【衆院選】政治によって壊された「私たち」を修復するために

社会を構成する「私たち」という意識そのものが政治によって壊されているのではないでしょうか。

衆議院が解散したことを受けて、朝日新聞から「安倍政権の5年間をどう評価するか」という点について取材を受け、9月29日の朝刊にコメントが掲載されました。

字数の都合で舌足らずになった点も多かったので、記者に述べた内容に一部補足して、ここに掲載します。

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Tsuyoshi Inaba

「行政を歪めた」生活保護基準の引き下げ

2012年12月の衆議院総選挙で大勝し、政権に復帰した自公政権が真っ先に行ったのが、生活保護基準の引き下げでした。

今年の夏、加計学園の獣医学部新設をめぐって、前川喜平・前文部科学事務次官の「行政が歪められた。」という証言が注目されましたが、生活保護基準の引き下げも、まさに「行政を歪める」形で行われたと、私は考えています。

本来、生活保護の基準は科学的なデータに基づいて算定されなければならないのですが、「生活保護費の給付水準の一割カット」を政権公約に掲げた自民党が政権に就いたため、政治的な理由により引き下げが強行されました。

そのつじつまを合わせるために、厚生労働省は「デフレにより物価が下落した」という理由を後づけしましたが、実際にはほとんど下落していないため、消費者物価指数のデータを「偽装」するということまで行いました。まさに「行政が歪められた」のです。

生活保護の基準は、社会保障の岩盤として機能しており、その基準は他の低所得者対策の制度にも連動しています。生活保護基準の引き下げにより、就学援助など他の制度も所得制限が厳しくなるなどの悪影響が出ています。社会保障制度全般が「地盤沈下」しているのです。

アベノミクスで雇用は増えましたが、増えた仕事の多くは非正規の不安定な仕事です。生活困窮者の支援に取り組んできて感じるのは、派遣やアルバイトの仕事をしながらも、安定した住まいを確保することができず、ネットカフェや友人宅などで暮らさざるをえないワーキングプアが若年層を中心に増えているということです。「見えにくい貧困」が広がっていると実感しています。

差別や排外主義を政治的に利用

私が最も許せないのは、安倍政権や与野党の保守系議員がマイノリティに対する差別や偏見、排外主義的な風潮を政治的に利用してきたことです。

生活保護基準の引き下げに先立って、2012年に一部の自民党議員が生活保護バッシングのキャンペーンを仕掛け、貧困対策に積極的だった民主党政権(当時)の姿勢を批判し、翌年の引き下げに至る流れを作りました。これは生活保護利用者への偏見を悪用した例だと言えます。

最近では、「武装難民」の「射殺」も検討するという麻生太郎副総理の暴言がありました。日本も批准している難民条約を無視し、ヘイトクライムを誘発しかねない犯罪的な発言であるにもかかわらず、未だに麻生氏は謝罪・撤回をしていません。マスメディアでもこの発言を追及する報道は少なく、この5年間で社会のマジョリティが極端な差別発言も許容するようになってきたと感じます。

昨年の「貧困高校生」へのバッシングでは、「あんなのは貧困ではない」という意見が散見されました。安倍政権下で、中間層の崩壊がさらに進み、生活が苦しくなった人たちが、より弱い立場の貧困層をたたく形のバッシングも強まっています。安倍政権はそうした分断を意図的に助長しているように見えます。

障害者や外国人への差別も底が抜けた状況です。

先進諸国では社会的なマイノリティへのヘイトクライムが発生した場合、政治的なリーダーが事件の背景にある差別を非難する声明を発表します。しかし、相模原の障害者殺傷事件では、安倍総理から積極的な発言はありませんでした。

本来はこうした動きにストップをかけるべき政治家が、黙認、あるいは助長しているのではないでしょうか。

社会に内在する差別や偏見を政治的に利用するのは、政治家としてやってはならない「禁じ手」ですが、この「禁じ手」に積極的に手を染める政治家が増えているのは恐ろしいことだと思います。

その意味では、関東大震災での朝鮮人虐殺に関する追悼文の送付を取りやめた小池百合子都知事(希望の党代表)も同類だと言えます。

「私たち」が壊されている

貧困状態にある人も、障害を持つ人も、外国人も、誰もが命を守られ、個として尊重されるべきだ、という考えは、人類が20世紀の負の歴史を通してかちとってきた普遍的な理念です。近年、世界的にこの普遍的な人権という考え方が危機にさらされていますが、安倍政権下における日本社会の惨状は際立っています。

社会を構成する「私たち」という意識そのものが政治によって壊されているのではないでしょうか。

20世紀の歴史に謙虚に学び、誰もが「私たち」の社会の一員として尊重されるべきだと発信する政治家が一人でも増えることを切に望みます。

有権者は、個々の候補者が「私たち」を壊してきた人なのか、修復できる人なのか、これまでの言動を吟味して投票してほしいと思います。

(2017年9月30日「稲葉剛公式サイト」より転載)