日本の平和の維持について今すべきことは何か

私は現在もなお集団的自衛権にかかわる論議に、進める側にも、反対する側にも、元凶である矛盾には触れずに議論を進めている点に違和感を持っている。
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Students and scholars stage a demonstration march to protest against controversial security bills which would expand the remit of the country's armed forces, in front of the National Diet in Tokyo on July 31, 2015. The security bills, which Japan's Prime Minister Shinzo Abe and his supporters say are necessary for Japan to deal with the world around it, are deeply unpopular in the country at large. AFP PHOTO / KAZUHIRO NOGI (Photo credit should read KAZUHIRO NOGI/AFP/Getty Images)
KAZUHIRO NOGI via Getty Images

「個人的なことは政治的なことである」という言葉がある。身近な問題は政治に関係するという意味だが、平和の問題ほどこの言葉が当てはまるものはない。私は多様な個人が自由に生き生きと生きられる社会をつくることに、自分が専門家としてどうかかわれるか模索してきた。だがそういう社会の実現にはまず平和が前提である。一旦戦争になり兵士となれば、平和時には多様な職を持つ人々が、みな一様な役割を担わせられる。つまり効率的に敵を打ち破る(殺戮する)役割である。そこには個性も多様性も、生命の安全すらない。だから、専門外であっても平和を維持できる政治の問題は私自身の関心事である。「政治的なことは個人的なこと」でもあるのだ。だから専門外のことではあるが発言することにした。いや平和に関する政治の問題はすべての国民が等しく発言できる権利を持つと言うべきだろう。

日本を内と外から常に眺めていると、内からは見えにくいことに気が付くことがある。憲法9条の問題もそうだ。日本のリべラルな人々の多くは戦後憲法9条を守れと言い続けてきた。それが平和の維持につながると信じたからだ。9条の第2項(後述)が「空洞化されている(事実上無効になっている)」のは専門家はみな知っている。問題は第1項(国際紛争の解決の手段としての戦争の放棄)が、それだけで有効に平和を守れるのかどうかということだ。これは安倍政権のいう集団的自衛の必要性の点を言っているのではない。平和憲法を持つといっても、日本国憲法には自衛隊の運用についての原則が事実上なく、9条第一項をどう解釈するかだけに依存している。しかし自衛隊について憲法で何の規定もないまま運用されるという事実は、近隣諸国には不安材料である。戦争などはるか昔と感じている日本国民とことなり、中国、韓国はもとより、東南アジア国家でも、かって軍事的侵略を行った日本の軍備に対する強い警戒感が未だ残っているからだ。

憲法9条第2項は「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」となっている。昔は「自衛隊が軍隊ではない」などとい世界中どの国も信じない議論もされたが、さすがに今はそれはない。現在は前項の目的を達するため」というのを「前項(国際紛争の解決手段としての戦争の放棄)の目的を達するための」軍隊は持たないが、そうでない専守防衛の軍隊は合憲という解釈が定着している。しかしこの憲法の条文はGHQ(戦争の米軍指令本部)の憲法原案のほぼ文字通りの翻訳で、「前項の目的を達するため」という文章は後で付け加えられたのが、それでも英文の分法上は「前項の目的を達するため」は「陸海空軍」ではなく「保持しない」を修飾する言葉であり、上記の解釈は完全なこじつけである。英文の憲法案は当時のGHQ内部で、日本の民主化に主たる関心のあったホイットニー中将下のケーディス大佐が起草したものだが、9条第2項については、憲法草案には直接かかわっていないが、ホイットニー中将と対立し、当初日本の軍事的無力化を強く主張した情報将校トップのウィロビー少将の意向を反映したと考えられる(これは「定説」とは異なり筆者自身の知見である)。元々の9条2項の意図は日本の軍事的無力化であり、論理的帰結はあらゆる軍事力の破棄であったことは間違いがない。だから自衛隊は元来違憲のものであったと思う。だが独立国であるわが国は、もちろん自衛権を有する。だから現行の「自衛隊は合憲」の解釈はそれじたい矛盾し、またそのことが今回の集団的自衛権は合憲か否かの論議に関しさらなる解釈の曖昧さを生んでいる。何しろ憲法は自衛隊の役割について何も言っていないし、また現行のままでは何も言いようがないのだから。

従って自衛隊を明示的に合憲化すべきだが、問題はそのやり方だ。ここで前述の、憲法に自衛隊運用の原則が現在ないことが、近隣諸国の不安材料だという点に結びつくのだが、日本が平和主義を奉じる国で自衛隊が専守防衛の軍隊であるのなら、憲法9条第2項を改正して、自衛隊の目的を明確化し、近隣国に安心感を与えることの方がはるかに9条を守れと主張するより平和を守ることになるように私には思える。

では具体的にどうした良いのか。私は安全保障問題の専門家ではないが、9条の第1項は保持するが、第2項を以下のように改正すれば、海外に自衛隊の平和と専守防衛目的が明確化されると考える。もちろん専門家ではない者の一案にすぎず、今後の「たたき台」と考えてもらいたい。

『第9条第2項案―自衛隊の保有と専守防衛

なおわが国は自衛権を有し、その目的のため自衛隊を保有する。なお、自衛隊は専守防衛のための軍隊であり、その目的のため以下の5原則を保持する。

自衛隊の運用は日本国民および日本国土の防衛と、国際機関の平和維持活動への協力を目的とし、わが国の領土の拡張や、経済的権益の拡張および擁護、を目的とする軍事行動は一切行わない。

わが国と他国がともに領有権を主張している地域及び海域に関する紛争解決には外交的手段を用い、わが国国民の生命に対する直接的危機がある場合を除き、軍事的手段には訴えない。

国際機関の平和維持活動の一環として派遣する場合を除き、他国内での国内紛争への介入や平和維持目的のために自衛隊は海外派遣しない。

民主的に選ばれた政府を持つ国に対しては、先制攻撃を一切行わない。

核兵器など、一般市民の大量殺戮を可能とする無差別大量破壊兵器は、抑止力の手段としてもこれを保持しない。

なお、第1項の平和主義の原則と、第2項の専守防衛5原則と矛盾しない限りにおいて、他国との集団安全保障条約により生じる集団的自衛権はこれを保持する。』

趣旨を説明したい。①は自明であろう。国際紛争の解決手段という第一項の内容について、一番肝心なことを明言したのがこれである。これを憲法で宣言しなければ、近隣諸国の警戒心はなくならない。経済的権益の擁護のためを入れたのは、今後も海外の国内紛争の中で我が国の経済的利害が損なわれることが生じることは十分ありうるが、他国と異なり我が国はその擁護に軍事力は用いないという点を明言したのである。勿論国民の人命救助のための自衛隊の海外派遣は慎重を要するが違憲とはしない。

②については領土問題が戦争の火種となる可能性は大きく、したがって平和的手段による解決を憲法で述べることで可能性を少なくするのが目的である。わが国は竹島と尖閣諸島については「領土問題は存在しない」と言い続けている。領土問題というのは、世界の基準では、ある地域についてA国とB国とがともに自国の領土だと主張することから生じる問題、との理解である。だから我が国の「領土問題は存在しない」という言い方は、昔の武士の表現なら「問答無用」という意味だろうが、これは国際的には全く通用しない表現である。なお「わが国国民の生命に対する直接的危機がある場合を除き」としたのは、例えば尖閣沖でわが国の漁船や海上保安庁の船が軍事的攻撃を受けた場合などを想定している。

③は9条の1項が戦争を国際紛争の解決の手段としか想定しなかったため、国内紛争への介入を考慮していない点を補うものである。21世紀における戦争の大部分は国内におけるの民族間の戦争となると考えられる。我が国はすでに国連の行動とは独立の米国による他国の国内紛争への軍事介入に対し、自衛隊を派遣し後方支援をしてきた。また今回の集団的自衛権の行使のもとで後方支援が拡大されようとしている。しかし私はそれは誤りであると思う。米国の他国内の紛争への独自の軍事介入は集団的自衛に含めるべきではない。それを明示したのがこの原則である。

➃はロールズの原則と言われるもので、米国の哲学者ロールズは民主主義国家間の戦争は少ないことから、この原則をすべての民主国家が共有すれば、民主国家間の戦争はなくなると考えた。現在正当性にやや疑いのあるロシアの大統領選挙も民主的と認めるなら、大国で民主的に政府が選ばれていないのは中国のみである。未だこのロールズの原則を明示的に憲法に採用した国はないが、我が国が率先することの価値は大きい。また多くの民主国家がこれにならえば中国の民主化も促進することになるであろう。そうなれば、大国間の戦争の危機は大きく減少する。

➄はいずれ出てくる抑止論による核武装化論を先取りして否定したものである。原発事故もあり当面日本の核武装化は論議にならないであろうが、潜在的にそれを推進すべきと考える政治家は少なからずいると考えられる。しかし世界唯一の被爆国である我が国が反核武装の原則を守れないなら、将来的に平和の維持は難しいといえよう。

私見であるが戦後の反戦運動の一番の欠点は、戦争を被害者の立場から見てきたことである。確かに我が国は唯一の被爆国であり、戦争の悲惨をまず空襲や被爆の恐ろしさと結びつけても無理はない。しかし戦争で本当に怖れなけれがならないのは、国民の意志と離れた国の意思決定の結果、国民が戦争の加害者にさせられることである。人を殺す立場に立たせられることである。(宮部みゆきの『小暮写真館』にこれに関連して胸を打つ挿話があるので是非それを読んでほしい。) 実際我が国は、第2次世界大戦ではまず加害者の立場に立った。中国や東南アジアへの軍事的支配を進め、真珠湾も先制攻撃したのである。加害者になったから報復も受け結果として被害者になった。上述の9条第2項案の5原則は、憲法の条文で我が国は今後自ら戦争の加害者とはならないということを世界に宣言することである。それが平和を守るうえで最も重要なことだと私は思う。日本のいわゆるリベラルはなぜ9条を守ることしか考えないのだろうか。憲法で原則が示されなければ、無原則的に自衛隊の使用が拡大される可能性が常に残り、その方が遥かに危惧すべきことである。また国際的緊張がある中で9条の理想を唱えるだけでは、「現実論者」による9条改正が平和主義と矛盾するものに改悪される可能性も阻止しがたい。どのようにして平和主義と専守防衛の原則を憲法において自衛隊の行動に関して規定すれば、近隣諸国にもわが国の平和主義に対し不安を抱かせず、同時に我が国の安全保障が達成できるのかを、今真摯に議論すべきではないのか。人生もそうだが、変化を怖れているだけでは、流されるだけである。