「あれは、特別な対局でした」
史上初めて外国人で将棋のプロとなったカロリーナ・ステチェンスカ女流1級(27)は、感慨深げに"ある対局"を思い出す。
2017年1月19日、東京・千駄ケ谷の将棋会館では、女流棋士の頂点を決めるタイトル戦「女流名人戦」の予選が行われていた。
先手はステチェンスカ1級。迎え撃つのは、女流タイトル通算43期を誇る"レジェンド"、清水市代・女流六段だ。
結果は149手でステチェンスカ1級が勝利。外国出身者が"レジェンド"清水女流六段を真剣勝負で破った。
師匠の片上大輔七段は「この棋譜を埋もれさせるわけにはいかない」と称えた。将棋界の歴史の1ページに刻まれる対局だった。
故郷を離れて約5年。ポーランド生まれの彼女は、なぜ将棋に魅了されたのか。外国人の女流棋士として実現したい夢とは? これまでの歩みを聞いた。
■きっかけは漫画『NARUTO‐ナルト‐』だった
カロリーナ・ステチェンスカは1991年6月17日、ポーランドの首都ワルシャワで生まれた。ソ連崩壊の直前、ポーランドが民主化の道を歩みはじめた頃だった。
母はコンピューターのプログラムのテスター。父はコンピューターのパーツ販売、ワインの販売、クリーニング事業などに従事。どちらも多才な人だという。
将棋に興味を持ったきっかけは、ポーランドで人気を博していた日本の漫画『NARUTO‐ナルト‐』だった。
「当時16歳でした。奈良シカマルの将棋のお話がありました。漫画のポーランド語版では「ジャパニーズ・チェス」と書いてありました」
「チェスは祖父や父から教わっていたので知っていたのですが、漫画ではクイーンがいなかった。なんでクイーンがいないのかな。どんなゲームなのかな。疑問に思って、本来の将棋のルールを調べました」
「調べてみたら、チェスと違って持ち駒(相手から取った駒)を使えることがわかりました。ゲームがダイナミックになって、面白いと思いました」
当時まだ海外では、将棋の駒や盤が手に入りにくかったという。はじめは将棋の駒のイラストを印刷した紙で、駒を作った。
インターネットの将棋サイト「81Dojo」でも将棋を指し始めた。次第に、将棋の世界へのめり込んでいった。
■外国人として初めて女流棋士に勝利「本気でプロを目指そうと思った」
地元ワルシャワの大学ではプログラムなどを学んだ。将棋仲間もできた。はじめは4、5人。カフェテリアに集まった。それぞれがマグネットやプラスチックの将棋盤を持ち寄り、将棋を指した。
「将棋が好きになって、どんどん強くなりたいと思っていました」
2011年のことだった。ネット対局で、北尾まどか女流二段の指導対局を受けた。北尾女流二段は、このポーランドの少女の強さに驚いたという。
「北尾先生からは、『もっと強くなりたい?もしかして、プロを目指したい?』と聞かれ、来日を勧められました。嬉しかった。普通はあり得ないことですから」
東日本大震災の直後、念願の初来日を果たした。北尾女流二段の自宅にホームステイをしながら、将棋道場に行った。本将棋を見て、女流棋士や将棋のプロとはどんな仕事か、直接見て学んだ。
2012年の女流王座戦では海外招待選手に選ばれ、再び来日。得意の三間飛車を駆使し、プロの女流棋士に勝利。女流プロを初めて破った外国人女性として、その名を刻んだ。
「プロに勝てたことは、大きなきっかけになりました。この時、本気でプロを目指す気持ちを決めたかなと思います」
2013年6月、研修会の試験に挑戦。研修会員との対局で3勝5敗の成績をおさめた。A~Fクラスのうち「C2」クラスに合格を果たした。
日本語を学ぶため山梨学院大学にも編入。こうして、勉強と並行しながら将棋のプロを目指す日々が始まった。
■プロまであと一歩で敗北「不安はいっぱいあった」
2015年10月。研修会入会から2年あまりで「女流3級」に昇級した。プロの女流棋士として認定されるのは、1つ上の「女流2級」から。ついにプロの道が見えてきた。
だが、ここからが大変だった。「女流2級」になるには、「女流3級」になってから2年以内に規定の成績をおさめなければならない。
女流3級になって1年。プロまであと1勝と迫るも、昇級のチャンスを逃してしまった。
進学した大学院での授業や課題をこなす一方、将棋の勉強、対局、イベントにも出演する多忙な日々。「あと1年」のプレッシャーがのしかかった。
「女流3級になってからの1年、成績はよくなかった。あと1年で2級にならないといけない。不安はいっぱいありました」
「勉強も練習もいっぱいした。けど、気持ちが...。なんと言えばいいのかな。日本にいた時間が無駄になるんじゃないかという不安がありました。うまくいかなくて落ちこんだりすると、時には勉強したくないという気持ちもありました」
2016年のクリスマスだった。モヤモヤを抱きながら、ワルシャワへ里帰りした。
これが「女流棋士ステチェンスカ」誕生の転機となった。
「ポーランドには毎年帰ってるのですが、このときは特別でした。なんといっても心が回復できた。仲間と集まって将棋を指したカフェテリアにも行って、友だちにも会いました。初心を思い出せたんです」
心を覆っていたモヤモヤが晴れた瞬間だった。
2017年2月、女流名人戦の予選。格上の貞升南・女流初段に逆転勝ちを決め、女流2級への昇級を果たした。史上初めて、外国人の女流棋士が誕生した瞬間だった。
「貞升先生が投了する直前は不安で不安で...。もし詰み間違えたら...とかね」
「でも(貞升初段が)『負けました』と投了した瞬間、不安は全て吹き飛んだ。気づいたら急にカメラに囲まれて、何が起こってるのか分からなくなって(笑)」
■憧れの女流棋士に勝利「師匠も驚いていた」
棋士になって一番嬉しかったことは――。そうたずねると、ステチェンスカ女流1級は少し考え、そして照れながらこうつぶやいた。
「今年に入って清水先生に勝てたこと...ですね」
記事の冒頭で紹介した、今年1月にあった清水女流六段との対局だ。
「あの日は緊張してやばかったですよ。なにしろレジェンドですから...」
「女流棋士でも清水先生は別格というか、大先輩です。将棋連盟の理事もやってらっしゃる。こういう女流棋士なりたい...憧れの存在です。やばいです」
対局前の1週間は、清水女流六段の過去の棋譜をとことん研究したという。
「どういう流れになるかを予想しました。それが当たったこともあり、普段よりも力が出せたかなと思います。でも、やっぱり清水先生だったからこそ...というのもあった。本当にすごい方ですから」
感想戦を終えて、清水女流六段が先に席を立った。ステチェンスカ女流1級も、続いて対局室を出た。その瞬間に「私、清水さんに勝った」と、はじめて意識できた。
「対局が終わると、いつも師匠(片上七段)に電話をするんです。この日も師匠に電話したんです。師匠が出て「勝ちました」って言った。すると師匠は「えっ? 本当に? 聞き間違えたかと思った」って(笑)」
「将棋連盟の事務局にも立ち寄って「次の対局について相談が...今日勝ちましたから」って言ったら、デスクに座っていた職員さんが総立ちに「勝った!?」って驚かれました(笑)」
憧れの棋士に勝利したことを励みに、ステチェンスカ女流1級は更なる高みを目指す。力強い「振り飛車」党として、いまも研究に余念がない。
「以前は中飛車が多かったですが、今はバランスを考えています。四間飛車はバランスがいいイメージがありますね。自分の対局を見直して、暴れるだけじゃない大人の将棋というか、もっともっとちゃんとした将棋を指したいと感じています」
「振り飛車では大山康晴十五世名人、久保利明王将や戸辺誠七段の棋譜や戦法を勉強しています。今は藤井猛九段が考案した「藤井システム」も研究しています。でも、ちょっと難しい。穴熊を組まれたら大変だから、先にどう攻めるか。戦法を考えています」
■将棋をもっと世界へ。課題は「ノウハウとマーケティング」
「もっともっと強くなりたい」。そう語るステチェンスカ女流1級だが、将棋をもっともっと海外でも普及させたいという思いもあるという。
大学院では「将棋の国際化:ヨーロッパ」をテーマに修士論文を書き上げた。
その中で気づいたことがあるという。
「ヨーロッパには将棋の国際大会もあるんです。自分が知らないところでも将棋は広まっていた。でも、普及を図るには国ごとの事情を考えないといけません」
「例えば、スペインには将棋に興味を持っている人がけっこういる。でも、将棋を教えられるノウハウや教える方法がないんです」
「ポーランドでは将棋盤や駒が手に入るし、将棋のクラブもできて、先生もいる。そういう国では、多くの人が将棋を始めてくれるきっかけを増やすようなマーケティングが大事になってくると思います」
世界のプレーヤー同士がもっとコミュニケーションできるようにしたい。そんな思いから、将棋のルールや棋譜、道具の入手方法などを伝えるメディア「International Shogi Magazine」を作った。
「ゆくゆくは、国をまたいで将棋の課題や解決法を共有できるようになったらいいなと。例えば、強い選手がいたら記事で紹介したり、戦法についても外国語で共有できたり。そのための初めの大きなステップかなと思っています」
■「夢のために毎日頑張れば、きっといいことが起こる」
将棋の国際化が進むにつれて、海外からも「プロ棋士になりたい」という若い才能が芽吹き始めている。ステチェンスカ女流1級はこう語る。
「いま、ベラルーシではとても将棋が発展している。将棋道場みたいなものもあるんですよ。大会も毎週あって、私が苦労した正座でしっかりやっている。すごいですよね」
「この前、ベラルーシのエカテリーナという女の子に会いました。将棋を頑張ってくれる子がいると、モチベーションになりますよね。幼かった頃に抱いた『強くなりたい』という気持ちを思い出させてくれます」
しかし、プロはやはり厳しい世界。ステチェンスカ女流1級はこうも語る。
「(プロになるのは)本当に大変な道。だけど、本当にプロになりたいのだったら、毎日、一生懸命やらないといけない。夢をもって、その夢のために毎日頑張れば、きっといいことが起こる。もしかしたら、夢が叶わないこともあるかもしれない。でも、そこまで努力したことは価値があると思う」
「これは将棋に限らないけど、やりたいことがあるのにやらなかったら、きっと後悔する。新しい道を探すことも正しい。でも、最初は思いっきり、一生懸命に夢に向かって頑張った方がいいと思う」
棋士は盤面に向かい合った対戦相手と同時に、自分自身とも戦っている。
「まずは、自分で『私が勝つ』って信じないとね」
ステチェンスカ1級は、これからも戦い続ける。全ては、もっともっと強くなるために。
カロリーナ・ステチェンスカ女流1級のこれまでの歩みを描いたショートアニメ「すすめ、カロリーナ。」が公開中。