小泉純一郎元首相が70歳を過ぎても「脱原発」に180度転換出来た理由

小泉元首相が、脱原発を声高に呼びかけ始めた。実は、小泉元首相が71歳に考えを大転換できたのには、前例となる“大政治家”がいたからとも考えられる。その政治家とは…
Open Image Modal
時事通信社

今年71歳になった小泉元首相が、脱原発を声高に呼びかけ始めたプルサーマルを推進するなど「原発推し」だった小泉政権時代と比べると、180度の転換といえる。自身の政策ともなった考えを、71歳になっていきなり捨てるなど、簡単にできるものなのか。

実は、小泉元首相が考えを大転換できたのには、前例となる“大政治家”がいたからとも考えられる。その政治家とは、小泉元首相が尊敬する1人で「憲政の神様」と呼ばれた尾崎行雄である。

Open Image Modal

尾崎行雄は、国会開設とともに行われた1890年(明治23年)の第1回衆議院選挙で当選してから、25回連続で国会議員に当選し続けた。この記録は、未だ破られていない。

尾崎は、あらゆる権力の弾圧にも屈せず、腐敗を許さなかった。徹底的な平和主義、そして護憲主義を唱えたことで知られる尾崎だが、実は最初からこの考えを持っていたわけではない。むしろ国家利益があれば主戦論、不利益なら非戦論の立場をとる、国家主義者であった。

ところが1919年、60歳のときに転機が訪れる。欧米視察の旅である。第1次世界大戦直後の現地で、戦争の惨禍を目の当たりにした尾崎は、己の信念を大転換して平和主義を唱え始める。軍国主義と言われた時代、戦争反対を唱える尾崎が軍部から目の敵にされたのは当然のことで、命を狙われることも珍しくはなかった。

そんな不撓不屈の尾崎であったが、決して生易しく語れるものではなく、思い悩み、失意に沈んだこともあった。

75歳の時(1933年)、尾崎は三重県を遊説中にひどい風邪と中耳炎にかかり、病に伏せることになる。国際連盟が日本に満州撤退を促し、そのために日本が国際連盟を脱退した年のことである。尾崎にとっては、夫人が亡くなった翌年のことであり、また、盟友の犬養毅が暗殺された翌々年のことでもあった。

選挙の遊説が出来ず、平和を訴えられない。痛みにも悩まされた病床で、出てきた言葉が「人生の本舞台は常に将来に有り」という言葉だった。「今までの失敗は、今後成功するための試練であり、準備である」という考え方で、「人は何歳になっても、それまでの人生は序幕にすぎない、常に、これからが本舞台なのだと考えて行動せよ」という意味である。

尾崎が晩年、94歳のときに揮毫したこの言葉は、今でも石碑となって憲政記念館に残っている。小泉元首相は自身の講演の締めくくりで、よくこの石碑のことを紹介するという。

「この人は、94歳にして、まだ将来のことを考えている」

尾崎は95歳で亡くなるまで、生涯を「立憲主義」の実現のために尽力した。立憲主義とは、憲法に基づいて政治を行うことで、個人の権利・自由を保障する「法の支配」を実行しようとするものだ。しかし、尾崎はたとえ憲法があっても、使い方を間違えれば人々は「奴隷」になると説く。

尾崎の言う「奴隷」とは、物事に何も考えずにただ従う国民を指す。尾崎は、お上まかせ、他人まかせにせず、批判精神を持って何が正しいかを考えぬくことが立憲主義には大切だと人々に訴え続けた。尾崎は自身が90歳のときに、国民の「奴隷根性」を変えるため書いたテキスト「民主政治読本」で、こう指摘している。

封建政治の下では、人民に何等の権利自由を認めないから、人民はただお上にあいそし、たんがんして、ひたすらお上のお慈悲にすがる。お上にすがってもききめがなくて、いよいよやりきれなくなると今度はサクラ・ショーゴローにたより、クニサダ・チュージにたより、オオシオ・ヘイハチローにすがる。その内には誰かが何んとかしてくれるだろうと、もっぱら他力の救いをあてにして、どうしても自分で自分を救う気は起らぬらしい。政治上に何等の力も与えられていなかった封建時代ならそれも仕方がなかったであろう。

しかし今の日本人はそんな無力な奴れいではない。上手に使えば、どんな政治の改革でもなしとげることのできる力をもっている。ただ、その力を自覚しないから、依然ひとだのみの奴れい根性からぬけきれずに、今でも、いよいよ行きづまったら、アメリカが何んとかしてくれるだろうと、すぐ他人にすがりつく。

(尾崎行雄「民主政治読本」62ページより。 1947年)

尾崎はこの本の中で、「われは奴隷にあらず」という人が一人でも増えることを期待して、日本人に「奴隷根性」が染みこんでいる理由や、立憲主義を成立するために個人はどうあるべきかという考えを記した。「私はこの本を、私の90年の生がいにおいてもっとも清ちょうな心と、愛国の情熱を打ち込んで書く。この本こそ、私のたましいの書である」と記しているのを見れば、尾崎がよほど、一人ひとりが考えぬくことが大切だと考えていたことが、わかるのではないだろうか。

10月1日に現代語訳として再出版された「民主政治読本」の編集を担当した尾崎行雄研究財団理事の石田尊昭さんは「誰が正しいかではなく、何が正しいか」を考えることが、立憲主義の批判精神だと話す。

「今の世の中、政治が悪い」

「なら、そういうお前はどうなんだ」

政治が悪い、政治を行う政治家が悪い、しかし、その政治家を選んだのは自分であり、その責任は自分にあることを自覚するべきだという。

小泉元首相の祖父・小泉又次郎は、立憲改進党そして猶興会の時代に、尾崎行雄と行動を共にした。又次郎から、その子、小泉純也に尾崎のことが語り継がれ、そしてさらに、小泉純一郎へと伝わる。

最後まで「自分が明日のために何ができるのか」を考え、行動していた尾崎行雄を引き合いに出す小泉元首相もまた、今の己は何ができるかを、ただ実践しているだけではないだろうか。

関連記事