4月25日だけでも「福知山線の脱線事故があったっけ」と思い出して

気がついたらもう10年だったという感じです。事故も自分の人生の一部で、死ぬまで一緒に付き合っていくのが当たり前なんだと実感がわいてきたのは、10年という時間が経ったからじゃないかなと思います。

1.事故当日、2両目が混んでいたから1両目へ

事故当時は大阪芸術大学の3年生で、当日は、2時間目からの授業に出るために西宮市の実家を出ました。すごく天気が良くて山がとても綺麗だったので、「携帯で写真でも撮ろう」と携帯を取り出そうとしたら......ない。携帯忘れちゃったんですね。でも授業に遅れてしまうので、取りに帰らずに駅に向かいました。

JR西宮名塩駅に着いたら、目の前で快速電車が行ってしまって。「ああ、しまった」と思いながら次の電車を待っていたら、突然後頭部を叩かれて、びっくりして振り返ったら高校時代の友人でした。途中まで一緒に乗っていこうかという話になり、次に来た普通電車に乗車しました。

そのまま普通電車で大阪まで向かっても良かったのですが、授業に遅れることが気にかかり、川西池田駅で快速電車(事故車両)に乗り換えました。2両目が混んでいたので、1両目に乗ったことを覚えています。当時はホームの端に喫煙場所があって、そこでおじさんたちがタバコを吸っていました。その人達も1両目に乗ったんだと思います。

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2.伊丹駅でのオーバーラン「あらっ?」

車内では普通に世間話をしていたんですが、走行中、見たことのある看板がひゅんって通り過ぎたんです。「あらっ?」と思った瞬間にキキキーッと電車が止まって、進行方向に背中を向けていた友人が倒れかけたので、慌てて手をつかんで支えました。窓の外を見たら、ホームが全然なくって、砂利が見えて、草が生えている。「あちゃー、やっちゃったなぁ」と思いました。友人は、倒れかけた際に足を踏んでしまった人に謝っていました。

「オーバーランかな」と誰かが言ったとき、今度はいきなり逆側に引っ張られて、すごい勢いで電車がホームの方に戻っていったんです。その戻り方がすごく急で、乗っていた人もあっちこっちに行って、「今の何?」っていう雰囲気でした。

電車が伊丹駅を発車してからしばらくの間、オーバーランの説明放送が流れなくて、「早く謝ったほうがええんちゃうん」とヤイヤイ言っていたら、「先ほどは失礼しました」という放送がかかり、車内では「すみません、足踏んじゃって」といったやり取りがあちこちでありました。「いやぁ、大変でしたね」みたいな雰囲気です。携帯で、「オーバーランした」ってメールしている子もいて。もし、ちゃんと目的地に着いていたら、「大変だったよー!」「びっくりしたわ、こんなこと実際にあるんやね」って人に話していただろうなと思える、それくらいの雰囲気でしたね、その時は。

3.事故発生の瞬間

私達は立って乗車していたんですが、足下から伝わる振動が大きくなってきて、窓ガラスがビリビリ揺れはじめたんです。私は日頃利用している電車だから、いつもより揺れが強いことが分かったんですが、友人は普段JRを使っていなかったので、今ひとつピンと来ていなかったのかもしれません。それで、「(電車)速(はや)ない?」「いや、いつもはこんなに速くないんやけどね」なんてやり取りをして。私達だけでなく、さっき打ち解けた人同士でも、「えらい速ないか?」「速いですね」といった会話をしていました。その頃から、だんだん不安な、ざわざわした雰囲気が漂い始めました。

「やっぱりさっきのオーバーランがあったから急いでいるんじゃないかなぁ」と言った時でしょうか。急ブレーキのようなキーッっていう音が聞こえました。一瞬ふわっと体が浮いて、「うわっ」と思って友人の顔を見て、両手を握り合いながらちょっとの間踏ん張りましたが、視界がすごくがくがく揺れて、電気が点いたり消えたりしていました。目と口をぎゅっと閉じている友人の顔が遠ざかっていくのが見えたんですが、床をずるっと滑る感覚がしたので、「私の方が下がっているのか」と思ったとき、進行方向に向かって右側の窓が目に入りました。さっきまで家が見えていたのに、だんだんスライドして空が見えて、それを見ながら、体が左側の壁にどんっと叩きつけられました。だけど、頭が何か柔らかいものにあたったから、頭は全然痛くなかったです。

自分がぶつかった左側の壁に窓があって、今度はそこから敷石がどんどん近づいていくのが見えました。車体が傾いていくんです。ガリガリ何かをこする音が近づいてきて、顔を車両の先頭に向けたとき、窓ガラスが前からひしゃげて割れていくのが見えて、それが自分の場所まで近づいてくる。「ここまできたらやばい!」と思った瞬間に、すごく大きいドーンという音がして、視界が真っ暗になって、そこからしばらく意識がありませんでした。

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(C)時事通信社

4.「もうこれまでかな。死ぬ」

時計も携帯も持っていなかったので、時間の感覚がなくて、どれくらい後に目がさめたのかは未だに分かりません。ジリジリジリという音がうるさくて目が覚めましたら、真っ暗でした。体の左側を下にした形で横になっていて、体を動かそうと思ったら痛くて動かない。鎖骨が折れていたんですけど、体の上に座席のシートが乗っていて、さらにそのシートの上に、肩からかけていたカバンが乗っていました。だから、シートを動かすと、シートに引っかかっているカバンも一緒に動くから、肩が痛くてシートをどけられなくて。

私の足の下に誰かの足があって、私が動いたら「痛いから動くな」と言われて、「すいません」と謝りました。窓の外は車のパーツみたいなものでみっちり埋まっていましたが、ちょうど私の目の下の位置に亀裂があって、そこから下が見えたんですね。下を見たら結構距離があるように見えたので、「なんでこんな宙ぶらりんな所にいるんかな?っていうかここどこやろ?さっきまで外走ってたよな。地下鉄ちゃうよな」って。

相変わらずジリジリうるさくて、女の人がキャーキャー叫ぶ声が下から聞こえていました。「何で下から?」と思いながら、亀裂から下を覗いたときに、「講義に遅れるって学校に電話せなあかん。あっ、携帯忘れてるんや」と思い出すと同時に、「そうだ、木村(一緒に乗車した友人)どこや?」と友人の不在に気がつきました。

一気に現実感が戻ってきて、友人の名前を呼んだのですが、声がでなくて、肺が痛くて呼吸ができませんでした。「なんでこんなに体しんどいんやろ?」と思ったとき、ジリジリ......という音と一緒に「火災が発生しました」と聞こえたんですね。「ジリジリ鳴っているの、火災報知機か」と気がついて。ガソリン臭いことにも気づいたんですが、座席がかぶさっているから動けない。「これ、マズイやつちゃうん?」と思いました。

そうしたら、今度は上の方から「早く逃げろー」と、男の人の声が聞こえてきました。下だけでなく、上にも人がいることが分かって、「本当にどこにいるんだろう?」と急に不安になりました。その男性が、「早く出ないと崩れるぞー!」と言っている。だけど、私は座席があって動けないし、ガソリンの匂いはしているし、火災報知機は鳴っている。「ふざけんな、出られるもんなら、とっとと出とるわ!」と言おうと思ったんですが、それもやっぱり声が出ないから諦めました。

その時、頭が真っ白になって、「あかん、詰んだ」と思いました。「よく分からないことに巻き込まれているみたいだけど、もうこれまでかな。死ぬ」って。涙も出ませんでしたが、「熱いのは嫌や。一瞬で終わってくれ」という気持ちになりました。

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事故直後にスケッチした車内の様子

5.「あ、生きてたんや」

でも、火災報知機が鳴っている割には熱くないんですよね。もしかしたら誤報かもしれないと、小さな希望もわいてきて、だとしたら、救出された時に絶対色々聞かれるから、出来るだけ近くにあるものを覚えておこうと思いました。動けないから、顔が回る範囲で、指差し確認じゃないですけど、あそこに座席があって、荷物の網棚に人が乗っていて、窓ガラスが割れていて、鉄の塊みたいなものは車かなとか。ちゃんと物の形も見て覚えようとしたはずなんですが、びっくりするくらい覚えていないんです。ちゃんと服装とかを覚えていたら、乗車位置確認の取り組みでも、もうちょっとお役にたてたんじゃないかなと、後からすごく悔しかったです。

ふと気がついたら、何人か立って歩いている人がいて、「今頼まな動かれへん」と思って、立っていたお兄さんに「すいませんけど、椅子だけどけてもらえませんか?」と言ったら、「いいですよ」と座席をどけてくれました。ようやく体を起こしたら、足にガラスが刺さったので、ガラスを抜きながら、「靴どこいったんやろ?もうひとつ持っていたカバンもない」と気がつきました。「口の中ジャリジャリする、砂かな」と思って、噛んでいたものを吐き出してみたら、自分の歯でした。

そのうち、外が騒がしくなり始めて、さっきまで車のパーツか鉄骨かでみっしり埋まっていた所が、ちょっとずつ空いてきました。救助にあたってくださった方々が、窓ガラスのところから出られるようにしてくれたんです。「しっかりしてくださいね」と言い合いながら最初にお姉さんが救助されました。次か次の次くらいに、私だったかな。「私は大丈夫なので、意識がないお兄さんを先に救助してください」と言ったら、「動ける人を先に出した方がいいから、先に出ましょう」と言われて救助されました。

担架代わりにした座席に乗せられて、レスキューの人に運び出されて車外に出た瞬間、青空が目に入って、すごくまぶしくて、暖かかったです。「これで焼け死ぬ心配がなくなった」と思いました。人がいっぱいざわざわしていて、ヘリコプターが飛んでいる。「なんか偉いことになってるな」と思いましたが、肩が痛かったので、ほぼ真上を見た状態で、日陰に運ばれていきました。

その時、「裕子さーん」という声が聞こえて、しばらくして友人が走ってきました。私は友人に「あ、生きてたんや」と言ったのかな。そしたら「お前もな」と言われて、その時に初めて泣きました。事故車両に乗り換えたのは私の都合だったので、友人が生きていて本当にほっとしました。

6.小学生の同級生が2両目で亡くなった

救急車で病院に搬送されて、3週間入院しました。入院中は、しばらく全然動けなくて、ずっと寝ていました。ちょっと動けるようになってから新聞をとってもらって、新聞をぱらぱら見ていたら、見たことのある顔が乗っていました。それが小学校の同級生だったんです。

ちょうど事故に遭う2週間前くらいに、初めて小学校の同窓会に参加したんです。鍋を4つくらい囲んで皆で食べていたんですけど、ちょうどその写真の子が真正面にいたんですよ。「肉まだかな」とか「まだ早いんちゃうん」とか、鍋の話しかしなかったんですけど、その子が2両目で亡くなったと報じられていました。写真に小学校1、2年の頃の面影があって、その時、事故の大きさを実感しました。そこからが一番きつかったですね。新聞を読んでは泣き、読んでは泣きしていたから、ついには看護師さんに新聞を取り上げられました。

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事故直後にスケッチした車内の様子

7.「人の体は気持ち悪い」

JRの担当者とは、どうやって大学に戻るかを何回も話し合いました。車体が揺れるのと、窓の外を景色が流れるのが嫌で、電車も車も乗りたくないから、公共交通機関を使わずに大学に行ける方法をとりたいと伝え、大学の近くに下宿する形で、事故から1か月後に復学しました。

復学したら、皆「良かったー!」と抱きついて喜んでくれて、もちろん私も嬉しいんですが、「気持ち悪い」と思ってしまったんです。「体が柔かい、骨が硬い、嫌だ」と。「なんか私おかしいな」と思いました。

復学してすぐの課題が人物画でした。日本画の場合は、油画のように対象を見ながら描くのではなく、事前にスケッチをたくさん残して、そのスケッチをもとに画面を作るんです。だから、人物画を描こうと思ったら、モデルさんをいっぱいスケッチしなくてはならない。そのために、モデルさんをスケッチする授業があるんです。

復学して初めてその授業に出席したら、まずモデルさんを直視できない。気持ち悪いから手も動かなくて、涙まで出てくる。そんな調子だったので、しばらくその授業は出なくていいということになりました。描こうと思うと、車内で感じたぐにゃっとした感触とか、硬いものが当たった感触が、すごく蘇ってくるんです。事故の影響がこんな形でも出てくるかと思って自分でもびっくりしました。

自分の手を描く練習から初めたけど、手が震えて無理で。右手だから震えるんだったら、利き手じゃないほうで書いてみたらどうなるかな、とか色々試してみて、それでもやっぱり描けなくて。「何のために復学したんだか」と思いながら制作していました。

結局、人の形は描けなくて、足の甲だけうっすらと描いたものを講評会で発表しました。「どんだけ叩かれるかな」と思いながら持っていったら、担当の先生が、「これは人物画だね」と言ってくださった。その時は「どこが?!」と思ったんですけど、人の形をとっていなくても人物画と言ってもらえたのがすごく衝撃的で、びっくりしました。

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卒業制作の「此の岸より」

8.なんとしてでも人物画を描く

4年生になってからは卒業制作に取り組みます。どうしても人物画を描いて卒業したかったんですが、やっぱり描けなかったので、もう一年留年して取り組むことにしました。

「なんとしてでも人物画を描く」と意地になっていました。どうしても人の形が描けないことに苛立ちがあったので、以前描いたデッサンやクロッキーの上に新しい紙を置いて、上から左手でなぞって練習しました。でも、筆が進まなくて、むしゃくしゃして墨汁をぶわーっと流したりもして。

「人物画描きたい。でも描けない」と悩んでいるとき、3年生のときに先生に言われたことがふと思い出されました。人の形をとらなくても人物画と分かってくれた人がいたんだから、今はそこまで形にこだわらなくてもいいのかもしれない。これで卒業だから、今の自分を残そうという気持ちで完成させた作品が、今回展示する『此の岸より』です。左下に横たわっているのが人物ですが、結局この時もモデルさんを見て描くことは出来なくて、過去のスケッチの中からしっくりくるものを選んで配置しました。

9.人の体を描けるように

卒業後は、描かれる側にも立ってみようと思い、絵画モデルの事務所に所属してモデルを始めました。1ヶ月に一度、他のモデルさんがやっているクロッキー会に参加しないといけないんですが、やっぱり最初は見て描けませんでした。でも、強制的に描いたり、描いた作品を眺めたり。そういうことを日常にしているうちに慣れるだろうと思って続けていました。

私自身がモデルとして人前に立つとき、色々考えるんです。体重の移動どうしようとか、ここの筋肉みてほしいとか。そう思って研究していくと、自分の体もだんだんと認めていけるようになるというか。柔らかいのは当たり前だし、骨が硬いのも当たり前だし、骨折するのも当たり前だし。「人の体=怖い」から「人の体=きれい」に戻していきたかった。

絵を描く人間として、人の体の生々しさをプラスに生かせないことがすごく悔しかったんです。前向きに生かしていけなかったら、それこそ亡くなった方々に申し訳が立たないし、「亡くなった方々の体を気持ち悪いと思うってどういうことやねん」という気持ちがすごく強かったので、何がなんでも克服したくて。2011年にモデルの仕事を辞めるんですが、その頃には、またモデルを見て描けるようになっていました。事故から6年経って、ようやくです。

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10.事故は自分の人生の一部、風化も自然なこと

気がついたらもう10年だったという感じです。事故も自分の人生の一部で、死ぬまで一緒に付き合っていくのが当たり前なんだと実感がわいてきたのは、10年という時間が経ったからじゃないかなと思います。逆に言うと、風化しいてくことも自然なことだと思っています。

ただ、事故後、取材を受け始めた頃からずっと考えているのは、取材を受けることによって、同じような事故が起こることの抑止力みたいなものになれば、ということです。事故を思いだすことで、「車スピード出しすぎやったな」とか、「焦って電車乗らんで済むよう早めに行こうかな」とか、そういう気持ちを持つ方が多かったら、今後もしかしたら起こるかもしれない事故を防げるかもしれない。そういう気持ちでメディアの取材を受けさせていただいています。

どんどん速くなるのは、実際便利ですからね。便利でニーズに合っているから、全部否定するつもりは全然ないんです。ただ、何かあったときのことをみんなどこまで考えているのかな、とは思います。他人事かもしれないけど、もうちょっとみんな想像力を持っていてもいいんじゃないか。そのくらいの気持ちです。

だから、4月25日だけでも、「そういえばあんなことがあったっけ」って思い出してくだされば。「忘れないで!」と言いたいわけではなくて、例えば、毎年4月に配っている「空色の栞」を本に挟んでくれたら、それが一番です。この5年間、栞のイラストを描かせていただいたんですが、そういう形で事故後の活動に関われたのは、本当にありがたかったですね。栞を見て、「そういえば駅で配っていたな、何の栞だっけ?」そんな程度でいいから、時々事故のことを思い出してもらえれば嬉しいです。

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「此の岸より」など、負傷者の作品や関係者の10年の回想などを集めた展覧会「わたしたちのJR福知山線脱線事故ー事故から10年」は、2015年4月26日まで、東京都豊島区駒込1丁目のギャラリー「KOMAGOME 1-14cas」で開催している。午前11時から午後8時まで。入場無料。

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