相模原で起きた痛ましい殺傷事件や、事前予想を上回る大差がついた東京都知事選など、社会を揺るがす事件が続いた2016年7月4週。しかし今回はあえて、これらの出来事を正面から捉えた言論を集めるのではなく、少し別の角度から振り返ってみたいと思います。
生の感情から浮かび上がる世代間ギャップ
ポケモンGOが配信開始された7月22日。その日の様子を描いたブログ「20年ぶりの『ヒトカゲ、君に決めた』」は、Facebookで9000回近いシェアを得るなど、広く読まれました。もぐもぐさんはその日の興奮をわずかばかりも隠しません。
「あの頃の未来が今だってこと、ゲームの中に繰り広げられていた体験が現実になったこと、すごくない?すごいよ。都会のど真ん中で泣きそうになった」
「とにかく、こうやって地続きでポケモンを捕まえられる世界が実現したことそれ自体が幸運で幸福で楽しくて未来だってドキドキする。ハッピーだ」
この「ゲームの体験が現実になった」「地続きでポケモンを捕まえられる世界が実現した」という感覚は、年長の方にはあまりピンと来ないようです。現実を見ずスマホの画面ばかりみている、とか、バーチャルな世界に心を奪われるな、といった言葉を多く目にするようになりました。
ただ、初代ポケモンを遊び倒し、パソコン・携帯電話・スマートフォンとともに育ってきた世代には、リアルとバーチャルは二分法で対立するものではありません。むしろ、バーチャルがリアルに貫入し、溶け合った世界を現実として受け入れ育ってきたというほうが正確なのではないでしょうか。そんな「現実感」が、飾らない言葉からにじみ出てきます。
「どんな未来が現実になってるのだろう。世界は絶対に毎日進化してるって思うし、わたしはテクノロジーのちからを超超超信じてる」
ポケモンGOには、歩きスマホの危険性やユーザーのマナーが悪いなどの問題もありますが、このテクノロジーに対する根源的なポジティブさには力強さを感じます。
編集しないという編集
新聞や雑誌のオピニオン欄にあって、ブログにないもの。それは、予め定まっている掲載日と掲載枠に合わせた編集です。紙面に掲載するまでの過程で、文字数を削り、文章の意図を明確化するためのやり取りが行われ、完成品の文章が印字される。読者に読みやすい記事を提供するための努力は、尊敬すべきものです。
一方で、逆説的に、ブログにしかないものもあります。それは、枠にも時間にも縛られないが故の逡巡であり、言葉の荒々しさです。編集長の竹下も2回前の本連載で触れていましたが、敢えてまとめないことで露わになる結論未満の言葉が醸し出すリアリティ。それが胸を打つことがあるのです。
溝口シュテルツ真帆さんの「『#Pray For Munich』の代わりに、あるアフガニスタンの友人について書いておきたい。」は、ドイツ・ミュンヘン在住の著者が、9名が犠牲となった銃乱射テロを受けた心情を、リアルタイムに綴った文章です。
滞在許可を延長するための"移民学校"で出会った、アフガニスタン難民。1ヶ月のあいだ同じ教室で机を並べただけの、連絡先も交換しなかったクラスメイトを、事件を機に思い起こし、そのあとに「世界中のひび割れをどうすればよいのか、私にはわからない」とひとりごちる、明瞭な落とし所のない言葉が、不思議と心に響きます。
筆者が前回の投稿でも取り上げた黒岩揺光さんは、相模原の殺傷事件を受け「『他人に迷惑をかけるな』と言うのはもうやめよう」という記事を寄せてくださいました。容疑者の思想にある不寛容、それは「人に迷惑をかけるな」という思いが排他的に使われ続けたことによる、日本社会全体の排他性に要因の一つを発するのではないかという指摘。そして「迷惑をかけるな」をこそを排し、寛容な社会を目指すことを説きます。
過激思想やテロを、我々に身近な「迷惑」にあえて荒々しく結びつけた文章は、黒岩さんが書かれる記事がいつもそうであるように、多くの賛否両論と議論を呼びました。恐らくそこにはある程度の狙いがあります。ブログというフォーマットだからこそできる、つくられた未完成。その過剰さが他者の言葉を引き出しています。
同じように、ドキュメンタリー映画監督のマイケル・ムーア氏が寄稿した「ドナルド・トランプが大統領になる5つの理由を教えよう」は、ヒラリー・クリントン氏とその候補者が信じる「結局最後にはヒラリーが勝つ」という根拠なき自信を打ち砕く本音トークの塊ともいうべき記事となっています。
もちろん弊社でブログを掲載いただくときには、人を傷つけうる言葉や表現、根拠のない分析などは受け入れず、適切な加筆修正を求めます。しかしそれと同時に、世に溢れる作為たっぷりの「本音トーク」にならないよう、書かれた言葉をできる限りそのまま載せるためにどうすればいいか、日々苦心してもいます。
もう少し汚れた建前と、もう少し綺麗な本音を
ところで、日本にはユニークなブロガーコミュニティが遍在しています。そんな小宇宙の中でたびたび持ち上がるのが、「正直さ」に関する議論です。自分が感じたことを正直に言い、正直に生きることを目指す人々が自らの主張をブログとして発信し、それに対しツッコミが入れられていく、という構図です。
その議論において最新のものが、あさひさんによる「その考え方って、一見自由に見えるけど生きる世界を狭めてるだけじゃない?」という文章に示されています。ここでブロガーのあさひさんは、「自分を理解しようとしない人とは向き合わない生き方」を主張する人に対し、「その生き方は有効範囲が狭い」と指摘し、立論を続けていきます。
詳しくはリンク先の記事をお読みいただければと思いますが、先に立場を明らかにしておけば、今回の議論に関しては、筆者はブロガー・あさひさんと同じく「『正直さそのものに価値を認めろ』という議論は筋が悪い」という立場を取ります。ただし、この議論を離れたとき、インターネットにおける個人の情報発信は常にその影響を考え、読み手を想像して行われなければならないかというと、そうではないとも考えます。
わたしたち人間は、公的な存在であるときもあれば私的な存在であるときもあり、いわゆる「意識高い」とき、綺麗事を言いたくなるときもあれば、くだらないこと、ネガティブなこと、口にするのは憚られるようなことも時に思いを致しながら生きています。そしてインターネットは、完全に私的でも、公的でもない、パブリックとプライベートが交じり合った場所として存在していると思います。
インターネット上は常にパブリックな場所であり、それを意識して暮らせという場合、それはインターネットの可能性を一部損なうことを意味しているのではないか、と筆者は考えます(繰り返しますが、直近に紹介したブログ主のあさひさんがそういう主張をしているわけではありません)。
改めて論じ直すわけでもなく、Tweetは「つぶやき」を意味しますし、Facebookのトップページでは「いま、何してる?」「いま、何考えてる?」が問われます。プラットフォームを提供している側は、公的な情報発信のみならず、反射的な「その瞬間のつぶやき・できごと・考え」を表現してほしい、と考えていることが伺われます。
つくりこまれた美しい建前と、独りよがりな本音だけで埋められたインターネットは、つまらなく、魅力のない場所になってしまうでしょう。ひょっとするともう、そうなり始めているかもしれません。
もう少し汚れた建前と、もう少し綺麗な本音。そんな言葉が積極的に許容されるようになれば、きっとインターネットはもっと面白く、前向きに社会を動かす議論を呼び起こせる場所になると思うのです。
2016年7月4週の5本
- 「20年ぶりの『ヒトカゲ、君に決めた』」(もぐもぐ/インターネットもぐもぐ)
- 「『#Pray For Munich』の代わりに、あるアフガニスタンの友人について書いておきたい。」(溝口シュテルツ真帆/ハフィントンポスト日本版)
- 「『他人に迷惑をかけるな』と言うのはもうやめよう」(黒岩揺光/ハフィントンポスト日本版)
- 「ドナルド・トランプが大統領になる5つの理由を教えよう」(マイケル・ムーア/ハフィントンポスト日本版)
- 「その考え方って、一見自由に見えるけど生きる世界を狭めてるだけじゃない?」(あさひ/この夜が明けるまであと百万の祈り)