任天堂の岩田聡(いわた・さとる)社長が7月11日、胆管腫瘍により55歳の若さで死去したことを受けて、海外メディアでは業績回復を目指していた同社に深刻な影響が出ることを懸念する声が出ている。
岩田さんは2002年、創業家一族の故・山内溥氏の後任として、42歳の若さで社長に就任した。携帯ゲーム機「ニンテンドーDS」や家庭用ゲーム機「Wii」の開発を主導。2015年3月期決算で4年ぶりの営業黒字となり、6月26日の株主総会で社長続投が決まった矢先だった。
■海外メディアも続々と報道「任天堂復活の立役者」
13日朝の任天堂の発表を受け、海外メディアも続々と早すぎる死を報じた。イギリス公共放送「BBC」は、「任天堂の成功の第一人者」と伝えている。
岩田さんは、昨年手術を受けてまもなく、仕事を再開していた。彼は、日本のゲーム業界で非常に尊敬されており、2000年に入社した後、任天堂の方向転換による成功の第一人者と見なされていた。
(中略)彼のリーダーシップの下、任天堂はWiiとニンテンドーDSを発売して大成功させた。彼の指揮で、同社は簡単に使うことができるコントローラーに注目し、振ったり画面をタップしたりすることで、伝統的なゲームファン以外の客層を掴むことができた。
アメリカのゲームニュースサイト「Kotaku」はルーク・プランケット記者が「ゲーム業界内でも非常に人気があった彼が亡くなって寂しい」と、その死を悼んだ。
岩田さんは任天堂の社長として、WiiやニンテンドーDSがヒットした「最強の時期」と、ゲームキューブや WiiUが不発となった「最弱」の時期を率いた。(中略)任天堂ファンだけでなく、ゲーム業界内でも非常に人気があった彼が亡くなったことは、非常に寂しく思う。岩田さんのご冥福をお祈りします。
アメリカのIT情報誌「WIRED」は、クリス・カーラー記者が任天堂への深刻な影響を予想している。
任天堂のトップになった岩田さんは、「ニンテンドーDS」と「Wii」を数年で発売したことで、信じられないほど方向転換を成功させた。彼のゲームに対する情熱は「社長が訊く」という企画に最も強く現れた。社内の開発スタッフに自らインタビューすることで、開発者の頭脳を彼しかできないやり方で刺激した。
(中略)彼のような素晴らしい才能を失うことは、「過渡的な段階」と言われていた任天堂にとって深刻な影響をもたらすだろう。人に好かれ、切れ者で、若く情熱的なリーダーを突然失うことは、業績回復を試みていた会社にとって、まさにハンマーで叩かれたような衝撃に違いない。
■岩田聡さんの経歴
ASCII.jpなどによると、岩田聡さんは1959年12月生まれ。北海道出身。東京工業大学在学中にアルバイトをしていたゲーム会社「ハル研究所」に、卒業後そのまま入社。プログラマーとして任天堂のゲームソフト開発などに携わる。
経営悪化を受けて、1993年にハル研究所社長に就任。任天堂向けのゲーム「バルーンファイト」、「星のカービィ」シリーズ、糸井重里さんがプロデュースした「MOTHER」シリーズなどの開発を手がけた。ハル研究所を再建した手腕を買われ、2002年に当時社長だった故・山内溥氏の後任として42歳で社長に就任した。
突然の岩田社長の突然の死を受けて、任天堂の代表取締役は専務の竹田玄洋氏と宮本茂氏の2人体制となった。
ハフィントンポスト日本版はTwitterでも情報発信しています。@HuffPostJapan をフォロー