「浮遊」するシリア難民ヒーロー:映画『ジュピターズ・ムーン』監督インタビュー--フォーサイト編集部

「1人ずつ助けることが『危機』の解決につながるのだと思う」
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Stephane Cardinale - Corbis via Getty Images

 2011年3月に勃発した、シリア内戦。そのあおりを受け、国民の約4分の1にあたる500万人以上のシリア人が国外に脱出し、ヨーロッパをはじめとする各地で難民生活を送っている。

 この「難民問題」は、ヨーロッパの政治や社会に深刻な影響を及ぼしている。特に、難民問題を「危機」ととらえ、その排斥を唱える極右勢力の伸長は著しく、欧州社会そのものの不安要因となりつつある。

 そんな中、1月27日に映画『ジュピターズ・ムーン』が公開される(配給:クロックワークス、新宿バルト 9 ほか全国ロードショー)。ハンガリーでのシリア難民問題を背景にしたSFエンターテインメントだが、その内容は深い。

 監督は、ハンガリー出身のコーネル・ムンドルッツォ(42)。2002年のデビュー作『Szép napok(英題:Pleasant Days)』でロカルノ国際映画祭銀豹賞やソフィア国際映画祭グランプリなどを受賞。2014年には『ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲』でカンヌ国際映画祭「ある視点」部門グランプリ&パルムドッグを受賞するなどの実力派だ。

 作品の背景や狙いをムンドルッツォ監督に語ってもらった。

ヨーロッパにとっての希望のサイン

 この企画は、もともとは私の個人的な体験から始まったのです。2013~14年頃、当時ハンガリーにまだあった難民キャンプを撮影するというプロジェクトがあり、そこで大きく心を動かされたことが出発点でした。

 そこから、難民のスーパーヒーローのようなキャラクターを、ヨーロッパにとっての希望の象徴として描けないものかと考え始めました。ヨーロッパがいま向き合っている移民・難民問題、英語では「クライシス」=「危機」と呼んでいますが、これを解決することは、ヒューマニズムやモラルとは何かを問い直すことになる。またそれは、ヨーロッパが持つ本来のよき特質を取り戻すことになるのではないか――。そんなことを考えながらストーリーを考えていきました。

 しかし、脚本の第1稿を書き上げた時点では、まだシリアは内戦状態ではなく、シリアの難民問題も社会問題化していませんでした。だから、第1稿の表紙に「そう遠くはない未来のどこかで」と書き込んでいたくらいです。

 ところがいざ製作という段階では、この問題はあまりにも熱いものになっていた。こんな時期にこの作品を世に問うのは、あまりにも反動的と受け止められるのではないかと、製作を躊躇しそうにもなりました。

 でも最終的には、難民問題はやはりわれわれの問題であり、それに対する答えを模索する努力の1つとして、この映画を作りたいと考えました。それだけに、白黒がはっきりついてしまわないような、複雑ないまの状況通りの見せ方をしたかった。

 私の信条として、アートもしくは映画というものは、政治的な抗議活動とかジャーナリズムからはもっともかけ離れているべきと考えています。だから私はこの映画を政治的な作品として作ったという思いは一切ありません。むしろ、もしもこういうことがあったらという寓話として、「浮遊する難民」というモチーフで撮ったのです。

スピリチュアルなスーパーヒーロー

 製作に携わったクリエイティブチーム全員には最初から、すごく挑発的な映像にしたい、という思いがありました。

 みんなが同様に思っていたのは、難民問題という「危機」はヨーロッパにとってネガティブではなく、むしろポジティブなものではないのか、ということでした。そのポジティブさをどう表現するか、ということで出てきたのが、「空中浮遊」というイメージでした。

 ヨーロッパ自身が犠牲を払い、何かを助けようという気持ちで問題解決に取り組めば、ヨーロッパという場所がより強くなれるのではないか。その経験で得たヨーロッパの知恵は、他の国と分け合うことができるのではないのか――。こうした考えは、決して忘れてはならないヨーロッパの伝統だと思うのです。

 だから、「空中浮遊するシリア難民の少年」というキャラクターは、超越的でスピリチュアルなスーパーヒーローとして見せたかった。

 そんな少年が、主人公である中年の医師の前に現れ、そのことで医師の中に変化が起き、自らを犠牲にする心が芽生える、という物語になっています。

 一方、この医師が象徴しているのは、ヨーロッパではたくさん見ることのできる、いまは迷子のようになっている知的階級層です。腐敗にまみれ、愛のない人生を送り、先の見通しもないという精神状況に置かれている。そんな男が、ミステリアスな少年と出会うことで変わっていく。少年は、希望を象徴しているのです。

まずは「1人」から

 医師は、言うまでもなく人を助ける職業です。日本でもそうかもしれませんが、ヨーロッパでは大学の医学部を卒業する時、「ヒポクラテスの誓い」(編集部注:古代ギリシャの「医学の父」ヒポクラテスが遺したとされる宣誓文)を宣誓します。その「人を助ける」という部分に、われわれはシンボリックなものを感じたわけです。

 ところが、この物語に登場する医師は、人を助けるということを忘れている。とてもシニカルになっていて、人のことを気にかけられなくなり、助けようともしなくなっている。希望を失ったキャラクターなのです。彼は「毎日人を治療しているのに、待っている人数は変わらない。なぜなんだ」という疑問を持ち、それがきっかけで希望を失った。

 ところが最後には、彼は人を助けます。それはたった1人だったかもしれない。でも、1人を助けるということは、2人目を助け始めていることでもあると思います。

 難民問題、と大きくとらえると、どうしても大量の人の顔をイメージしてしまいますね。でも、彼らはそれぞれに違う物語を背負っていて、なぜ難民になってしまったのかの理由がそれぞれにあり、危険の度合いもそれぞれ違う。

 だから本当は、顔を突き合わせて1人1人の話を聞き、そのうえで彼らがヨーロッパに残るべきなのか、それともヨーロッパがその国の再建に力を貸す方がいいのか、ということを考えていかなければいけない。

 でも、難民を1つの問題としてひっくるめて拒絶してしまうと、その先にあるのは当然より大きな問題なのではないのか。だからこそ、1人ずつ助けることが「危機」の解決につながるのだと思う。そのことも、象徴的に描き出したかったのです。

「奇跡」と「赦し」

 物語の終盤、おそらくとても聖書的だという印象を受けると思われるシーンがあります。実際、私自身も聖書における「赦し」をイメージして撮ったその場面は、この医師の人生のターニングポイントにあたるのです。

少年と出会った当初、医師は彼を利用しようとする。ところが物語の中盤では拒絶し、むしろ対抗しようとする。そしてある時は、自分の不幸はすべてが少年のせいだとか、あるいは少年がテロリズムの犯人なのではという疑いすら持ちます。

 でもそれが全部間違っていたことに気づき、そこで初めて、謝罪の言葉を口にする。この瞬間から、新しい医師、人を助けたいと強く思う医師が登場するのです。

 人は、自分に何か罪科があるならば謝らなければ未来はない、と私は思います。この医師は大きなターニングポイントを経た。そんな生まれ変われた彼の上に、少年という存在があるのです。

 一方で、難民として逃れてきた少年を執拗に追いかける国境警備隊の男がいます。彼は最初、闇に紛れて不法に入国してきた少年を銃で撃った。ところが最後は、自分の選択で撃ちません。彼もまたそういう変化を起こすわけで、それもやはり少年の「奇跡」を見たからなのです。

 そして彼の、少年を執拗に追い回し、徹底的に対抗しようとするキャラクターは、何かの兆しやサインを求めていることの裏返しなのではないか、実は「奇跡」を求めていることのメタファー(隠喩)なのだ、と受け取ってもらえると嬉しいですね。

 アリアンという少年を演じてくれたゾンボル・ヤェーゲルには、実際に紛争が起きていることを理解してもらうために、シリア内戦に関する映像を見せました。命を失うこと、ダメージがいかに広範囲にわたるかということを考えてもらいたかった。ゾンボルはすごく心うたれたようだし、理解もしてくれたようでした。

 彼は役者として素晴らしい。それに秘密を抱えているような、謎めいた資質をもともと持っているから、アリアン役にはぴったりでした。

「ポピュリズム」の恐ろしさ

 最初に私は、政治的な、何かに抗議するような作品を映画として作りたくはないと言いました。でも、自分の政治的な思いをアートの一部として表現することはあり得る、と思っています。

 いま世界で起きていることについての、私にとってのキーワードは「ポピュリズム」「未知なるものへの恐怖心」「未来への不安」です。そしてポピュリズムとか不安が、ヨーロッパにおける難民問題という「危機」を、実際よりも大きくしているのではないか、と考えています。

 ここで問題となるのが、社会の中で誰が力を持っているのか、ということでしょう。いかに一般市民の気持ちを上手に操れるのか、それを利用できるのか、という力。

 私の母国ハンガリーは、残念なことに、純然たるポピュリズムの国になってしまいました。それは、共産国であったという過去と関係があるのだろうと思います。ただ、フランスやドイツ、オランダ、そしてイギリスのBREXIT(欧州連合からの離脱)などでも、ハンガリーと同じような状況になってきている。

 これは、先に挙げたキーワードの「恐怖心」や「不安」とは裏返しの、社会における安全あるいは安心感というものが、人々の一番のカギになってきているからだと思うのです。つまり、安全や安心感の獲得を煽り、そのために外から来るものを敵視するという、ポピュリズム的な動きからきている。一方人々は、外敵とされるものを排除することが、自分たちが長く安心して暮らせることと直結すると信じている。

 でも、われわれは歴史の中で学んできたはずです。瞬間的な安全や安心感を求めても、それが長期的な安全や安心感にはつながらないということを。

 さらに言えば、外から来るものを敵視し、排除するということは、その社会の中にヒエラルキーを作ることになり、平等という価値を失うことになる。またそのヒエラルキーが、社会というシステムの中で、王やモンスターを作ることにもなります。

 これはヨーロッパに限らず、アメリカでも同じような状況になっている。つまりグローバルに広がっているわけです。私はそれを、個人的には怖いことだと思っています。

 ではこうした問題を解決するために、今までの古き良き偉大なるイデオロギーの中から答えは見つかるでしょうか? 見つかりません。保守的であれ、左寄りであれ、既存のイデオロギーを応用しようとしても、私たちはいまだに答えを導き出せていないのです。

 ただ、今の「危機」に正面から向き合い、そこから学ぶことができるなら、ヨーロッパも世界ももっと大きくなれるのではないかと思います。

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(2018年1月26日
より転載)
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