■最高のリーダーとは
しばらく、いわゆるビジネス書をあまり読まなくなっている自分に気づき、最近のもので評判がいい本を見繕って読んでみようと思い立った。その中でタイトルもキャッチーで、しかも、このところ少々気になっていた、リーダシップ論に関わる内容ということで、実業家・経済評論家・キャスター等の華麗なキャリアを持つ、シンクタンクのソフィアバンク代表である藤沢久美氏の『最高のリーダーは何もしない』を読んでみることにした。
■人格神としてのリーダー
このタイトルを見て、まず思い浮かんだのは、『部下を信頼して100%任せて、場合によっては部下が具体的に何をやっているのかさえ知らず、それなのに、結果には全面的に責任を持つ』というタイプのリーダーだ。規模が小さなベンチャー企業では、とても務まるタイプではないが、大企業で組織がしっかりしており、ほおっておいても部下が仕事をしてくれるような環境では、意外によく見かけるタイプだったりする。このタイプの良質な人は、仕事の内容はよくわからないが、人間的に部下に慕われ(あるいは尊敬され)肝は据わっていて泰然としている。
代表格としては、名将として名高い、旧日本帝国軍の東郷平八郎元帥、大山巌元帥等がいる。いずれも日露戦争当時の海軍、陸軍を率いて大勝した将軍(リーダー)だ。特に、東郷平八郎元帥はこのタイプの典型例と言え、司馬遼太郎の小説(坂の上の雲)等で高名になった、有能な参謀である秋山真之に作戦のすべてを任せてほとんど口を挟まず、それでいて日本海海戦が始まると、砲撃飛び交う甲板に仁王立ちして微動だにしなかったという逸話が残っている。
このタイプは、東洋的な悟りの境地に至った人格神というイメージで(日本以外ではまったく理解不能だろうが)、どこか日本人の郷愁を誘うタイプではある。しかしながら、その下では、無責任で横暴な(旧帝国陸軍参謀の辻政信のような)サブリーダーの跋扈を許し、失敗してしまうケースも少なくない。しかも日本にはこのエピゴーネンが結構いて、ただの無能を覆い隠す隠れ蓑になってしまっている例をよく見かける。今日のように、時代のパラダイムが大きく変化しようとしている中では、余程運よく優れた部下に恵まれないことには、成功はおぼつかないように思える。
■魅力的なビジョンを作るリーダー
だが、藤沢氏の言う、『昨今成功しているリーダー』は、このタイプではないようだ。『何もしない』のではなく、『魅力的なビジョンを作って浸透させる』ことは大いにやるが、具体的な仕事は部下に任せ、表面的には『何もしていないようみ見える』ということのようだ。しかも、ここで言う成功しているリーダーは、仕事の細部は部下に任せると言っても、自分自身、現場に出たり、現場の部下の言に常に耳を傾けて、現状の把握/理解に努め、ビジョンがただの妄想にならないよう努力は惜しまない。
本書で取り上げている実例を読んでみると、中には、現場の非常に細かいことにも口を出し、自分で動く、マイクロマネジメントを良しとするタイプも含まれているように見えるが、それでも、『魅力的なビジョンを作って浸透させる』能力があれば、有能なリーダーの範疇として認めているという印象だ。
このように若干、本のタイトルと事例に齟齬があるように見えてしまうところがあるのは、おそらく、藤沢氏の信念としてのありうべきリーダーのモデルが先にあってその実例を探し出しているのではなく、『100人を超える最近の経営者のインタビューを行ってその感想に基づいてまとめた』と本人が述べているとおり、実例の中から今日成功できるリーダーに必要な特質について、共通点を見つける作業がまだ途上にあるからだろう。確定したリーダーのイメージに必ずしも到達していないにせよ、現場の実態が生き生きと伝わってくるところが、この本の良さであるように私には思えた。だから、結論部分にはそれほどの目新しさは感じないものの、私にとっては収穫のある一冊となった。
■現場のスピードを上げるビジョン
市場はIT技術等の導入もあり、競争がますます激化していて、どの業界でもカテゴリーを超えて他業種からいきなり見知らぬ競合が現れ、従来にはなかったビジネスモデルで市場を席巻してしまうようなことも珍しくなくなった。ユーザーの価値観もライフスタイルも激変し、しかも流動化しているから、旧来の経営者の常識は通用しないどころか、むしろ足枷になってしまうこともある。
こんな中では、いかにに優れた個人であっても、ビジネスのすべてを詳細に理解して、自分自身が動いてすべて決めていくというスタイルには限界がある。一旦はうまくいったように見えても、どこかで破綻してしまうことは目に見えている。実際に、この『何でも自分で』というタイプのリーダーが破綻していく事例はこの10年くらいの間に幾度となく目にしてきた。だから、具体的な仕事はできるだけ、ユーザーの近くにいる現場の担当の裁量でスピーディに進めることができるのが理想だと私も思う。だが、リーダー不在だったり、いてもビジョンも経営理念も示されなければ(何をやるのがよいか、何をやってはいけないかがはっきりしないと)、現場はどう判断すればよいかわからないから、逆にスピードが落ちたり、とんでもない判断をしたりする。
だから、そこはリーダーがしっかりとビジョンを作って浸透させることが必要になる、というわけだ。このビジョンを踏襲している限り、できるだけ現場に任せる経営スタイルは、スターバックス・コーヒーやディズニー等の経営を実例としてすでに何度も語られて来ている。そういう意味ではそれ自体はさほど目新しいとは言えない。
■自社利益より社会貢献
では、その『魅力的なビジョン』をどうつくるのか。どうやればつくれるのか。ビジョンがただの理想論、抽象論、あるいは独りよがりになってしまっては、現場はついてこない。だから、優れたリーダーは現場の細部に至るまで理解することで、地に根ざしたビジョンをつくり、環境変化と共に、機敏に修正していく。
ただ、今の若年層は、個別企業の収益の最大化、あるいは個人への収益の還元の最大化、さらには、よりダイナミックな仕事ができて面白いから、というような一昔前なら、皆もが飛びつきそうなインセンティブでは動かなくなって来ている。逆に、自分のやることが社会的に意義があって、そういう意味で仕事にもやりがいがあると確信できれば、少々報酬が安く、労働条件がきつくても、懸命に頑張るようなタイプが増えている。(しかもより優秀な若手ほどそういう傾向があったりする。)社会の中に意義を見出すストーリーや哲学が必要になってきている。どうやら、自分の仕事の現場を詳細に知り尽くすことだけでは足りなくなって来ているように見える。
■自社の狭い市場だけ見ていても・・・
しかも、競争に勝ち抜くという点に絞ってみても、現場のマイクロマネジメントだけでは、如何ともしがたい状況が起きつつある。市場において今一番恐ろしいのは、先にも述べた通り、思っても見なかった企業が思っても見なかった手法で参入して、市場を席巻してしまうことだろう。過去、何度も語ってきたが、アップルやGoogleがスマホで市場を席巻した結果、以前は日本有数のビジョナリーのはずだった企業(ソニーやシャープ等)がまったく霞んでしまったことがこの典型事例だが、これが今他業種でも続々と起きようとしている。
IT/家電業界(スマホ)→自動車業界(自動運転車)→ 金融業界(フィンテック)とここまでははすでに見えかかって来ているが、これから同様の津波があらゆる業界を飲み込んでいく可能性が高い。視点を出来るだけ高く持って、市場全体に目を配っているのでなければ、どんな業界であれ将来に渡って有効なビジョンをつくることなど望めない。
さらに言えば、小さな企業の単位であれば、ビジョンを企業内だけで共有して社員を動かしていくことも可能だろうが、今後のビジネスは、どのビジネスであれ、相互に関係するより広いネットワーク、いわゆるエコシステム全体を意識せざるをえなくなる。とすると、自社だけではなく、自社のビジョンに他社であったり官公庁であったり、新しいユーザーであったり、様々な他者を巻き込んでその気にさせるような、レベルの高いビジョンが求められるようになる。
■浸透させる実行力も不可欠
加えて、ビジョンをつくるだけではなく、それを起点にして、協力者を実際に巻き込み、動かしていく能力が不可欠になる。皆が魅力を感じる優れたビジョンをつくることは成功のための必要条件であっても、十分条件とは必ずしも言えない。場合によっては、もっとベタな利害得失の構造も理解した上で、関係者が喜んで協力するような場を作ることも必要になるだろう。そのように考えてくると、今回藤沢氏が事例としてあげた『優れたリーダー』の能力も必ずしも十分とは言えず、今後は振るいにかけられて、少なからず脱落していくのではないかとも思えてくる。
■史上に類なき優れたリーダー:田中角栄
しかし、そんなスーパーマンがどこにいるのか。それどころか、史上、それほどすごいリーダーが日本の歴史に現れたことがあるのか。そのような問いを立ててみると、昭和の時代を知っている者であれば、おそらく誰でも一人思い出す名があるはずだ。元自民党総裁にして、ロッキード事件の刑事被告、裁判中も闇将軍として采配をふるい続けた異形の天才政治家、田中角栄だ。
毀誉褒貶相半ばするこの人は、これまで必ずしも正当に評価されてこなかったきらいがあるが、業績の方に焦点を当ててみれば、日本の政治史に燦然と輝く外交的業績(日米繊維交渉、日中国交回復等)、彼の構想していた将来の日本のありうべき姿(ビジョン)の驚くべき先見性、そして、それを実現する実行力(30件を超える議員立法を通し、官僚を感服させて自主的に協力者させ、真の政治主導を実現)など、余人を持って代えがたい圧倒的な力量の人であることがわかる。しかも、小学校卒でしかない学歴なのに、東大や京大等の高学歴のエスタブリッシュメントがタッグを組む政官界に割って入る胆力と実力、敵でさえその人間的な魅力に感服してしまう包容力など、あらためてこうしてみると、日本の歴史を総ざらいしても、これに比肩するリーダーを見つけることは難しい。
草履取りから天下人にまで登りつめた豊臣秀吉の若い頃の人間的な魅力は、田中が今太閤と呼ばれて、豊臣秀吉の再来と讃えられたように、その点では近いものがあるが、秀吉は田中のような優れたビジョンを持っていたわけではなかった。ビジョンという点では、秀吉のボスだった織田信長のビジョンは郡を抜いていた。信長であれば田中と並べても遜色はない(先見性という意味では田中をも上回ると言うべきかもしれない)。明治政府を主導したトップリーダー、大久保利通の政治的な剛腕も比肩しうるが、人間的な魅力で人を動かす包容力は田中には及ばない。その点ではもう一人の明治の元勲、西郷隆盛のほうが近そうにも思えるが、西郷に日本の将来のビジョンをつくることはできなかった。
■ロッキード裁判の愚かしさ
田中角栄の挫折の直接の原因となったロッキード裁判は、冷静に見返してみても、何らかの陰謀(米国?)が背後にあったとしかか考えられない不自然なものだった。当時から盛んに言われていたことだが、田中に賄賂を渡したというロッキード社のコーチャン副社長の証言が、司法取引をして刑事免責を受けた上での証言で、かつ、その証言に対して反対尋問を許さなかったというのは、どう考えても裁判の体をなしていない。陰謀がなかったのであれば、日本の裁判史に残る最大級の汚点ということになろう。しかしながら、今よりはるかに司法の無謬性の神話が生きていた時代の話だから、刑事訴追を受けた瞬間から、田中を犯罪人と国民の側も決めてかかってしまっており、この裁判の愚かしさを冷静に判断をできる空気ではなく、うやむやになってしまった。
■今日本に必要なのは田中角栄
また、裁判以上に、田中の評判を地に落としてしまった、金権政治だが、こちらの方も、当時から評論家の小室直樹が弁明していたように、田中が渡した金は、何らかの便宜をはかってもらうための買収ではなく、軍団をつくるための武器として使われていて、小学校卒の田中が東大や京大の高学歴者が牛耳る政官界において、仲間やサポーターをつくって対抗するためのやむない手段の一つであり、しかもそれは国民のためになる政治的な成果にしっかりと結びついていた。
今日の世論・空気を勘案すれば、このようなことを書いただけで、炎上ものであることはわかってはいるが、かつては昭和の日本を破滅に追いやった軍事官僚から、民主党政権に至るまで、清貧ばかりが売りの政治家が成果を生むどころか、レイムダックになってしまい、しかも国民を奈落に引きづり込んだような事例は史上に数多い。この辺りの機微がピンとこないのは、日本がまだ政治的に成熟していない証と語った小室直樹の言説は、当時より現代のほうが、よりずっしりと日本人にのしかかっているように私には思える。だから、今のような世界的な混乱期に日本のリーダーとして、誰を望むのかと問われれば、私なら迷わず田中角栄と答える。
しかも、どうやらその思いは一人私だけのものではないようだ。田中角栄の金権政治批判の急先鋒だった政敵の石原慎太郎が、田中角栄を新著で『天才』と讃え、しかも著書の売り上げも好調だという。また、文藝春秋の2016年5月号の特集記事のタイトルなどそのものずばりだ。『日本には田中角栄が必要だ』とある。*3。
■田中を葬った日本人の分析こそ必要
だが、今太閤と持ち上げた田中を、ロッキード裁判以降は犯罪人とこぞって糾弾した日本人は、今はますます狭量になって、少しでもおかしな振る舞いがあれば誰でも吊るし上げて快哉を上げるようになってしまったように見える。例えば、不倫をしたら政治家を辞めないといけないとすると、堂々と愛人との間に何人も子供をもうけた田中など一体どうなるのだろうか(もちろん不倫が良いと言いたいのでは決してない)。
経営者としてのリーダー論を語った藤沢氏の本からはずいぶん脱線してしまったが、経営者でも政治家でも、田中角栄研究は、日本のリーダー論を語る上での最重要課題の一つのように思える(藤沢氏の著作にも、解説はないが、田中角栄の名前が出てくる)。その課題の中には、田中角栄を断罪してしまった(そして今出てきても断罪してしまいそうな)日本人の分析も忘れるわけにはいかない。優れたリーダーを潰してしまうような国に未来はないからだ。私も今年の取り組み課題の一つとして、また改めて本件を取り上げてみたいと思う。
(2016年4月17日 「風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る 」より転載)