高畑勲監督は追い求めた、アニメの向こうにある「現実」を。82年の生涯を振り返る

かつて「大人が見るものではない」と言われたアニメは、世代を超えて愛される「芸術」となった。
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高畑勲監督
EPA時事

実写映像はカメラを回せば撮影できる。だが、アニメーションは全てを人の手で描かなければならない。そこがアニメーションの難しさでもあり、醍醐味でもあろう。

そんなアニメーションの可能性を追求し続けたのが、高畑勲監督だった。

監督デビューから50年となる2018年、日本アニメ界の巨匠はこの世を去った。82年の足跡をふりかえってみよう。

■始まりは、東映動画への「偶然」の就職

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Maarten de Boer via Getty Images

高畑さんは1935年、三重・伊勢市生まれ。その後、岡山で育った。少年期には「岡山空襲」(45年6月)を経験。焼夷弾が雨のように降る中を逃げ回り、無数の遺体に身体が震えた。この戦争体験が、高畑さんの根っこにあった。

戦後、東京大学に進学した高畑さん。在学中にフランスのアニメーション映画「やぶにらみの暴君」(後に「王と鳥」に改題)を見て、衝撃を受けたという。映画館に何度も通って、メモを取り、劇中歌を楽譜に起こすほどだった。

1959年に東大仏文科を卒業した高畑さんは、演出助手を募集していた東映動画(現:東映アニメーション)に入社する。きっかけは、本人曰く「偶然」だったという。

「ひょっとしたらこの仕事も面白いかも、という程度の軽い気持ちで受けたら合格しただけのことです。省エネ人生ですから、他に就職活動はしなかった(朝日新聞2013年12月10日夕刊)」

しかし、どうだろう。入ってみたら「何も仕事がなかった」。入社から最初の1カ月は算盤(そろばん)を習い、その後は雑用、使い走りだった。だが、そんな大らかな時代だったからこそ、得るものも多かったという。

高畑さんは当時をこう語っている。

撮影の部署に行くと、手伝う必要がなくても自分からやってみる。それで撮影のメカニズムを学べる。動画も描いた。雑用しながらでも勉強できる。「自分は演出志望だったのに」と不満だけを抱き、何もしないのは最低だ。でも、僕のような人間が教訓めいたことを言ってもしょうがない。

(朝日新聞2013年12月10日夕刊)

■"盟友" 宮崎駿との出会い

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AFP/Getty Images

高畑さんが入社する前年(1958年)、東映動画は日本初のカラー長編漫画映画「白蛇伝」を制作した。この作品を見て、東映動画への入社を志した青年がいる。当時高校生だった宮崎駿監督だった。

「東洋のディズニー」を目指した東映動画。ここで、高畑さんと宮崎監督は出会った。

高畑さんからみて、宮崎監督は後輩だ。その交流は労働組合運動で始まった。後にジブリの色彩設計を取り仕切り、宮崎監督が「戦友」と呼んだ故・保田道世さんと知り合ったのもこの頃だった。

64年にテレビアニメ「狼少年ケン(第14話)」で初演出を担当。68年「太陽の王子・ホルスの冒険」で監督デビューを果たした。宮崎監督と組んで制作した「ホルス」は緻密なつくりで完成が大幅に遅れ、上司から怒られるはめに。それでもこの作品は、後に鈴木敏夫氏と出会うきっかけの一つとなった。

東映動画を退社後、テレビアニメ「アルプスの少女ハイジ」「母をたずねて三千里」「赤毛のアン」などのヒット作も手がけた。だが高畑さんはこの頃の作品について、こう語っている。

――1974年にテレビ初放映された「アルプスの少女ハイジ」をはじめ、世界中で親しまれるアニメ作品を作ってきました。

高畑:ハイジは、「こう反応して欲しい」という大人の願望通りに振る舞う、とてもいい子です。山のおじいさんと再会した時、すごい勢いで相手の胸に飛び込み、全身で喜びを表現する。嫌いじゃないけど、ああいう子を描くのは1回でいい。その後は描いていません。

――どうしてですか。

高畑:観客の期待に応えるだけでいいのか、と考えるんです。親は「ハイジはいい子ねえ」と我が子に言うが、子どもは「私はあんな風になれない......」とつらいんじゃないか、とかね。僕自身、小学4年の時に空襲で両親とはぐれ、翌日再会したんですが、「お母ちゃーん」と駆け寄れず、照れてニヤニヤしていた。気持ちが素直に動かないダメな子でした。

ハイジの次に作った「母をたずねて三千里」の主人公マルコは、自分の無力さにいらだつ少年です。つらい状況に遭うと、「僕は呪われているんだ!」と叫ぶ。視聴者には「かわいげのない生意気な子」と映るだろうけれど、それでいい。

一緒に作った宮さん(宮崎駿監督)は、主人公が旅の先々でトラブルを解決し、一宿一飯の恩義を果たす股旅ものをやりたかったのだろうが、僕は惨めな話がよかった。靴が壊れ、生爪がはがれるといった、目を背けたくなるエピソードもあえて入れた。

(朝日新聞2013年12月9日夕刊)

■「風の谷のナウシカ」で初プロデューサーに

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「風の谷のナウシカ」(1984)ポスター
Kei Yoshikawa/HuffPost Japan

1984年、宮崎監督の「風の谷のナウシカ」でプロデューサーを担当。高畑さんにとって、初めてのプロデューサーとしての仕事だった。

当時、世界は東西冷戦の最中。宮崎監督は、戦争で産業文明が壊れて「不毛の地」となった地球と、その救世主となる少女を通じて、物質文明の将来や環境問題、大量破壊兵器など、壮大かつ現代的なテーマを世に問うた。

制作期間中、高畑さんは「この映画は絶対にあたる」と、理屈抜きに確信したという。当時のことを、高畑さんはこう語っていた。

たとえば、むかしのアメリカ映画というのは、ミュージカルにしろスペクタクルにしろ、とりあえず"愛"や"友情"を中心において置かなければヒットしないと言われていた。

それが最近では"宗教"や"哲学"ががったものが、作品の根底におかれていて、"愛"や"友情"を描くにしても、そうした宗教的なものや哲学的なものの照らし返しが必要だと考えられるようになってきたのじゃないか。

『ナウシカ』にもたしかに、こういう要素があります。また、観客の側には、"いままで見たこともないものを見たい"という欲求が強くなってきている。単なる異世界物というのではなく "見たこともないもの" を見せるという点では、こんな豊富な作品はないでしょう。

(文春ジブリ文庫1『風の谷のナウシカ』―高畑勲「僕は"助っ人"プロデューサーなんです」)

■ジブリ設立に参加、そして「火垂るの墓」が生まれた

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「火垂るの墓」(1988)ポスター
Kei Yoshikawa/HuffPost Japan

1985年、宮崎監督とともにスタジオジブリ設立に参加。88年には作家・野坂昭如氏の自伝的小説「火垂るの墓」(1988)のアニメ映画化を手掛けた。

太平洋戦争に翻弄された14歳の兄・清と 4歳の妹・節子の悲劇を、高畑さんは迫真のアニメーションで見事に表現した。劇中に登場する「サクマ式ドロップス」の缶が印象的なこの作品は、アニメーション表現の可能性を世界に示した。そこには、高畑さん自身が経験した戦争体験も底流にあったことだろう。

映画館では宮崎監督の「となりのトトロ」と同時上映された。心構えもなく戦争のリアリズムを突きつけられた親子連れは、ことごとく涙し、ハンカチを手放せなかったと、今なお語りぐさになっている。

2016年のイベントで、高畑さんは「火垂るの墓」公開当時を回顧した。

高畑氏は自身の代表作『火垂るの墓』について、「公開前は子どもに観せていいんだろうかと、不安になったことがあった」と振り返り、「あのトトロと同時上映だったんです。(同じ料金で)どちらを先に観るかという問題。『火垂るの墓』を先に観た人はかわいそうでしたね」と語って笑いを誘った。

当時は"アニメは子どもが観るもの"というイメージがいま以上に強く、戦争の悲惨さを描いた『火垂るの墓』は子どもには刺激が強いと批判されることも想定していたそう。「もちろん子どもが観たって平気だと考えて作ったんだけど。本当に問題にならなかったね」と心配は杞憂に終わり、夏の時期になると、テレビでも放送される定番のアニメとなっている。

ジブリ高畑勲監督「火垂るの墓」公開時の心境語る 「トトロと同時上映だったが...)」

■「ぽんぽこ」「となりの山田くん」 90年代、挑戦の時代

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「ホーホケキョ となりの山田くん」(1997)ポスター
Kei Yoshikawa/HuffPost Japan

「平成狸合戦ぽんぽこ」では、東京・多摩に住まうタヌキたちが、ニュータウンの建設を食い止めようと奮闘する姿を描いた。人間と自然の対立。宮崎監督と同様、高畑さんの作品には深いメッセージ性が込められていた。

1999年には「ホーホケキョ となりの山田くん」を手がけた。原作は、朝日新聞に連載中の4コマ漫画。おおよそ長編アニメ向きではない素材だった。高畑さんも当初は「これをどうやって映画にする気だろう」と思っていたという。

それでも高畑さんは、この作品に挑んだ。鉛筆画に水彩絵具で色付けしたようなシンプルかつ新しい描写で。ジブリで初めて全編デジタル処理された作品にもなった。

そこには、どんな思いが込められていたのか。公開前のインタビューで、高畑さんはこう述べている。

――それがなぜ現実に?

高畑:動機のひとつは、最近のアニメーションへの違和感。子供時代にはアニメの世界にリアリティーを感じても、やがてそこから卒業して現実の世界に立ちかえるというのが健全な姿だと思うんです。

けれども、いまのアニメは現実以上に立派で緻密(ちみつ)な世界を構築し、そこに浸ったまま出てこない人が増えている。そういう快楽主義がいやでね。『山田君』なら、閉じたファンタジーとはまったく違う世界が描けると思った。

――原作にかなり忠実な絵柄ですね。

高畑:ファンタジーに説得力を持たせるため、緻密な描写を追求していくことに常に疑問があり、初心に立ちかえりたかったんです。実写ではできないものを描けるのがアニメなのに、現実以上のリアルさにこだわりすぎている。四コマ漫画でちゃぶ台しか出てこなくても、ほかに家具がないと思う人はいませんよね。

描いていない部分は、みんな自分の生活から連想している。キャラクターだって、あるタイプの人間を代表しているだけで、固有の存在ではない。『これは仮のもんでっせ。本物は奥にありまっせ』というのが四コマのリアリティー。漫画の奥に現実が透けて見えるものにしたかった。

(朝日新聞1999年5月10日夕刊)

作画枚数は「もののけ姫」をしのぐといわれる「山田くん」。制作が遅れがちなことから、高畑さんは宮崎監督から「大ナマケモノの子孫」と言われたことも。

それでも、「手間はかかるけれど、新しいことをみんなで工夫するのは楽しい」。高畑さんのチャレンジ精神がそこにはあった。

■集大成「かぐや姫の物語」へ

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「かぐや姫の物語」パンフレット
Kei Yoshikawa/HuffPost Japan

「山田くん」の公開から14年。「緻密な描写」への疑問は、やがてひとつの名作を産んだ。「竹取物語」をテーマにした「かぐや姫の物語」だ。

構想50年、制作に8年。かぐや姫は、なぜ地球にやって来たのか。月と地球を対比し、生きる喜びと哀しみを描いた。まさに「アニメーション監督・高畑勲」の集大成と言えるものだった。

かつてのような緻密な絵作りとは異なり、線だけで姿・表情をとらえる作画は、「鳥獣戯画」のような日本の伝統絵画を彷彿とさせる。あえて単純化した絵は手描き風のアニメーションとなり、水墨画風の色彩表現も相まり、自然や豊かな情感をありありと表現した。

場面全体を見渡せる「引き」のカット表現は、まるで絵巻物を見ているようだ。登場人物の誰か一人に肩入れするのではない。物語の「客観性」を重んじた、高畑さんならではの表現だった。

「緻密な描写」でなくとも、登場人物の仕草や特徴を捉えることで、豊かな物語が描けると示した高畑さん。

かつて「大人が見るものではない」と言われたアニメは、いまや世代を超えて愛される「芸術」となった。宮崎監督と切磋琢磨しながら生み出した数々の名作は、アニメーションの地位を飛躍的に向上させた。いまや日本映画の興行収入TOP4はアニメーション作品が占める。

アニメは単なる空想ではない。そんな、アニメーションの可能性を追い求めた82年の生涯だった。