高倉健の生き様が示す、日本人が忘れたものとは。映画「健さん」日比遊一監督に聞く

「一人の日本を代表する大スターを通して、今の平成の世の中に欠けているものが映し出せたらと思って撮ったんです」
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2014年11月に死去した俳優の高倉健。その人物像や、時代に果たした役割をインタビューでたどったドキュメンタリー映画「健さん」が、8月20日から全国で公開される。

日中合作映画「単騎、千里を走る。」(2006年日本公開)で高倉健と共演した中国の若手俳優チューリンが、高倉健の故郷・北九州や東映の撮影所、大阪・新世界の名画座など、ゆかりの地をたどり歩くという設定で映画は進む。

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「幸福の黄色いハンカチ」(1977年)の山田洋次監督、同じ東映の降旗康男監督や俳優の梅宮辰夫(写真)、「ブラック・レイン」(1989年)で共演したマイケル・ダグラスやマーティン・スコセッシ監督、ジョン・ウー監督といった海外の著名人、そして高倉健の親族ら、半年かけて約40人にインタビューした。礼状を欠かさず、多忙なスケジュールを縫って世話になった人との交流を続けるなど、律義で几帳面な性格が伝わるほか、三島由紀夫を描いた映画「Mishima」のポール・シュレイダー監督が知られざる高倉健の起用構想を明かしたり、山田洋次監督は本人に出演を断られた意外な役柄について回想する。

ニューヨークへ渡って約30年。写真家でもある日比遊一監督に、作品について聞いた。

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――日比さんは東映ヤクザ映画の世代ではないですよね。

その通りです。僕は最初、俳優になりたくて名古屋から東京に来た。その頃は池袋や新宿や鶴見のオールナイトで上映していましたけど、いちばん大きかったのは日活の撮影所で知り合った松田優作さんに勧められてニューヨークに渡ったあと、言葉が通じなかったり友達が出来なかったりしたときに、高倉健さんの映画を見たり書物を読んだりして、生き方、考え方に僕自身が元気をもらった。孤高の生き方、アウトローなんだけど筋を通す姿に美学を感じたということでしょうね。健さんは僕のバイブルみたいな人だったんです。「ブラック・レイン」の撮影も遠くから2回ほど見ていました。

――そういう縁が30年近く経って結びついてくるわけですね。

はい。不思議なことです。

庶民が手の届かないカリスマ俳優にしてしまうんじゃなくて、世界の著名人が、寡黙で律義で現場で座らないなど、どうすごかったのかをきちんと説明する映画にしなければだめなんじゃないかと思ったんです。

それに、海外にいると、日本を代表する俳優とは三船敏郎さん、今は渡辺謙さんなんですよ。渡辺謙の前に高倉健ありというのを知らしめたかったこともあります。

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――振り返ると、高倉健は日本の歩みそのものでもありました。高度成長とともに現れ、どこか置き去りにされた人の心を描いていた。そしてアメリカで評判を得て、アジアに活動の場が広がっていく。

僕自身が1964年、東京オリンピックの年の生まれなんですよ。自分自身の人生と照らし合わせてつくった映画でもありますね。

――ニューヨーク、ロサンゼルス、中国、韓国。日本は北海道から九州までを訪ね歩いて撮影したのですね。

高倉健さん自身が旅人でした。映画が終わると旅に出る人でした。そういう目に見えない部分も人生のエッセンスなんです。だからあの人が見たであろう光景を、また撮ったつもりなんです。ニューヨークで登場した場面も、「ブラック・レイン」のオープニングで、マイケル・ダグラスが走ってる場所なんです。

――だから新世界から映画がスタートするんですね。

そうです。中井貴一さんや薬師丸ひろ子さんといった人を起用する案もありました。だけど今、高倉健さんを知らない人が多いんで、チューリンという、1本共演はしたけれど、高倉健さんをほとんど知らない中国の若手俳優をナビゲーターにして、映画も進めていきました。

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――「幸福の黄色いハンカチ」は、今までの路線を大きく変えるものでもありました。

高倉健さん自身が任俠映画の俳優から変わりたかったんじゃないですか。絶対そう思いますよ。あの時代にあちこち海外に行って、いろんな監督やプロデューサーに出会って、影響を受けないわけがないですよね。俳優として欲も出てくるでしょう。でも、僕は任俠映画がなかったらその後の高倉健さんはないと思いますよ。

――映画の中で高倉健さんが送った達筆な手紙が紹介されていて、それが映画のアクセントになっています。

私も高倉健さんに影響されたというと大げさだけど、東京に出た後の手紙は、両親も含めて全部保存してあるんですよ。今の人って手紙書かないでしょ? 手紙を書くときや、もらうときの幸せを、今の人は知らないから。今回出てもらった人には、オファーも感謝状も含めて、連絡先の分からない人以外は全部書いてますね。マイケル・ダグラスは30通ぐらいやりとりしてるんじゃないかな。その手紙のやりとりで情熱を分かってくれたと思いますよ。

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――マイケル・ダグラスはどんな印象でした?

嫌なイメージないですか? 「ウォール街」とか(笑)。だから構えてました。だけど素晴らしい人だった。彼は「カッコーの巣の上で」や、ジョン・ウー監督の「フェイス/オフ」など、プロデューサーとしても活躍しているから。引き受けた以上はこの映画に求めているものをきちんと出してあげようという思いがあったんだと思います。もちろん、その裏に高倉健さんがいたからできたんですけど。

――ラストで、インタビューした人が健さん、健さんと呼びかけますね。

僕はドキュメンタリーを撮るときも脚本を書くんですが、最初から構想にありました。庶民の大スターが心に響くようにするにはどうしたらいいかと思いまして。

――ドキュメンタリーでは異色ですね。

でもドキュメンタリーという感じがしないでしょ? 一人の日本を代表する大スターを通して、今の平成の世の中に欠けているものが映し出せたらと思って撮ったんです。外国人には分からない日本人の美しさ、本音と建前や、独特の所作、言葉遣いや目上への敬意というものも含めて。昭和の人の立派な生き方というかね。みんな西洋人になろうとして、カジュアルであることがいいと思っているけど、一生懸命やることのすばらしさとか。

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僕は平成に変わる頃に渡米したので、日本にいる日本人よりも日本人だと思うことが多いですよ。今の日本人が失っているものは本当にいっぱいあると思う。それが高倉健さんの生き方にあったんじゃないか。もう一度、この人の人生を振り返って、それを思い出して欲しい。一生懸命やることがバカバカしいとか、ナンセンスですよ。海外に行くのも今の人はためらうらしいけど、大したことじゃないんですよ。

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