2015年も早いもので、もう半年が過ぎました。夏真っ盛りの7月、太平洋を渡ったアメリカでは、間もなく全国的に大きな花火が打ち上がります。1776年にアメリカ独立宣言が公布されたことを記念して制定された"アメリカ独立記念日"です。そこで今回は「アメリカで人生が変わった人々」をお2人ご紹介いたします。
お一人目は、高尾幸子さんです。沖縄から北海道まで自転車で日本を縦断し、日本国中の海の幸や山の幸、素敵な人たちとの出会いを英語で世界中に発信するプロジェクト"Finding Sachi"を敢行しました。
幸子さんはこれまで、アメリカとイギリスで仕事をされてきました。カルチャーショックやカルチャーギャップに悩まされながらも、それでも生活のために稼がなくてはいけない。そして帰国されてからは、元々全くアスリートではなかったのに、自転車での日本縦断の旅に出る・・・
弱さを決して表に見せず、弱さを越えてポジティブに前に進んでいく。そんな幸子さんのメンタルの強さの源を探りました。
*インタビュー@フロマエcafe & ギャラリー(荒川区西日暮里)
*撮影:佐久間寛朗
■ 世界を夢見る少女
日本中のおいしいものを世界の人達にもっと知ってもらいたいという強い思いから、この"Finding Sachi"というプロジェクトを立ち上げました。ソロで私サチが日本の海の"幸"、山の"幸"を紹介し、そして"幸"せを見つけ、私自身も見つける - それらを全部込めて"Fingding Sachi"というタイトルにしました。そのプロジェクトを始めるまでは、私は大学留学を含め10年以上海外で生活、仕事をしていましたが、そのキャリアをも全部捨てました。なぜそうまでして日本に戻り、このプロジェクトを始めるに至ったのかを、一気に巻き戻して私の学生の頃のお話から始めたいと思います。
私は福岡県南部の、景色がとても綺麗で食べ物が新鮮な、素晴らしい田舎町で育ちました。両親は日本人ですから、小さいころからバイリンガルで育ったわけではありません。英語を習い始めたのは皆さんと同じ中学生の頃です。ただ、英語に触れたその瞬間から英語が大好きで大好きで、英語の勉強はすごく楽しくて全然苦になりませんでした。やっぱり"好きこそものの上手なれ"の言葉通り、好きなことだとどんどん勉強できるし、時間を費やしただけ上手になる。そんな英語漬けの中学時代でした。そして高校3年間は英語コースに進み、更に英語に重点を置いた学校生活を送りました。
更にもう一つ、今の私に大きな影響を与えたことがあります。私の母方の祖父が招待外科医として1960年代にシカゴの大学病院で働いていた縁で、母は高校生の頃、シカゴ郊外にある高校に留学し、そこを卒業しました。その頃の話を聞いて育ったので、自分も高校生になったら留学するのであろうという自然な思い込みがありました。
高校1年生だったある日、仲良しの友人がカナダに留学することを知り「もうそういう時期か、これは大変だ!」と、私もその翌日に留学の手続きを取り始め、高校2年生の夏から高校3年生の夏、つまりアメリカの学年度の始まりから終わりまで、1年間の交換留学生として渡米しました。
■ 出る杭はWelcomeの学園生活
私が留学した高校は、ロサンゼルスやニューヨークのような大都市ではなく、カリフォルニア州のサンフランシスコより更に車で北へ4時間行った所にある、生徒数300名程の"Mendocino High School"という小さな公立高校。その街にたった一人の日本人としてある日現れました。
最初は「なんて大変なところに来てしまったんだろう」というのが正直な気持ちでした。日本の私の地元よりも更に田舎で、夜は本当に何も見えないくらい真っ暗の森の中で、車の音も聞こえない。英語は確かに好きでしたが、日本で習うそれとは違い、ネイティブの生徒たちが国語として学んでいるものです。アメリカ人生徒のクラスに混じって、アメリカ文学や歴史、数学などの科目が、新学期と共に始まりました。
色々な科目の中でも、アメリカ文学のクラスは恐怖の一時間でした。30人くらいで輪になるのですが、一本のバトンが回ってくるのです。それを手に取ったらアメリカ文学やヘミングウェイについて、自分の意見を話さないといけないんですね。自分にバトンが近づいてくるにつれて心臓が口から飛び出そうで、それが回って来たら即「はいっ!」って隣に回してて(笑)冷や汗たらたらでした。そういう無言の状況が最初の3ヶ月間続きました。
しかもアメリカの高校生の英語ってすごくスラングが多いんですね。日本語でいう「だよねー」みたいに、皆かっこつけて喋りたがるし、そのスピードも大人よりずっと早い。スラングと流行りの喋り方とそのスピード・・・ホストファミリーのゆっくりした喋り方と全然違うので、それに慣れるのに約3ヶ月かかりました。初めて文学のクラスで発言をしたその日には、あるクラスメイトから「サチコは身体的な障害があって喋れないんだと思ってた」と言われました(笑)本当にそれくらい私は無言で固まってたのです。今でもその頃のことは忘れないし、私にもそんな頃があったなあ、と今でも鮮明に思い出せます。
生徒みんなががのびのびとディスカッションしていて、日本の高校にはない雰囲気でした。みんな「はい!」と手を挙げるのですが、言いたくて言いたくて仕方のない子たちばっかりだから、手が上がる数もすごいんです。主張することが求められているし、自分のことをちゃんと表現できることが尊敬されるんですね。そういう中にいると、静かにしていたら存在感が段々なくなっていく。ある程度自己アピールをすることを求められる世界だったので、ユニークな子ほどステータスが上がるような雰囲気でした。出る杭は絶対に打たれない、むしろ出る杭を育ててあげようという環境でした。
■ 人生初の日本文化発信
カリフォルニアでの高校生活の最後の締めのクラスで、自分の好きなテーマを選び、プレゼンをする機会がありました。アフリカのモロッコに行って撮ってきたプロ顔負けの写真を見せる生徒、ギターを弾いてみせる生徒、俳優ばりに詩の朗読をする生徒など、本当に様々。そんな中で私は、「自分にしかできないことをしよう」と思い、5歳の時から10年間学んでいた日本の書道のライブ実演をしました。
日本の字ってとてもアーティスティックですよね。筆でクラスメイトの名前を書いたり、リクエストされたLoveを"愛"と漢字で書いてあげたりしたら、皆大喜びでした。私にとってはある意味楽なプレゼンテーションでしたが、それを生まれて初めて目にする同級生たちが、身を乗り出して真剣に見学してくれたことは、今でも忘れられません。
それ以外の時にも、ホストファミリーが開くイベントでは、日本の部活動でやっていた華道や茶道を披露しました。今思えば、「世界に向けて日本の文化を発信する」ことはその時から始まっていたんですね。
■ 留学→世界的企業
日本に帰国後、私はいわゆる「受験勉強」には興味がありませんでした。日本の大学を受験するつもりが全く無かったからです。その代わり、私は全力でアメリカの大学を目指しました。
普通だと、願書をいろんな大学に出すと思います。でも私は、たった一つの大学に出しました。私は3人兄妹の真ん中なのですが、3人とも大学に行きましたから、費用が相当かかりますよね。なるべくコストが抑えながらも学部の内容や大学のサイズ、そして場所に的を絞り、探し当てたロサンゼルスの大学1校だけに願書とTOEFLの成績証明書、小論文、そして申請費50ドルを送りました。
私が興味を持ったのは"ラジオ・テレビ・フィルムアーツ"、いわゆるメディア系の学部でした。しかも私がカリフォルニア州の高校時代に好きだった科目がアートとコンピューターだったので、私はその学部の中でも"マルチメディア"を専攻しました。これを選んだ高校3年生の当時、日本ではパソコンやインターネットを使っている人達がまだ多くなかった。でも、将来は新聞やテレビが縮小し、メディアはネットが牛耳るという直観があったので、自然な流れでその学部を選びました。
大学3年生からは合わせて3つのインターンシップを始めました。NHKロサンゼルス支局のニュース部門や、"TBWA\CHIAT\DAY"という世界でも有数の広告代理店でのインターンの機会も頂きました。
そして大学生活最後のインターン先が、アメリカ3大ネットワークの一つである"ABC (American Broadcasting Company)"でした。これは大学の教授に推薦頂いたのですが、インターンといえども履歴書を送り面接をして合格するという、普通の就職と同じ流れでした。ペーペーの私は中身のない履歴書を送ってあとは祈るだけだったのですが、採用を頂き、そのまま卒業後も仕事を頂いて、新卒としての就職をすることができました。
そこでは"abc.com"というウェブサイトでABCの番組のサイトや広告の制作に従事しました。ABCは"oscar.com"というアカデミー賞公式ウェブサイトも作っているので、アカデミー賞の会場にも行くことができました。会場外のレッドカーペットにやって来るハリウッドスター達の画像を処理してライブアップデートするというタスクですが、そんな華やかな舞台も経験することがありました。
■ 朝からレッドブルの世界
外国人留学生がアメリカの企業に就職するのは、なかなか至難の業です。まず皆さんご存知のように、ビザの問題があります。就労ビザが必要で、それがおりるのは容易ではない。その人にスキルがあり、且つそれが大学での専攻と繋がっていれば、企業がその人を採用し、スポンサーとなってビザを申請するのですが、その外国人がアメリカ人の職を奪っていないという証明をしなければなりません。その証明書を米移民局に送り、OKが出てようやくビザが下ります。それがなかなか難しく、しかも2001年にニューヨークで911テロが起きて以来、ビザの発行数の上限がさらに減らされてしまったのです。
そんな厳しい状況にありながら、ABCは私を採用して下さり、しかもその次にも私をバックアップして下さった会社がありました。ABCの親会社であるウォルトディズニーカンパニーに、新たに設けられた映画配信の部門です。そこでもサイトデザインや、ソフトウェアのシステムのインターフェイスデザインを2年ほど担当しました。
大学2年生の時に一度だけ受けたTOEICのスコアは945点でした。でも「ネイティブに比べると私は英語が完璧じゃない」という劣等感が常につきまとい、しかも有名企業で頭の良い人が集結したチームでしたから、23、4歳の私は小さなミーティングでも非常に緊張しました。何だかあのカリフォルニアの高校に留学していた当時の、最初の頃の悪夢がよみがえるような気さえしました。それでも自分が仕事に対してどう向き合うか、そして今ここで取り組んでいる仕事を任せて頂いたことに感謝の気持ちを常に持って従事していました。
しばらくして、ある会社から声がかかりました。オンラインでビデオを編集できるソフトを開発するスタートアップでした。当時はまだ社員が6名で、私が7人目の社員でした。またも一人ぼっちの外国人、加えて女性は私のみ。でも、せっかくの機会なので「とにかくやってみよう!」と勢いで飛び込みました。チームの殆どがエンジニアで、彼らは今まで私が聞いたことがないような凄まじい速さで話すし、オフィスなのに怒号は飛び交うし、朝からレッドブルをガンガン飲んで働くしで(笑)そんな今までとは違う渦の中で、私は皆についていくのに必死でした。自分の意見を主張しないと良いアイデアを持っていても消されてしまう、そんなバトルフィールドで、時々あまりの強烈さで泣きそうになりながらも、凄腕のプログラマーたちに自分のデザインスキルで食らいついていました。大変だったのは確かです。でもそのチャレンジを、私はとても楽しんでいました。
■ 家族の危機
そんな激しい環境での仕事にも慣れてきたある日の夜、電話が鳴りました。それまで電話をしてきたことが無かった私の叔父からでした。
すごく慌てていて「これはヤバい状況だ」と一瞬で分かりました。「大変だ、大変だ!」とだけ言うのでどうしたのかと聞きました。
「さっちゃん、お母さんが倒れた!」
母は救急ヘリで大学病院に運ばれている最中で、家族は車でそれを追いかけているんだ、と。私はすぐにでも飛んで帰りたかったのですが、叔父は「今は待機しているように」と言いました。
幸い、最悪の事態は回避できたようでした。電話が鳴ってから1週間後に帰国しましたが、病院に行く時はとても緊張しました。私が一番影響を受けた人ですから・・・。ICU(集中治療室)のドアを開けると、母が横たわっていました。目はほんの少しだけ開いていましたが「お母さん・・・」と呼びかけても、あんなに元気だった母が微動だにしませんでした。でも私が「帰ってきたよ。分かる?」と聞くと、うなづく代わりにまぶたを10秒ほどかけてゆっくりと閉じました。
それから2ヶ月間の日本での滞在中、母の状態は少しずつ良くなり、車椅子に乗れるようになった頃に私はアメリカに戻りました。今では歩けるようになっていますが、当時私の家族は皆"死"を覚悟していました。以前、私が渡米する前は、笑い話みたいに死についてはしょっちゅう話し合っていましたが、まさか急に目の前にそれが現れるなんて、本気では思っていなかった。死というものはこんなにも間近にあるものなんだと、家族全員が改めて痛感した出来事でした。それ以来、私たち家族の絆がとても強くなりました。
■ 挑戦を求めて新天地へ
アメリカの仕事に戻って一週間後、私が在籍していたスタートアップ企業が大手企業に買収され、なんと私の部署は閉鎖が決まり、母の次に大変な事態になりました。リーマンショック後で冷え気味だったマーケットで職が見つかるのか分からない状況の中、買収先の大手メディア"FOX"に私の移籍が決まり、かつて大流行したSNSサイト"MySpace"のモバイルチームでただ一人のデザイナーを命じられました。ただ、既に確立されていたメディアだったので、私にとってはあまり刺激や魅力が感じられませんでした。
挑戦のない毎日に、心がだんだんしおれてきて、朝起きるのも辛くなりました。ベッドから1本ずつ足を床に投げ出し、体をゆっくりベッドから床に滑り下ろしてようやく起きるという、自分が知っている私らしさからは遠い生活が続きました。そして仕事から帰ってきては「このままでいいのかな」と思い悩む毎日・・・。
そんな折に、私が自宅で引き受けていたフリーランスの仕事のクライアントから「ウチに来ないか?」と言われました。ご縁のあったイギリスのスポーツ関係の会社で、新しいスポーツショップの開店と運営を打診されました。11年間過ごしたアメリカ生活、振り落とされないよう必死にしがみついていた場所だったから、離れることにためらいを感じずにはいられませんでした。でも、悩んだ末にいざ決心をすると、体が浮き上がるような気持ちになって、その瞬間から笑顔が戻ってきたのです。
イギリスでは、ショップマネージャーとクリエイティブやマーケティングを兼務しました。お客さんが来たら応対し、お客さんがいないときは店内で広告や様々なデザインや業務をしていました。もしそこがロンドンだったら様子は違っていたかもしれませんが、私が働いていた場所はお城で知られるウィンザーという街。それほどコスモポリタンではなく、見受ける感じでは、観光客以外は私が町で唯一の日本人。ダウンタウンに行けばすれ違う男性に「ニイハオ!」と言われるのは日常茶飯事でした。ロサンゼルスにいた頃はアウェー感はほぼゼロでしたが、ここでは私の気にし過ぎなのか、アウェー感は半端なく、海外慣れしていても日本人の私が周りから浮いている感覚が大いにありました。
一方で仕事では、ショップ立ち上げ時の忙しい時間が過ぎて自分の成長を感じられなくなっていました。「この先私はここに5年、10年と座っているのだろうか」と、再び自分に問うようになりました。
でも、だからといって何をしたら良いか分からなず、涙がポロポロ出てきて、どうしようもなく悩む。行き詰まって私は聞きました・・・グーグル先生に。
■ 日本を世界に伝えたい!
"I don't know what to do"(何をすれば良いか分からない)と検索窓に書いたら、同じような人がたくさんいることが分かりました。その中にある解決法が載っていて、それは「20分間、白紙に自分の好きなことをとにかく書き続けなさい」というとてもシンプルなもの。実際にカフェでそれをやってみたら20分では終わらず、軽く1時間は書き続けました。その後"やりたくないこと"も書きましたが、ここで面白いことが見えてきました。そのほんの一部だけご紹介すると・・・
・おいしいものを食べることが好き。
・日本食や日本そのものをもっと世界の人に理解してほしい。
・自分を含め世界中皆の健康や幸せを願っている。
・旅が好き。
・生きている間に本を出版したい。
・ニューヨークタイムスのカルチャーセクションやフードセクションに載るようなことをやってみたい。
・アメリカのTVチャンネル"フードネットワーク"で和食を紹介する番組を作ってみたい。
・運動をして健康を保ちたい・・・ etc
これらをつなげたら、何かになるのでは?と思いました。
アメリカにいた頃、よく友人から「日本では何を食べていたの?SUSHI?」と聞かれました。お寿司を毎日なんて食べませんよね。母が家で寿司を握ってくれたことなんてありませんから(笑)でも「じゃあ、何を食べてきたの?」って聞かれたら、ふっくらな白米にしろお味噌汁にしろ、奥が深くて一言では説明できない。バラエティ豊富で季節によっても変わる日本の食卓を、どう説明すればいいのでしょうか。どうにかできないかと常々思っていました。だんだん皆さんも予想できたと思うのですが(笑)それらが全部つながって"どピンク"の自転車で日本を縦断しようというコンセプトが生まれました。
私が日本各地の美味しいものを食べながら世界に紹介するのですが、自転車でカロリーを燃やすから健康的。しかも自転車日本縦断を女子がソロでやるというのは、珍しいからそこからも興味を持ってもらえる。そして私がそれをやるのは、海外に長くいた分、日本を改めて学び直す機会を持つためでもありました。さらに私が日本に帰国した時は29歳でしたから、"若い女性がチャレンジする"という流れにするためには急がなくてはいけませんでした(笑)
企画書を書いてスポンサーを募り、自転車やヘルメット、ウェアを提供していただきました。自転車はチェコの"アーサー"というブランドで、最初は白と黒だったのですが、女性がこのプロジェクトに取り組んでいるということを、写真で見た時に一発で分かってもらうためにどピンクに塗り替えました。さらにこの自転車に"サクラ"という名前をつけたのは、日本の象徴である"桜"という言葉を世界の人たちに覚えてほしかったから。この企画の細部に渡るまで、私なりの理由と目的があったのです。
■ 日本中の愛に触れる旅
そして出発。奇しくもあの日の前日、2011年3月10日でした。
福岡を出て熊本県内を走っていた翌11日、東日本大震災が起きました。走っている最中は全く知りませんでしたが、途中でご飯を食べに入った食堂のテレビで、東北が大変なことになっていることを知りました。中継で仙台空港に津波が押し寄せる映像を見て、FacebookやTwitter、ブログを通じて素晴らしい日本を発信していこうとしていた私の心に、強力なパンチを食らったような衝撃を受けました。引き続き私は走りましたが、震災直後の一週間の発信は「私は大丈夫です」くらいに留まってしまいました。
でも私は思いました。そんな時だからこそ、日本のポジティブな面をアピールしないといけない、と。なぜなら、全く地震の影響が無かった地域にすら観光客が来なくなったじゃないですか。日本に住んでいた外国人の多くが母国に帰ってしまったし、世界中に「日本全部が危険な場所だ!」という誤解が広がってしまった。でも私が自転車で走る姿を伝えることで「日本は安全なところがほとんどなんだよ」と伝えるためにも"Finding Sachi"を続けなければならないと思いました。それに被災地へ募金が送られるシステムも、私のサイトにセットアップしました。
そして実際に私自身、行く先々でたくさんの人から親切や、笑顔や、応援や、多大なる愛情をいただきました。日本中の大きな愛に触れたのです。
合計7ヶ月の旅でした。ただ縦断するだけならもっと早く達成していましたが、私には日本各地の海の幸や山の幸を世界に伝えるという目的がありましたから、それくらいかかりました。北海道では、ちょっとしたことで骨折するケガをしてしまって足止めを食ったこともありました。それでも日本最北端の宗谷岬でゴールを果たし、プロジェクトの最後に仙台へフェリーで向かい、石巻で5日間の心ばかりのボランティアをさせて頂きました。
仙台からは一気に新幹線で日本を逆縦断して実家へ。総走行距離は約5400キロでした。
■ 夢に向かって挑戦する勇気を
そしてまた次のステップに進むために、私は2014年3月に福岡から上京してきました。この先のことはまだオフレコですが(笑)私は思います。「人生で死ぬ前にやり遂げてみたいことがあったら、誰に何と言われようが、挑戦すればいい!」と・・・
だから今日お越し下さった皆さんも、心に秘めている夢や想いがあるならば勇気をもってチャレンジしましょう!もしそれが分からないなら、白紙にペンと向き合い、自分の好きなことを書き出してみてほしい。ワクワクが止まらなくなるような、それまで隠されていた人生のヒントが、きっと目の前に現れてきますよ。
【関連リンク】
Finding Sachi:http://findingsachi.com/
"Finding Sachi" Facebookページ:こちら
(2014年9月25日「My Eyes Tokyo」に掲載された記事を転載)