りはこれほどではなかったはずだ。キム・ヨナ選手は世界が競争するオリンピックという最大の舞台で成果を出し、韓国人のプライドを高める象徴的な人物となった。オリンピックはナショナリズムを強化、再生産する代表的なメカニズムとして、フィギュアに興味のない人でも、自分の国や同じ韓国人を応援する気持ちにさせる。試合で大多数の韓国人が集中するのはフィギュアの美学ではなく、キム・ヨナがミスをするかどうか、点数、そしてメダルの色だ。キム・ヨナのような優れた選手が再び登場してこなければ、大多数の韓国人たちはもうフィギュアスケートを見ないだろう。サッカーに興味がなく、うるさい音楽を好まない人が、世界最高のチームで活躍したパク・チソンと、YouTube再生回数1位に輝いたPSYを絶賛するのは昨日や今日始まったことではない。

最後に、「私たち」ではなく「相手」が不公正の犠牲になった場合、激しい怒りはなかっただろう。2002年のワールドカップで韓国が勝った準々決勝の韓国―スペイン戦は、判定への議論があったのに、韓国では不公正だという問題提起はあまり聞かれなかった。不当さへの「大きな怒り」は、本質的に自分自身や自分に近い人々が被害を被ったとき誘発されるのだろう。私と民族国家とキム・ヨナを同一視させ、キム・ヨナのことをまるで自分のことのように感じさせるナショナリズムがなかったら、怒りはそれほど大きくなかっただろう。

もちろん、韓国からロシアに国籍を変更して活躍した「ビクトル・アン」(アン・ヒョンス)への支持と、「あなたはキム・ヨナではなく大韓民国」とうたった広告に世論の大勢が批判的に反応したのを見て、韓国のナショナリズムが薄まるのではないかとも期待した。しかし、それも結局、自分に何もしてくれない韓国という国への恨みと、韓国人としての誇りを高めてくれる2大スポーツスターへの愛情が共存するからではないだろうか。ナショナリズムが国家主義と民族主義を包括する概念であることを考えると、前者はかなり退潮したが、後者はまだ有効な力を発揮すると言えるだろう。条件さえ整えば韓国を離れたいという人も多く、実際そうする人もいるが、それでも韓国人のアイデンティティーを捨てるのは容易でないことは韓国を離れた移民が証明済みだ。

キム・ヨナ現象の根源にあるナショナリズムを指摘するのは、それほど重要なことではないかもしれない。韓国人すべてが自分のナショナリズムを自覚しているからといって、「他者」や「他の集団」より「私」と「私たち」がよければいいという原始的な感情が簡単に消えるかは疑問だ。

問題は依然として少なからぬ人々が、国家と民族の名前に包まれた少数の既得権の利益を、自分の利益と同一視しているということだ。財閥企業の自動車や半導体産業などの輸出増大のため、中小企業や農民を犠牲にするFTAが「私たち」が住む「国」の発展のためには仕方ないという論理だ。そうした状況を助長するナショナリズムが、自分と関係ないキム・ヨナ選手の成果をまるで自分のことのように誇るナショナリズムの論理と、どれほど明確に区分できるかはわからない。

不公正な世の中に飽きた人々が、自分自身に潜む怒りを、1年で数百億を稼いで皆に尊敬される国家代表のスター選手に注いで解消している今の状況は肯定しがたい。キム・ヨナ選手は確かに「私たち」だが、ナショナリズムで想像された「私たち」よりも、自分とより近い境遇にある人々を、より近い「私たち」と考えられるようにするには、どうすればいいだろうか。

韓国に住む大多数の市民は、韓国のブランドパワーを高めてくれるサムスンの所有者ではなく、劣悪な作業環境で働いて難病になっても労災認定すら受けられないサムスンの労働者により近く、国家の発展のためという古い美名の下で生きる基盤を踏みにじられている密陽(注:韓国電力の高電圧送電線の建設を巡って反対運動が起きている地方都市)の人々と「私たち」で結ばれる方が自然だろう。

イ・ファンヒ

ユン・ジョンシン(歌手)公式ファンクラブ事務局長、「緑の党」青年部共同運営委員長

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