新型コロナの感染拡大によって、私たちは再び、SNSに時間を奪われている。
最新の感染者数がタイムラインで流れてきて、それについて専門家っぽい人が解説している。感染症対策の考えかたの違いについて、激しいコメントを書き込む人もいる。
TwitterなどのSNSは、命を守るための情報源にもなるが、同時に、独特のムラ社会を作り上げる。
評論家、宇野常寛さんは最新刊『遅いインターネット』(NewsPicks BookK)で、そうしたムラと格闘するために、思想界のレジェンドである吉本隆明をアクロバティックに引用し、新しいネット社会のあり方を探った。
宇野常寛さんの言葉に、今こそ耳を傾けたい。
陰謀論を信じてしまう「人間の欲望」を直視する
――『遅いインターネット』では、戦後最大の思想家と呼ばれる吉本隆明に言及しています。吉本が提唱した「3つの幻想」と、「インターネット社会」の基本構造を結びつけるところから本書の議論が大きく展開します。
『共同幻想論』は全共闘世代に読まれていた吉本隆明の代表作で、無理やり一言で言うなら、当時の進歩的な知識人とは違った方法で、国民国家という制度を根源的に批判することを試みた本ということになります。
かいつまんで言えば、たとえば戦前の皇国史観のようなものに対して「万世一系などの虚構性を暴くことによって相対化できる」と普通は考えるわけですが、吉本はそれだけでは足りないと考えたわけですね。
人間には、ああいったフィクションを信じたくなる欲望が存在していて、この欲望にアプローチしないと相対化も、解体もできないと考えた。
この発想は今日において、とても重要で、たとえば陰謀論を信じたくなってしまう人に対して、エビデンスを並べて「論破」するのは前提として絶対に必要だけれど、それだけでは、やはり決定打になり得ない。
ああいうものを信じたくなってしまう人間の弱さをどう社会が克服していくかを考えないと民主主義はうまく回らないわけです。
吉本隆明の「3つの幻想」を通してインターネット社会を読み解いてみる
ただその一方で、この本(『遅いインターネット』)でもざっと振り返った通り、吉本隆明の思想の、少なくとも“時代と寝た”部分は、当たり前のことだけれど、その役割を終えています。
たとえば吉本にとって重要なモチーフだった知識人批判も、知識と人間の関係が社会的にも、技術的にも変化した現在では、有効ではないだろうし、イデオロギー批判も半世紀前のかたちをそのまま適応することは難しい。
けれど、20世紀というイデオロギーへの盲従が大量死を生んでいた時代にそれを相対化するために考え出された分析の一部……というかコアの部分ですが、そこを抜き出してくると現代のインターネット社会が、びっくりするくらいクリアに見えてくる。
21世紀の今、当時の文脈を意図的に切断して、現代の情報社会を考える上での手がかりにしたわけですね。
ありとあらゆる「共同幻想」から自立する
吉本は、⑴自己幻想、⑵対幻想、⑶共同幻想の3つの幻想が機能することで、人間は世界を認識すると説いています。
(1)自己幻想は自分自身に対する、(2)対幻想は1対1の関係に対する、(3)共同幻想は集団が共有する目に見えない存在に対する像のことです。
吉本が生きた20世紀の前半から半ばにかけては、「国民国家」や「前衛党」など、共同幻想の一種であるイデオロギーが、人間を思考停止させ、2度の世界大戦をはじめとしてちょっとこれまでで、考えられないレベルの大量死が発生した時代でした。
だからこそ吉本は国民を動員する国家的なイデオロギーのみならず、その打倒を主張する反権力のイデオロギーまで、ありとあらゆる「共同幻想」からの自立について思想を展開したわけです。
タイムラインの潮目を読んで「叩いていい相手」に石を投げる人たち
この3つの幻想は、吉本に従えば人間が世界を認識する上での基本的な枠組みです。
インターネットというか、情報技術は人間の社会認識を可視化したものでもあるので、結果的に吉本のいう三つの幻想は現在のインターネット社会、とりわけSNSの基本構造に合致していると思うんですね。
要するにSNSは、主にプロフィール、メッセンジャー、タイムラインで構成されているわけですが、(1)自己幻想はプロフィール、(2)対幻想はメッセンジャー、そして(3)共同幻想はタイムラインに合致すると僕は考えたわけです。
自己幻想が肥大した人はFacebookで自慢というか、僕はこの言葉が大嫌いだけれど「セルフブランディング」ばかりしているし、対幻想に依存して生きている人は四六時中彼氏彼女や友達に送ったLINEに既読がつくかどうかを気にしている。
そして共同幻想に取り込まれた人は、タイムラインの潮目を読んで「いま、叩いていい流れになっている相手」に石を投げて、自分はマジョリティの側だと安心したがる。
ネットの「卑しい人たち」には、二つのパターンがある
――現在のTwitterは「ひどい場所」になってしまいました。定期的に誰かを炎上させて、リンチを行っています。
日本ではTwitterに代表されるネットの「卑しい人たち」には2パターンあると思うんですね。
まずは、先ほど述べたように自分はマジョリティの側だと確認して安心したがる人たち。
日本の場合、東日本大震災を契機にTwitterが普及したと言われていますが、あれで日本のインターネットは一つの大きなムラになったと思っています。
テレビ的な紋切り型社会に、Twitter的な難癖型社会が並立するような状況ですね。
ただ、後者は明らかに前者に従属していて、週に1度週刊誌やワイドショーが指定した生贄にみんなでTwitterやソーシャルブックマークで石を投げて「スッキリ」するという構図が完成したと思います。
僕は仕事仲間や友人でも、こういう「いまならこいつを叩ける」的なコミュニケーションをとっているのを見たら距離を置くようにしていますね。
もう1つのパターンは、どちらかというと、「マイノリティ」というか、自分ではそうだと思っている人たちで、複雑な世界から目を逸らしたいから、「特定のイデオロギー」に回帰している人たちですね。
イデオロギーの色眼鏡でしか世界を見ようとしないから、科学的な事実や客観的な証拠も無視しがちになり、結果的にフェイクニュースや陰謀論の温床になっている。
Twitterのアカウントのプロフィール欄に、政治的な主張というか、敵対する勢力への罵詈雑言を並べている人たちですよね。
いわく、自分は世界の人々が知らない「陰謀」を知っている。そのファクトが公開されてみんながこの陰謀を知れば、人々は自分の考えに賛成するはずだ——。このタイプはそんな単純化された世界像を抱えて生きているので、まったく対話ができない。
僕はどちらもインターネットによって「バカ」になっていると思います。前者は、まさに丸山真男が「無責任の体系」という言葉で表現していた、日本社会に長く根付くボトムアップの共同幻想のようなものにベタに統一化してしまっている。
後者に関しては自己幻想を性急に記述しようとするがあまり、共同幻想に取り込まれてしまっている。
SNSは、というかSNSが体現する現代の情報社会は、要するに誰もが自己幻想をインターネットで表現して、僕はウンザリしているけれどそれが評価経済的に名誉や地位に結びつく時代なので、自己幻想を独力で表現する材料(実績など)に事欠く人はイデオロギーにすがるようになってしまうのだと思います。
インターネットによって個人は自立するのか
――本書では、国民国家や戦後民主主義などのイデオロギーを生みやすい「共同幻想」から自立するための、吉本の葛藤が分析されています。吉本は当初、個人がささやかな家庭を築き、家族間の「対幻想」にアイデンティティを置くことを自立の指針としました。
その後の1980年代、彼は消費社会の拡大を背景に、モノを所有することによって自己表現し、「自己幻想」を用いることで、人々を自立させることを考えました。現在の私たちは「共同幻想」から自立するため、改めて「自己幻想」を確立する必要があるのでしょうか。
本にも書いたのですが、ちょっと状況は複雑なんですよね。
僕は基本的に情報環境の発展によって、共同幻想からの「自立」は半ば達成されたと思います。
実は吉本も1990年代初頭におそらくそうなるだろうと述べている。で、実際にそうなった。
比喩的に述べればシリコンバレーのアントレプレナーの中には、それほど有名でもなければ、まだ実績があるひとでなくても、ビジネスとテクノロジーの力で世界を自分が変えていけるんだと「思っている」人が結構いるはずで、この人たちは世界に素手で触れている実感を持って生きている。
もちろん、それは幻想ですよ。しかし、これは最初からどんな幻想が人間を支えるのか、という話で、このタイプの人たちは共同幻想から「自立」している。別に有能なビジネスマンでなくても、インターネットは個人をエンパワーメントするので、自分は自分だと考えて「自立」できる環境は実は既に整っている。
しかし、こうした変化についていけないひとのほうが実際には多いですよね。気がついたら、インターネットで自分の責任で発信しよう、これからは個人の時代だから自分の人生は自分でデザインしよう、と言われると逆に不安になる。
僕は誰も「自立」させられてしまう環境だからこそ自分たちから長いものに巻かれようとして、週刊誌やワイドショーが指定する生贄に石を投げて安心するし、イデオロギーに回帰して陰謀論を信じたくなるのだと思います。
どちらも、あくまで自分たちの「発信」としてやっているのがポイントです。
「自己幻想のマネジメント」とは何か
僕はだから、自己幻想をしっかり自分でマネジメントすることが重要だと思っているんですね。
そもそも、個人がしっかりと考え、勇気を出して手を挙げて、自分の意見を言語化して述べるのは、ハードルが高いことです。
そうした「自己幻想の記述」は、かつては知的な訓練を受けた人間だけの特権だったのだけど、現代ではSNSを使えば、誰でも1本のツイートで出来てしまう。しかも「匿名アカウント」を作る事も出来るので非常にリスクが低い。
そしてこの「発信」はとても強い快楽を伴うわけです。
たとえそれが集団リンチへの加担であったとしても自分の発信が少しでも第三者に反応されたらとても充実感を覚えるだろうし、それがどんなに見当外れのものであっても、140字の制限にも助けられて誰かのツイートに難癖的なリプライをつければマウントを取ったような気分になれる。
この自己幻想の記述のもたらす強い快楽が、いま情報社会と民主主義をダメにしている。
もう一度、「読む・書く」を考える
――「自己幻想のマネジメント」とは何ですか。どうすれば、その力が身につくのでしょうか。
僕は「読む」「書く」ことの再設計が必要なんじゃないかと思っています。
まず「読む」ことですが、例えば、中世の修道院とかでは「黙読」が修行の一つですよね。
孤独に書物と向き合う。他人の顔色や評価などを、建前としては「一切気にせず」に向き合う。孤独に過去の人間の知恵と対峙するわけです。
「遅いインターネット」計画のひとつの柱は「読む」ことへの回帰です。2月に、まさに「遅いインターネット」と題したあたらしいウェブマガジンを立ち上げました。
SNSのタイムラインの潮目とは切り離された、5年10年と読み継がれるような良質な記事を目指して、定期的に更新しています。
ネットサーフィンの時代への回帰
これはいわば、いまや死語になってしまった「ネットサーフィン」の時代への回帰です。現代では、Googleは、比喩的に述べれば「Wikipedia」と「食べログ」のインデックスになってしまっている。
公式、準公式の情報以外は、広告収入目的のそれらを引き写しただけの無内容なページに、Googleの検索結果は汚染されてしまっていて、かつてのように興味のある一単語を入れたら、それにまつわる記事をどんどん読みすすめて世界が広がる、という体験はしづらくなっている。
そもそも、いまSNSで注目を集めたかったら、旬の話題に乗っかって大喜利的に、気の利いたコメントを、それも、ころんだ人間に後ろからケリを入れるような「人間の負の感情」に訴えるコミュニケーションをうまくやるのが一番はやい。
僕はそんなコミュニケーションに絶対に加担したくない。だから僕はこのウェブマガジンで少しでも、「ネットサーフィン」の復権を目指したいんです。
そこで、広告収入の一切ないウェブマガジンを立ち上げることを考えたんです。運営費はいまのころ「PLANETSCLUB」のメンバーの会費だけですね。
クラウドファンド的に、僕らの活動を支援したい、このウェブマガジンをサポートしたいと考える人が加入してくれています。
最初はそんな虫のいい話ってあるのかなと思っていたけれど、想像していたよりずっとたくさんの人に支援してもらっていいて、いい意味で驚いています。世の中、捨てたもんじゃないなと思いました。
人は「書く快楽」を覚えてしまった
ただ「遅いインターネット計画」は当初はこのウェブマガジンの運営を中心に考えていたのですが、計画を進めていくうちにそれだけじゃマズいんじゃないのかと思いはじめたんです。
先ほど話したとおり、いまの「速すぎる」インターネットの原因はSNSによって、人は「書く」快楽を覚えてしまったことにあるわけです。
火の使い方を覚えたら、もう肉を生で食えないのと同じで、「書く」快楽を人間は絶対に手放さない。
しかし、ほとんどの人間は価値ある発信をする能力はないので、どんどん安易な発信に流れていく。
その結果としてタイムラインの潮目を読んだ集団リンチへの参加や、精神の安定を得るための不確かな情報の拡散などに手を染めてしまう。
僕はこの問題は、半分は技術の問題だと思っているんです。ちゃんと自分の考えた新しい問いを設定して、価値を生む発信をする技術を見につけてもらえば、これまでは節度を持って沈黙していた人も発信するようになる。
Twitterやソーシャルブックマークで何らかの理由で実績以上に肥大してしまったプライドを軟着陸させるべくイキる人ってすごく多いけれど、あれ、すごく虚しいじゃないですか。
ああいう人の発信したい欲望もある程度プラスに転じることができるんじゃないかって思うんですよね。そうやってポジティブな、生産的な発信を増やしたいんです。
そのために20世紀の出版やメディアが培ってきた専門的な発信のノウハウを現代的にアップデートして、共有する事がひとつの答えになると考えているわけです。