日本が終戦を迎えた1945年8月15日を過ぎてから、戦争に巻き込まれた日本人がいた。サハリン(旧樺太)などに暮らしていた人たちだ。
終戦直前に始まったソ連軍の侵攻は8月下旬まで続いた。戦後も東西冷戦の影響などで日本への引き揚げがかなわず、長年現地に取り残された人もいる。
降籏信捷(ふりはたのぶかつ)さん(75歳)もその一人だ。戦後54年にわたり、サハリン残留を余儀なくされてきた。1999年2月に永久帰国が認められ、今は北海道稚内市に暮らす。
降籏さんは数年前、自らの半生をロシア語で手記にまとめた。ロシア語翻訳家の小山内道子さん=札幌市=が日本語に訳し、このほどハフポスト日本版に提供した。手記から浮かび上がるのは、戦争と歴史に翻弄されたサハリン残留日本人の姿と、彼らから見た、今はなきソ連のリアルな姿だ。
降籏さんは1942年1月、長野県洗馬村(現塩尻市)に生まれた。生後3ヶ月のころ、無線技士だった父の転勤で、一家は樺太に移住した。
移り住んだのは、樺太の南部にあった内知床(うちしれとこ)村という場所だった。そこで父は灯台の管理をしていたという。当時、樺太のうち、北緯50度以南は日本領で約40万人の日本人が暮らしていた。 終戦時、降籏さんはまだ3歳。夢か記憶かあいまいだが、そのころの情景をこう記している。
ソ連の飛行機が飛んできて、その飛行機はたいへんな低空飛行だったので、パイロットの顔が見えました。僕たち子どもはみんな、走って、走って最初にぶつかった屋根のあるところに飛び込んで隠れるのです。
終戦直後、ソ連軍の侵攻から逃れるため、日本の本土へ引き揚げようとする船が相次いだ。だが、ソ連軍とみられる潜水艦の攻撃を受けて沈没や破損するなどし、多くの人が亡くなった。
正式な引き揚げは1946年に始まり、49年までに計約30万人が本土へ戻った。だが、様々な理由で引き揚げの機会を逃す人たちもいた。降籏さん一家もそうだった。降籏さんは1948年、荷馬車から落ちて脚を骨折。そのころ周りの日本人は続々と引き揚げていったという。
ちょうど僕が脚を折って病気で寝ていた時、村に残っていた日本人は皆日本へ引き揚げました。僕の治療をした猟人も引き揚げましたが、出発の前に僕をわざわざ見舞って、励ましてくれました。 姉のケイ子が走って帰ってきて、今祖国へ出発していった村の日本人を見送ってきたと話していたのを覚えています。僕も窓から顔を出して学校の校庭を見ました。すっかり空っぽで静まりかえっていました。誰もいませんでした。走り回っている生徒たちも見えず、学校の鐘も聞こえてこなくなっていました。
引き揚げた日本人たちの家には、移住してきたロシア人や朝鮮人たちが住むようになった。ロシア人の移住者は多く、住宅が足りなくなると、彼らは自分たちで丸太づくりの家を建てたという。降籏さんは、ロシア人の手先の器用さに驚いたという。
ロシア人は有能な民族で、手仕事の達人と言えます。誰を雇うこともなく、家政のために自分の手で自分たちのテーブル、椅子、ベンチなど、必要なもは何でも作るのです。
一方、朝鮮人の移住者たちについては、降籏さんはこう描写している。
朝鮮人には非常に病人が多くて、たびたびお葬式がありました。多くの人が死んだのです。朝鮮人の学校が開校し、朝鮮人の先生がいて、朝鮮語で勉強していました。朝鮮人の家族は大変多く、子供も多かったのですが、ロシア人の学校へは行きませんでした。
1948年の冬。降籏さんに妹が生まれました。タカ子と名付けられたが、生後3ヶ月で病死したという。
タカ子は12月19日に亡くなりました。でも、タカ子はちゃんと埋葬されませんでした。薪を集めて火葬にしたのです。そして、骨を骨壷に入れて家においてありました。
降籏さんの父親は魚の加工工場で働くことになった。スケソウダラやカレイ、カジカなどをゆでて農業用の肥料をつくっていたという。暮らしぶりは貧しく、母親が父親に不満をぶつけたこともあった。
母が父に「家には子どもたちに食べさせるものが何もない。工場には魚があふれるほどたくさんあるというのに。家に一匹も持ってこれないの!」と怒ったのです。この喧嘩の後、もう夜になっていましたが、父は工場に出かけていきました。そこには夜警がいたのですが、父は夜警に妻の不満を話し、家庭の状況を説明したのでしょう。父は2匹のマスを持って帰ってきました。
その後、父親は学校の経理主任の職についた。経理といっても、校舎の日々の掃除や大工仕事もこなす「何でも屋」のような存在だった。慣れない異国生活に適応しようとロシア語の勉強もしたという。
父は学校が夏休みの間、3ヶ月間守衛を務めました。その間は当直のため学校に泊まりました。このような当直の夜に、父は初めて石油ランプの光で、ロシア語の『ロビンソン・クルーソー』を読了したのです。
終戦から4年後の1949年。7歳になった降籏さんはソ連の学校に入学した。姉ケイ子さんも同じ1年生として入ったという。
最初の頃、僕たちは先生が話すことも分からず、どうしていいか分かりませんでしたので、ただ座って、他の生徒がやっていることをじっと見ていました。ケイ子が何かやると、僕も同じことをしました。ケイ子は年上なので、僕より理解していたようです。日が経つにつれて、ぼくたちは次第に同級生が話したり、書いたりするのが分かるようになってきました。子どもの年齢というのは、すべてを素早く分かるようになり、できるようになり、何でも一瞬にしてつかみ取るのです。僕たちもそうでした。
当時夢中になった遊びなどについても降籏さんは詳しく記している。
休み時間には、男の子は大体、「ゾーシカ」という遊びをしました。この遊びはちょっとバドミントンに似ているかと思いますが、「ゾーシカ」ではラケットではなく、足を使う必要があるのです。ゾーシカとは動物の毛皮を丸めたボールのようなものを投げ上げて地面に落とさずに足で拾って、何回後ずさりしたかで勝敗を決めるのです。
冬になると、僕の楽しみは山からスキーで滑り降りることでした。子ども用のスキーはありませんでしたので、自分たちで作らざるを得ませんでした。樽作りに使う板を持ってきて、それに締め具を取り付けて滑りました。
1953年3月。ソ連を揺るがす大きな出来事があった。最高指導者スターリンの死だ。ソ連「建国の父」レーニンの後任として、第二次世界大戦でナチスドイツに勝利し、ソ連をアメリカと並ぶ超大国に押し上げる一方、多くの国民を粛清した独裁者が亡くなった。そんな歴史的事件を、降籏さんは「目撃」した。
国全体が喪に服していました。学校では半旗が掲げられました。深い悲しみのうちに先生も生徒も泣いていました。
僕は何かの授業の時、いっしょに座っていたクラスメートに言いました。「君たちのスターリンが死んだね」。するとその子は僕が「僕たちのスターリン」ではなく「君たちのスターリン」と言ったと先生に訴えました。担任の女の先生は偉大なる指導者スターリンは単にソヴェート人民の友であり、父であるだけでなく、全世界、全人類の友であると、長々とお説教をしました。僕は自分の言った言葉でひどく気まずい思いになり、ずっとうつむいて先生の言うことを聞いていました。
その直後、今度は降籏さん一家にとって大きな出来事が起きる。住み慣れた場所を立退くよう国が要請。急きょ、約350キロ北に離れたポロナイスク(日本時代は敷香町)に移住することになった。 ほかの村民もその後移住させられ、やがて地図には美しい自然がある場所を表す記号が載るようになった。だが、今ではその記号すら地図上からは消えているという。
降籏さん一家の新しい生活が始まった。ポロナイスクに移住した当時、降籏さんには弟と3人の妹もでき、8人家族になっていた。
ポロナイスクはユジノサハリンスクに次ぐサハリン第2の工業都市で、日本領だったころに建設された港や発電所、セメント工場、レンガ工場などがそのまま稼働していた。 父親は製紙工場に就職。降籏さんは学校に通いながら、畑仕事を手伝ったり、空き瓶を集めて引き取り施設に持って行き、小遣い稼ぎをしたりした。
1958年に学校を卒業し、父親が勤める製紙工場に就職した。16歳だった。工場で働くかたわら、降籏さんら従業員はソフホーズ(国営農場)でのジャガイモ植え付けや、コルホーズ(集団農場)での家畜向けの飼料づくりや牧草刈りの手伝いに派遣された。刈り取るべき牧草の数量が各職場ごとに決められており、ソ連特有の計画経済ぶりがうかがえる。
1962年から3年ほど、降籏さんは徴兵され、サハリン内の部隊で兵役に就いた。兵器の修理などを担当し、受け取った給与の一部をモスクワ大に進学した姉や、レニングラード(現サンクトペテルブルク)の工業大で学ぶ弟に仕送りしたという。
兵役が終わった後、降籏さんは元の職場である工場に復帰した。このころの趣味といえば、オートバイに乗ることだった。
降籏さんは、1台の古いオートバイを買った。カラシニコフ自動小銃のメーカーとして知られる「イジェフスク機械制作工場」の「IZH-49」という中型だった。
購入当初、エンジンは動かない状態だったため、降籏さんは自宅で分解修理。苦労の末、何とか乗れる状態にし、数年間使ったという。
オートバイは降籏さんにとっての趣味となり、オートバイに乗ってはサハリン各地を旅したという。1985年にはサイドカー付きの「ドニエプル」を購入した。
オートバイや乗用車を買うためには地元の関係機関に予約する必要がある。予約を受けてから生産されるためで、降籏さんも順番待ちの末、購入できたという。
降籏さんにはもう一つの趣味があった。重量挙げだ。ポロナイスクでは盛んな競技で、職場にある体育館でよく練習をした。1968年にはサハリン州チャンピオン大会の最軽量級クラスで優勝を果たした。
5月1日といえば、日本でもおなじみの「メーデー」だ。労働者の祭典とも言えるこの日、「本場」ソ連での様子を降籏さんは記している。
この祝日に向けて1週間前から事前の準備が行われる。小旗、プラカード、様々な色の風船、紙で作った小さな花を付けた緑の小枝、スプートニク(人工衛星)の模型、国家政治局の指導者たちのポートレートなどを用意するのだ。
オーケストラが奏でる音楽が鳴り響く。デモ隊の行列が演壇のそばを通ると政局指導者たちが通り過ぎるデモ隊に向かって「おめでとう!」と言葉をかけ、生産ノルマを達成した功績を称えるのである。
降籏さんによると、労働者たちの待遇は、労働環境などによって違いがある。例えば、サハリン州は冬の寒さが厳しいため、平均よりも休暇が長く、給与も上乗せされる。
長期休暇は年に30日間取得することができ、最大3年分(90日間)をまとめて取ることもできたという。夏季休暇中、保養所が多いクリミヤ半島に出かけることもあった。
1978年8月。肝硬変を患っていた父親が亡くなった。65歳だった。自宅で家族らに看取られての最期だった。父親の亡骸はポロナイスクにある古い日本人墓地に埋葬された。
それから9年後。クリミアの中心都市シンフェローポリに移り住んでいた一番下の妹が、脳の手術を受けた後に危篤状態になっているとの知らせを受けた。
職場に休暇を申請して駆けつけようとしたが、経由地のハバロフスク空港が、航空券を買い求める人で大混乱し、降籏さんはシンフェローポリ行きを断念した。結局、2週間後に妹が亡くなった連絡を受け、葬儀に出席した。
冬1月、シンフェローポリ市、天候は曇り。通りは溶けかかった雪でぐちゃぐちゃ、空気は湿っぽい。僕の心は重苦しかった。霊柩車に乗って墓地へ向かう途中、僕の胸には急に悲しみと無念さがどっと押し寄せてきて涙を抑えることができなくなり、僕は人生で初めて声を上げて泣きじゃくった。
1991年3月には脳梗塞で寝たきりになっていた母親が77歳で亡くなった。父親が眠るすぐ隣に埋葬された。
1991年12月25日。ソ連の最高指導者ゴルバチョフ氏が辞任し、ソ連が崩壊した。この影響で、各企業は稼働を停止、工場も次々と閉鎖された。この混乱ぶりを、降籏さんはこう振り返る。
労働者には給料が支払われなくなり、払ったとしても、部分的に、取るに足らぬ額だった。多くの労働者が解雇され、大陸へ去って言った。大陸へ移住できる可能性のない人たちは解雇されないでそのまま工場に残っていた。そして、休暇を取り、賃金を払ってくれる場所を探して働いた。また、多くの人が何か商業活動、つまり商売を始めた。
降籏さんも週に2回、日本企業が計画していた冷蔵倉庫の建設現場で働いた。
ソ連末期にゴルバチョフ氏が進めた政治改革(ペレストロイカ)は、サハリン残留日本人たちにも影響を与えた。それまで墓参団だけに限られてきたサハリン訪問が観光目的の人たちにも可能になった。
戦後、サハリンから引き揚げてきた人たちが訪問した際、残留日本人らが日本への「里帰り」を支援するよう求めた。これがきっかけで、残留日本人たちの一時帰国事業が始まった。降籏さんも1992年5月に初めて一時帰国した。親戚らが暮らす長野と東京を訪問した。
僕が日本へ来ることができたことを親族の皆さんが喜んで、満足してくれたのだ。僕はおじいさんやおばあさん、従兄弟と従姉妹たちにも会った。そういう中で僕の心にはただ一つの思いが渦巻いていた。なんと無念だったろうか、両親は長年自分たちが生まれ、子供時代を過ごし、学校に通った故郷で親族の皆さんに会うことをあれだけ願っていたのに、ついに再び故郷の土を踏むことが叶わなかったのだ。
その後、1回の一時帰国をへて、降籏さんは永住帰国を果たした。約20年間、稚内にある船の修理などを請け負う会社に勤め、今は住んでいるアパートの自治会の仕事をしたり、家庭菜園を楽しんだりしている。
1人暮らしだが、2人の息子家族が近くに住んでいる。降籏さんにハフポスト日本版が改めて取材すると、日本の暮らしについてこう話した。
「日本は住みやすいし、食べ物の美味しい。両親の故郷は長野だが、私にとっては稚内も、ふるさとを感じられる場所だ。サハリンにいたころは生活はつらかったが、懸命に生きてきた。あの経験があるから、環境が変わっても、どこでも生きていける自信がある」
サハリンには今なお、残留を余儀なくされた日本人が残されている。