化石化した韓国政治

韓国で政治が衰退してしまったのは、人間の経験に基づくファシズム的アプローチや過度な産業主義のせいである。

文在寅大統領が9月に平壌を訪れた際、最も印象的だったのは15万人もの平壌市民を動員した巨大な綾羅島メーデー・スタジアムで演説したことである。男女を問わず熱気に包まれた観衆の歓声は多少驚かされるものであったが、文大統領自身もこの熱烈な反応に高揚している様子がはっきりと窺えた。文大統領の述べる言葉のひとつひとつが観衆の歓声でより一層力強さを増したようだった。金正恩委員長について言及する場面では、文大統領と平壌市民はまるで「一体化」しているかのようにも見えた。確かに言えることは、本国の韓国では防弾少年団(BTS)やiKONのコンサートでなければ、このような熱狂的な観衆の姿は見られないということである。

文大統領にとってはとても感極まる瞬間だったことであろう。北朝鮮の演出ではあったが、むしろ、韓国でも支持層集めのために各界の重鎮の前で跪いてお辞儀する意味のない儀式が政治的パフォーマンスになっており、今や慣例になった政治的パフォーマンスは自分がいかに親しみやすい人物であるかを証明するための単なる手段でしかなく、世間の人々の注目を集めるためには全く面識がなくても、また、今後も決して顔を合わせることのない人たちとでも、気軽に一緒にポーズをとる、そんな政治的パフォーマンスはよく使われている。

しかし、文大統領の目に映っていた状況は違う意味のものである。スタジアムに集まった観衆は権力による支配の産物といえるもので、おそらくそう思われてもある程度は仕方がないことではあるが、観衆自体からはみなぎるパワーが感じられた。平凡な北朝鮮市民の政治への献身は単なる独裁政権の証だと一蹴してはならないと私は思っている。大規模な集会や完璧なマスゲームの裏には相当なショーマンシップや心理学的にもただならぬエネルギーが要されるのである。

韓国では今やそういった光景は昔話になってしまったといっても過言ではないだろう。もちろん、2016年に朴槿恵を政権から引きずりおろしたろうそくデモはまだ記憶に新しい。ろうそくデモはハイレベルな政治参加への文化をもたらし、朴槿恵政権を倒すという当初の目標からすれば、成功したといえる。しかし、朴槿恵政権の裏に潜んでいた制度的腐敗、韓国経済に大きな影響力を及ぼすようになり新たに浮上した海外投資銀行、トランプ政権への盲従的な支持や執着、イランと戦争しようとするアメリカ内のネオ・ファシズムに対しての完全沈黙、等の問題は全く改善されていない。文大統領は「ろうそく革命」で誕生した大統領としての神話が消えつつある。

韓国で政治が衰退してしまったのは、人間の経験に基づくファシズム的アプローチや過度な産業主義のせいである。暮らしのありとあらゆる面でサービスが有料提供されるようになった。健全でない文化が韓国の出生率をかつてないほどに低下させてしまい、それに加えて、最近ではイエメン難民への不満が一気に噴き出し、それが移民者への敵対心となった。

結果的に老衰してしまった社会は高齢者が政治をほぼ支配していることを意味している。実際、政財界で決定権を握っているのは70歳以上の男性である。この問題は富の集中によりさらに深刻になってしまった。ほとんどの若者は政治プロセスからは疎外されており、ごく一部の若者しか政治参加への強い意志は見られない。多くの若者は変化への希望を諦めてしまい、スターバックスでコーヒーを飲んだり、ゲームやポルノ等で現実逃避することしか興味を示さなくなってしまった。まさに政治が崩壊してしまったのである。

リベラリズムは80年代の民主化運動や2000年代初めの盧武鉉政権に影響を及ぼした勢いをほぼ失くしてしまった。とりわけ、目につくのはリベラル的な政治論争が狭い範囲のシンボル的問題に限定されてしまったことである。太平洋戦争当時、日本軍が性的虐待を行なった「慰安婦問題」については限りなく議論される一方で、今日、韓国人男性が行なっている移住女性への虐待について関心を示す者はほとんどいない。農民の生計を脅かす自由貿易についてはタブーなテーマになってしまった。

老年期を迎えたリベラル指導者のほとんどが80年代の「民主化運動」の追憶に浸ったままで、今日の労働階級の若者たちが直面している深刻な問題は把握していない。彼らはアメリカの民主党員と同様に、企業との緊密な協力よりは左派からの批判にしか関心を示さない。結局、年老いた指導者たちのほとんどが相当な資産の所有者であり、より公平な社会を作ることよりも自分の身内がよい大学に進学できることにしか余念がないのである。

ところで、つい最近、非常に影響力を持つリベラル系政治家が主催する本のサイン会に招かれた。その会場では今年53歳になる私が最年少参加者であるという事実に衝撃を受けた。絶滅した恐竜のアロサウルスやディメトロドンのように化石化した参加者たちは70、80年代の学生闘争の話を何時間も延々とした後に、その当時の歌を歌いあった。参加者たちは民主主義について語ったり、何人かの保守政治家に対しての批判は行なったが、熾烈な学歴競争社会が支配する悪夢のような世界で必死に生き残ろうと歯を食いしばっている普通の若者たちが直面する現実については一切口にしなかった。

一つ確かなことは、衰退してしまった経済のもとで日々塾通いや仕事に追われる韓国の若者たちはそのイベントについて何も知らなかったということである。しかし、もし、若者たちがそのイベントに招かれたとしても、有意義な時間を持てたと思う者は誰一人としていなかったであろう。

また、先月、リベラル系の書店で友人と一緒にコーヒーを飲む機会があった。その書店に陳列してあった韓国語の教育、経済、社会、文化関連の本はたいへんすばらしかった。書店の社長は現代社会について真剣に考えている知識人であった。しかし、年配の知識人が作った知識空間と現代社会で自分の道を見出そうと孤軍奮闘する一般人の間では埋められない溝があるように見受けられた。韓国各地のカフェやコンビニであくせくと働いている多くの若者は、リベラル系書店にある本を読むことで得られるものがあるはずである。おそらく最近の若者は読書習慣をあまり身に着けていないであろうが、本を読むことで現代社会でも真の価値を見出せることはできるであろう。

確かなことは、若者たちはリベラル系書店が存在することも知らず、書店に埋め尽くされている書籍をあまり身近に感じてないということである。残念ながら、若者たちは自分たちが置かれている大変な境遇への共感を歌謡曲の歌詞から見出そうとしている。よかれと思ってリベラル系書店を営んでいても、高等教育を受けた裕福な経営者には現代社会であくせくする人たちへの接近法はわからないのである。

私は韓国で過ごした11年4ヶ月の間、リベラルな非政府組織(NGO)で活動してきたが、どのNGOでも参加の文化が非常に薄れてきたので、活動からは全部身を引いた。そのNGOからは未だに会費の支払い請求があったり定例会議にも招待を受けたりするが、それ以外の行事には参加する機会もなく、私が積極的に参加して手助けできるものもなかった。会員資格がさほど重要でないことは明らかである。むしろ、定例会議にはリベラルの裕福な寄付者の方が必要に思えた。わかりやすく述べると、リベラルの寄付者はグリンピースの活動家がホッキョクグマを守るキャンペーンを展開するように自分の活動を見守るだけである。グリンピースはホッキョクグマに意見したり会員登録を要請したりすることはなく、リベラル団体は労働階級の人々には加入要請も行なわない。

私が最も力を入れてきたNGOは参与連帯なのだが、ソウルと大田の会員として活動してきた。当時、外国人を含む韓国内の全労働者を対象としたセミナーを開催して、労働者が求める事項についてはよりわかりやすくするべきだと主張してきた。私が求めたのはNGO事務所と参与連帯のホームページにイベントを公示することだけだった。しかし、私の提案は受け入れてもらえなかった。

ところで、4ヶ月前に参与連帯側から脱退理由を問う電話があった。私は理由も説明して、業務担当者に直接会ってもっと積極的に参加できる方法が話し合えたら、また喜んで参加する意志を伝えた。しかし、それに関しての回答は得られなかった。

ならば、韓国の保守主義者の状況はどうかというと、残念なことに、政治の化石化は保守陣営の方がもっと深刻である。光化門広場では保守陣営のデモが定期的に行なわれているのだが、このデモに参加しているのは韓国、アメリカ、イスラエルの国旗を手にする老人たちが大多数である。理由は定かではないが、保守政治家たちが日本との親密な軍事協力を推進しているにもかかわらず、日章旗を手にしている者は見当たらない。

こういった集会では反共、ドナルド・トランプ米大統領のキリスト教界への支援、朴槿恵元大統領の釈放、60、70年代の漢江の奇跡への賞賛、等が主なテーマになっている。デモの参加者の中には朴正煕元大統領の顔写真バッジをつけている老人もよく見かける。韓国が国際貿易依存度を高め、農業を軽視し、化学燃料の大量輸入を推し進めたのは朴正煕元大統領の決定的な大きな過ちだと思っているが、朴正煕元大統領の経済成長へのたゆまない推進力や公教育の整備については未だに大きな成果だと評価されることには理解ができる。

私が理解しがたいのは、一時、左翼の労働党で積極的な活動を行っていた老人たちが経済的自立を主要目標とした朴正煕元大統領と今日の保守政党は関連があると思っていることである。朴正煕元大統領ならば、今日の保守陣営が推進している食品やその他商品の輸入依存度を高めたり、外国の投資銀行が韓国経済を直接干渉できるようにしたとんでもない経済政策は決して認めなかったであろう。保守陣営はマッコーリー・グループのような狙った獲物は決して逃がさない海外金融機関に自国のインフラをやすやすと明け渡している。朴正煕元大統領ならば、社会間接資本施設に対する民間投資法(PPI)を推進したり、韓国経済の中枢を担ってきた自営業者たちが経営難に陥るのを傍観しなかったであろう。

今日の保守主義者は韓国の伝統を破壊して、カジノ宣伝や美容整形の奨励・広告等、女性の役割を性的対象として局限すること以外には何も考えてない破壊的な新自由主義経済の政策だけに執着している。

しかしながら、韓国の保守政治を代表する老人集団にも財産はある。それは米韓同盟である。朝鮮戦争前後の米韓関係は貧しい人たちのために惜しみなく尽くす宣教師や平和支援団体のボランティアたちと民主主義を崩壊させた無慈悲な軍部に挟まれてとても複雑な関係だった。

デモ要員の老人たちはアメリカ政府の実際の政策についてきちんと理解しているわけでもなく、両国の関係が進むべき方向についても実質的な提案ができるようには見受けられない。むしろ、アメリカは急激に発展することよりも、安定かつ予測可能な未来を象徴する対象になった。

保守主義者がアメリカにこういった態度をとるのは、昔、優れた文化や経済力を持ち備えていた明に対して敬意を払って接していた事大主義のやり方を彷彿させるものがある。明は1592年と1598年に豊臣秀吉率いる日本が朝鮮を侵略した際、援軍を出兵させた。明・朝鮮の両国はそういった出来事を通して、関係をさらに確固たるものにした。当時の朝鮮の大多数の知識人にとって明は政治的・文化的権威の源泉になった。しかし、既に加速化していた明の政治・道徳・制度の衰退は17世紀初めには抑えが効かなくなってしまった。朝鮮には明の政治文化の面影が強く残っていたのだが、明自体は国内各地で起こった反乱により一気に弱体化し、結局、1644年には完全に崩壊してしまった。

当時の朝鮮の知識人の大多数はその後も300年にわたって明の文化的権威に忠実に従い、満州族が清王朝を建国してからは誰の目にも朝鮮は窮地に陥っている状況であっても、その当時の保守主義者たちは朝鮮では明の制度を維持したという自負心をもっていた。朝鮮の人々は明末期でも衰退の兆候を認めず、明の権威は明が滅びてからも長い間維持された。韓国には今でも明の最後の皇帝、崇禎帝(1627-1644)の年号を用いる儒教寺院がある。

今日の保守主義者の態度はこれにとても類似しているように見えるのだが、アメリカが朝鮮半島での重要な役割を終えてからも、アメリカに対する忠誠心がずっと維持されるかどうかが気になるところである。保守主義者は自分たちにメリットになるアメリカとの関係が維持されることを望んでいるが、それに関しては今や難しくなった。保守主義者たちは文在寅政権がアメリカとの関係を敬遠していることにとやかく言うよりは、むしろ、北朝鮮指導者と「恋に落ちた」と言うアメリカの大統領に対抗するまでに後退した。

 老人たちが支配するリベラル・保守議論、狭い範囲に限定された議論テーマのせいで、韓国では北朝鮮の開放を上手く活用できる能力が麻痺している。北朝鮮と共に推進できるプロジェクトの提案・実行ができるクリエイティブな若者は多いが、根本的に若者は単なる傍観者でしかなく、若者は自分の生き残りをかけて身を削らなければならない状況に置かれている。北朝鮮は未だに多くの問題を抱えているが、今現在の一番の難題は朝鮮半島の新たな可能性を模索する韓国の人々がどこまで手腕を試せるかどうかである。