世の中には内向的な人がおおよそ、全人口の3分の1から2分の1を占めるという。
僕はかなり内向的な方だと思っている。
たとえば、話すことが苦手だ。
打てば響くような反応を会話の中で返すことができない。
宴会に行けば、話に割って入りたいと思いながら、そのチャンスを逃してばかりいて、主に聞き役に回ることが多い。
飲みに行くより、家に帰って本を読みたいと思うことの方が多い。
しかし、僕のある時期を知っている人はこう言う。
自分がスポットライトを浴びていないと気がすまない性格だろう。
いつも賑やかに喋っていないと気がすまないじゃないか。
あるいは、なんでもあんまり考えずにやってしまう方じゃないか、それで内向的とはいえるのかとか。
あるいは、42才で会社を辞めるような大きなリスクをとるじゃないか。内向的な人は大きなリスクは避けようとするものだとか。
しかし、僕自身は、やはり内向的であるために、社会的な不利益を被ってきたし、仮に外向的に見えることを僕がやっている時は、相当な負荷を抱えながらなんとかそれをやっているのであって、外向的な人が楽々とそれをやっているのとは違うのだと思ってきた。
たとえば、スピーチをするためには、外向的な人よりずっと練習する時間が必要だし、マハラジャでパーティをやった時だって、それが僕の心臓にどれほどの負担をかけたかということは、ブログを読んでくれている人にはわかってもらえると思う。
今日、いつも読ませていただいているアメリカのビジネス作家のGeoffrey Jamesさんのコラムを読んでいたら、Jamesさんも自身のことを相当内向的と思われていることがわかって面白かった。
コラムのタイトルは、「私は内向的だ、そしてそれを誇りに思っている」。
彼はある会社で大きな実績を上げ、その後、その高給の仕事を捨てて(かなりのリスクテイカ―だ!)、専業のライターになって成功している人だ。以前のコラムで自分のことを内向的であると書いておられたが、本人がそれほどまでに内向的であると思っておられるとは知らなかった。
よく言われるように、アメリカ社会は、日本社会以上に、外向的であることが求められ、内向的であることは、修正すべきであること、恥ずべきことであると思われているようだ。
Jamesさんはそのコラムの中でこうおっしゃっている。
もし選べるなら、内向的であることを選びたい。内向的な人は、外向的な人ができることのすべてができる(が、その反対はできない)。
たとえば、私は多くのパブリック・スピーキングをこなしてきたし、ひとりで働くこともできるし、ビジネスミーティングで輝く方法も知っている。たんに、もし選べる状況なら、一対一で話すほうが好きだし、良く知っている人たちと一緒にいたいというだけである。
外向的な人は、逆に、内向的な人が簡単にできることができない。
長い時間ひとりでいることができないし、個人の創造性が必要な長い期間のプロジェクトでじっく働くことができない。やろうとしたら、コーヒーショップへ行ってしまい、スタッフとお喋りしてしまうのがオチだ。
かなり過激なコラムだ。
世間一般に考えられているように、外向的な人たちは、「良い」とか「理想的である」とか「よりアメリカ的である」のではなくて、内向的な人たちができること、たとえばじっくり考えたりすることができない人たちである。
そして、肝心なことは、内向的な人たちはその弱点を行動によって変えることができるのに、外向的な人たちは、その弱点を変えることができないのだ、と書かれている。
コラムの最後にはこうも書かれている。
外向的な人たちは、私たち内向的な人を変えようとすることをやめるべきだ。私たち内向的な人の真価を認めるべきだ。
日本でも、外向的な人が有利な社会であることは間違いなく、内向的な人の良さを見直そうという動きはあるように思うが、アメリカでは、コラムで普段誰かを非難したり攻撃したりしないJamesさんが、これほどの口調になるほど、その傾向が強いのだろう。
驚くとともに、僕も考えこんでしまった。
でも、ほんとうかな、外向的で、かつ、思慮の深い人も思い浮かぶが・・・
内向的か、外向的かというのが、それほどその人の行動を決定的に規定するかな・・・
それに、内向的な僕は、どれだけ頑張っても、当意即妙な会話をすることはできないんだけど・・・
もし、生まれ変われて、どちらかを選べるとしたら、僕は「内向的である」ことを、Jamesさんのように選ぶであろうか。
あなたは、内向的ですか?
もし、生まれ変われるとしたら、どちらを選びますか?
photo by melanie lee
(2015年6月16日「ICHIROYAのブログ」より転載)