日本の立憲主義がまさに危機に瀕している。国民の間でなかなか理解が深まらなかった安全保障関連法案が7月15日午後、衆院平和安全法制特別委員会で自民、公明両党の賛成多数で強引に可決された。怒号が飛び交い、議場が阿鼻叫喚(あびきょうかん)に陥るなか、浜田靖一委員長は強行採決に踏み切った。テレビ映像を見て、唖然(あぜん)とした国民は多いはずだ。
歴代内閣が憲法上許されないと解釈し、多くの憲法学者や元内閣法制局長官らも違憲と指摘してきた集団的自衛権の行使をめぐり、安倍首相はこれで、事実上の「解釈改憲」という手法で突破口を作った形だ。
言うまでもなく、憲法は国の最高法規であって、国の根幹。時代の要請や情勢の変化が生じているからと言って、一内閣の判断で変えるべきものではない。自民党が将来下野し、今の野党が政権を担ったときに、異なる内閣の閣議決定や関連法案の改正で集団的自衛権の行使を再び禁止したらどうなるのだろうか。本来は、真正面から憲法改正で臨まなければ禍根を残す問題だ。
厳しさ増す安全保障環境
日本や世界を取り巻く安全保障環境を考えれば、私は集団的自衛権の行使の容認には賛成だ。しかし、解釈改憲で乗り切ろうとしてきた安倍政権の手法やプロセスはおかしいと思っている。
安倍首相が集団的自衛権の行使容認を急いできた1つ目の理由としては、同盟国のアメリカからアジア太平洋地域を中心に安全保障の負担をもっと担うよう、強く求められてきたことがある。
戦後の国際秩序を維持してきた「世界の警察官」としてのアメリカの覇権力は低下してきている。例えば、アメリカは第二次世界大戦終了後、圧倒的な海軍力で太平洋など世界の7つの海を守り、航行の自由を保障してきた。しかし、かつて約6700隻もあった米軍の艦船は今や、その5%にも満たない戦後最少の280隻余りにまで減っている。アメリカの経済力の低下や艦船の高額化などがそうした艦船保有数の減少を招いた。このため、アメリカは、マラッカ海峡やソマリア沖での海賊の出現といった事態を引き起こしてきたほか、南シナ海の南沙諸島や西沙諸島では、野心あふれる中国の実効支配の動きを容認せざるを得なくなってきている。
アメリカも国防予算が削減されて自らの余力がなくなってきているのを分かっている。このため、日本に、南シナ海の日米共同監視活動など安保負担を求め、自らは負担減を図りたい意向がある。アメリカにしてみれば、安倍首相はそうした期待に見事に応えてくれた。
さらに、お隣の中国は、四半世紀の歳月にわたって、驚異的な2ケタの伸び率で国防費を増やし続けている。北朝鮮も核ミサイル戦力を着々と増強してきている。ロシア軍機による日本領空への接近も活発化し、自衛隊機によるスクランブル(緊急発進)も増えてきている。
安倍首相が集団的自衛権の行使容認を急いできた2つ目の理由には、個人的な思いがあるかもしれない。安倍政権は「戦後レジームからの脱却」を掲げる。日本は戦後70年、憲法9条の下、いわゆる「普通の国」ではない国として生きる道を選んできた。しかし、日本を取り巻く安全保障環境の厳しさを口実に、集団的自衛権の行使容認で、より対等な日米関係を構築し、日米関係を強化しながら日本の自立を実現する――。安倍首相は、祖父・岸信介元首相と同様、こんな姿勢で「戦後レジームからの脱却」を目指しているのかもしれない。しかし、本人がアメリカからの「自立」を目指しているつもりでも、逆に対米追従を強め、「戦後レジームの強化」につながっている側面もある。
解釈改憲は限界
解釈改憲が既に限界に来ていることは誰の目にも明らかだ。憲法9条第2項には「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と明記されている。そして、その条文を素直に読めばどうみても矛盾するとしか思えない、世界有数の軍隊である20数万人に及ぶ自衛隊を保有してきた。
その憲法上は「軍隊ではない」自衛隊には、軍法がなく、一般の刑法などで裁かれることになっている。本来は、自衛隊の根本的な法的地位を国民に問うことなしに、自衛隊を海外に送ってはならないと思っている。解釈改憲の問題や自衛隊の派遣条件については、機会を改めて論じてみたい。
振り返れば、戦前の帝国日本では明治憲法の下、天皇が持つ軍の最高指揮権である統帥権について、軍が拡大解釈して政治への介入を強化、負け戦の中、戦線を拡大させていった。現在の日本ではシビリアンコントロールが十分に確立されてはいるものの、一内閣の裁量で憲法の解釈を変更し、政府の権力を大きく拡大することに対し不安を感じる国民は多いはずだ。この国の政治家に、リーガルマインド(遵法精神)や立憲主義の精神はないのだろうか。国民はそんな法治国家の根幹部分を揺るがすようなことを認めていいのだろうか。政治家も国民も立憲主義の精神が今、強く問われている。
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