死を笑う集落~秩序を守る、生活者としての現実~

仲睦まじい人の繋がり、絆を感じさせる地方の集落。都会の喧騒や希薄な人間関係から離れ、人の温かさを感じたいがために移住してくる人も多い。しかしそこで待っているのは、共同体の中で秩序を守りながら生きるという現実、死をも笑う現実。
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「死んだぁ?良かったねぇ。罰が当たったねぇ」「地獄行きよ」。そんな言葉とともに、その場は笑いで包まれた。

一瞬耳を疑ったが、おばちゃん達に目をやると、はっきりと笑みが見えた。地域社会の人の繋がりや温かさを信じ切っていた「よそ者」の私は、何が何やら全く意味が分からなかった。人の死を笑い喜ぶ人たちに、どんな対応をしてよいのか戸惑い、ただただ苦笑いにも似た表情でその光景に圧倒された。

仲睦まじい人の繋がり、絆を感じさせる地方の集落。都会の喧騒や希薄な人間関係から離れ、人の温かさを感じたいがために移住してくる人も多い。しかしそこで待っているのは、共同体の中で秩序を守りながら生きるという現実、死をも笑う現実。

■死との遭遇

何年か前に入居した施設での生活も落ち着き、健康状態も良好。Aさんが家へ帰りたいという思いを阻むものは何もなかった。2泊3日の一時帰宅、施設スタッフや子どもに付き添われ、自分が生まれ育った集落へ帰宅。しかしその翌朝、姿が見えないと関係者が捜索を始め、正午過ぎ、ようやく発見されたAさんに意識はなかった。家のすぐ近くで不慮の事故により亡くなっていたのだ。 

その一報が住民に届き、瞬く間に死が笑われていった。かつて共に暮らしていた人の死を笑う人々。その圧倒的な不謹慎に違和感を抱いたが、「これが集落という場で生きていく現実」なのかもしれないと、なぜかそんなことがふと頭をよぎったのを覚えている。

■恐ろしき人、ものも言われん。

高知県の山間部、普段出会うのは高齢者ばかり、これぞ過疎といわんばかりのある集落。そんな場所で「地域を元気に!」というお題目のもと仕事をする私にとって、職場であり生活の場でもあるその集落で遭遇した「笑い」には、やはり異常に敏感にならざるを得なかった。Aさんは何故、その死を笑われたのか。集落の人たちとの間に何があったのか。「こんちわぁ~。ちっとお話し聞こ思て」。私は少し日をおいてから、よく世間話をする隣近所の人々へ話を聞きに行った。

聞いていく度、あの時の「笑い」は集落全体のものだったことが分かってきた。「あの人は地域の癌、等外な人よ」。散々にやられた集落の人々は、同じような言葉で半ば呆れ果てたようにAさんとの歴史を話し始めた。

 改めてその歴史を聞いていくと、Aさんはやはり集落の秩序を脅かす「恐れ」そのものであったようだ。

「あんたのとこのミツバチが洗濯物にフンをした。2万よこせ」

「子どもが連れていた犬に吠えられて怪我をした。どうしてくれる」

またある時には他人の家へ入り金をとり、仕事から帰ってくる人を道の真ん中で通せんぼ。集落の集まりがあれば難癖をつけてその場の雰囲気をめちゃくちゃに。そして誰彼かまわず金を要求する。このような騒動がほぼ毎日のように、何十年も続いていた。警察が来て逮捕してくれればとも思うのだが、「戻ってきたら何をされるか」というところもあり、地域の人々は大ごとにならぬよう、出来るだけ個人間で仕舞いをつけていたこともあるという。ノイローゼになるような日々に、「死ねばいいのに」とも思ったと周囲は話す。

警察も行政も親戚も手におえない。もはや集落の会合など出来ず、誰もAさんには関わりたくなかったという。

「何かちょっとでも気に障ったようなことをした時には、今度は何をされるか家に帰ってから不安で仕方なかった」

いつ何時も周囲を怖がらせる存在だったようだ。そしてついに親戚からも縁を切られるが、それがまた激情を招き被害は続いていた。

しかし数年前、施設に入居したことで地域には落ち着きが戻ってきた。Aさんが亡くなる1年ほど前、集落では久々の宴席が開かれた。何気なしに参加したその集まり、それはこれまでAさんによって壊されてきた「集落の復活」だったのだ。そしてそれから1年ほど経ったある日、Aさんは戻って来た自宅のある集落で死を迎えた。

こうして過去を振り返ってみると、生活を、家族を、集落をめちゃくちゃにされた人たちにとって、Aさんの死は、悲しみの感情へ簡単に直結するものではなかったのかもしれない。

■集落での生きづらさと「務め」

しかしAさんは何故そのような行動をとり続けていたのか。

幼い頃はそのような気配を見せず、隣まちから仕事に来ていた夫と一緒になった時も、それほどの騒ぎは起こさなかったという。子どもが生まれ、夫が何かの理由で仕事が出来なくなり生活保護を受け始めた。ちょうどその辺りからお金を求め食ってかかるようになってきたと聞く。金銭感覚は少しずれていたようだが、「精神的な障がいや病っちゅうわけではないみたいやったで」と当時の民生委員や保健師は話す。ただ当時は「診断」をされていなかっただけで、何らかの精神的な障がい等があったのかもしれない。しかし周囲の人からはそのような声を聞くことはなかった。元来の性格と生活環境の変化が、Aさん夫婦に集落という共同体での「生きづらさ」をもたらしたのかもしれない。

ただ不思議なことに、そのような中でも集落の不幸に際して死者を葬る「務め」には、必ず夫婦のどちらかが出て来ていたという。集落の秩序を壊しつつも守るという矛盾、その本心を完全に理解することはもう出来なくなってしまった。親戚や昔からの隣近所が近くに居たにも関わらず、威勢を張り、金を要求し暴れ続けた夫婦。その死を「みんなが喜んでいる」と言い放つ近所のおばあさんは、「誰かの手伝いへ行けばお米くらい分けてもらえたのに」とも話す。

集落という場で暮らすからこその「生きづらさ」を抱えていたのならば、それへの抗いとして暴れるということは理解出来なくもない。

しかし一方でその集落から離れず、「務め」は果たし続けたという現実。「生きづらさ」の裏には、何があったのだろうか。

■秩序、生活者としての現実。

その時その場で被害を受けていた人々にとって、Aさんは秩序を壊す恐怖の存在であったことに間違いはない。いつも気さくに声をかけてくれ、「よそ者」の私を心配してくれる近所のおばあさんは「彼女を殺し自分も死ぬという思いにまで駆られたこともある」という。そのような極限の状態に追われながらも、いわゆる「村八分」や村からの追放という選択を集落は取らなかったのだろうか。

「縁を切ったと言っても、Aさんの親戚がその集落にいることを思えば、それは出来ない」。同じ家系の顔を立てる、という理由なのだろう。散々な目にあっているにもかかわらず、集落という共同体の関係性に配慮する人々、それは目には見えない何かに縛られているようにも感じられた。

「あの人は地域の癌よ」

世の中には様々な困難を抱えた人が存在する。一人一人がそのことに配慮し、困難を分かち合いながら共生する社会を目指そう、などと概念が先行したような文句が叫ばれる。しかし「生きづらさ」を抱えていたかもしれないとはいえ、「癌」とも表現されるAさんの行動は、集落という共同体のもとで生き続けていく「生活者」にとって、二の次のお題目にしか映らないのかもしれない。他者の自由と共同体の秩序を壊し、害を及ぼすものは、そこで共に生きる人々にとって、共に生きる人々だからこそ、容易に受け入れられるものではない。それこそが、一人一人が分断されず、集落という共同体で生きていく「生活者」の現実なのではないか。同じ集落に住み、親戚関係や長く連れ添った共同体の一員でありながらも、尋常ではない被害を受けていたゆえ、もうどうにも受け入れられない、そんな葛藤もあったのだろう。

■田舎・地方礼賛主義を超えて

死を笑うという場面に遭遇し、死を笑うという現実を知った。都会と比べて人の繋がりが温かく、誰でも家族の一員として迎えられるように喧伝される地方。しかしその場で生き続ける「生活者」という存在に目をやれば、集落の秩序を乱し壊すものは、嫌厭され、死は悲しまれることなく迎えられた。誰彼もが「受容」されるわけではない。普段は「よそ者」の私にも温かく声をかけてくれ、知らぬ間に玄関先にお野菜やお惣菜を差し入れてくれる思いやりのある人々。互いの安否を確認しながら「高齢化・過疎化」した集落で生きる人々。そんな人々であっても。

だが決してこれは「生活保護受給者」等への偏見から、排除や笑いが起こったものではない。あくまでも、ノイローゼになるような嫌がらせや騒ぎという実害を経験したことによる、「生活者」の反応なのだ。表面的なレッテルに踊らされた排除の問題ではない。「誰かの手伝いに行けば、お米くらい分けてくれたのに」というおばあさんや、互いを見守りあって、助け合って生きていく一人一人と共に暮らしている私は、強くそう思う。

田舎・地方の生きづらさ、それは限度を超えない自由。それが嫌でそこから脱出してきた世代もいる。それでも今、人々は田舎・地方へ回帰していく。田舎・地方の生きづらさという現実に見て見ぬふりをし、温かい人の繋がりで満ち溢れていると信じてやまない桃源郷へ。そこは秩序を維持するため、人の死を笑うこともあるようなところ。田舎・地方の「自由」を求めるばかり、人の繋がりの現実とは如何なるものかを問わず。

だが、ふと死を笑う場面に遭遇した時の感情へ立ち返る。私はどこかで、死を笑うという圧倒的な不正義に、上っ面な人権意識をもって田舎・地方というものに批判的な眼差しを注いでいたのではないか。「生きづらさ」を抱えている人のことも考えず、死を笑うなんて。だとすれば、私もまた田舎・地方に無批判な憧れや理想を抱いていたのかもしれない。集落は温かく、誰でもどんなものでも受け入れてくれるものだと。

ふと思いが巡る。「他人の死」へのリアクションということを思い起こせば、壁一枚を隔てた隣人の生死をも気にかけず、多くの死を素通りする都会的な現実。それと比べれば、死を笑うということは、死を笑ってもらえるということは、もしかすると死を迎えた人の存在への、生々しい感情をもった、弔いの一つ、承認の一つなのかもしれない。薄いようで厚い壁に囲まれ、その死があることも知らされず、感情を傾けられることもなく、一切の表情も投げかけてもらえずに人が死にゆく時代、そんな世の中で笑ってもらえる死。 

あの時人々が死を「笑った」という現実は、都会のそれとはどこか違う。死を笑うということの不正義は覚えるだろうが、その死はあくまでも他人の死、笑っても笑わなくても、単なる他人の死、それまでだ。ただ集落の人々には、厳格に言えば他人でありながらも、親戚関係が近いことや、定住を基本として生活を共にしてきた共同体としての、いわゆる「絆」がある。そんな「絆」がありながらも、尋常ではない被害ゆえに、その死を「笑う」ことで「肩の荷を下ろさざるを得ない」その心の奥には、計り知れない複雑な思い、葛藤があったはずだ。

(この記事はジャーナリストキャンプ2014高知の作品です。執筆:和間恒一郎、デスク:開沼博)