太平洋戦争末期、敵の空母を沈めるため人間が操作して体当りする魚雷、いわゆる人間魚雷が開発され、出撃した。その誕生から70年目となる2014年4月、その訓練基地があった大分県日出町の公園に回天のレプリカが設置された。朝日新聞デジタルが報じている。
旧日本海軍の人間魚雷「回天」の実物大レプリカ(模型)が完成し、訓練基地があった大分県日出町大神(おおが)の基地跡地に登場した。町は今年度、基地跡地を「大神回天訓練基地記念公園」(仮称)として約3500万円かけて整備する。
回天の基地は山口県の大津島、光、平生のほか、敗戦間際の1945(昭和20)年4月に開設された日出町の大神基地の4カ所があった。大神基地の広さは約25ヘクタールで、兵員は2千人規模。16機の回天が別府湾で訓練を重ね、待機命令を受けたが、実際は出撃することなく、敗戦を迎えた。
(朝日新聞デジタル「人間魚雷、悲惨さ忘れまい 「回天」のレプリカ、大分に」より 2014/04/06 13:52)
回天は1943年、戦況が悪化する中、打開策として海軍内で発案され、1944年から実戦投入された。終戦までに敵艦船2隻を撃沈、5隻に損害を与えたとされる。回天による戦没者は、145名。平均年齢は21.1歳だった。
終戦までに訓練を受けた回天搭乗員は1375人にも及んだ。そのほとんどが兵学校・機関学校出身の若者、学徒や学生出身の予備学生、20歳に満たない予科練出身者たちだった。年齢も17歳から多くても28歳、大多数は20歳前後の若者であった。
回天による戦没者は、搭乗員、整備員他145名、没時の平均年齢は21.1歳である。
(周南市ホームページ「回天」より)
【艦船関連の記事】
ハフィントンポスト日本版はFacebook ページでも情報発信しています。
ハフィントンポスト日本版はTwitterでも情報発信しています。@HuffPostJapan をフォロー