人的資本論から社会制度改革を考える視点について

インセンティブ改革としての働き方改革
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人的資本論は非人間的なのか

経済と社会倫理の問題で深い考察を与えた日本人というと、故宇沢弘文氏の名がまず上がる。新古典派的な効率性重視の思想から派生する公共財の提供、独占禁止、公害などの重大な外部不経済の抑制など、いわば市場の失敗の要因を除くための国の最小限必要な政策だけでは十分に国民の幸福が達成できないと宇沢氏は考え、環境や教育など「社会的共通資本」は効率性重視の観点を超えて高い質を保つ必要があると訴えたのはよく知られている。そんな宇沢氏であるが、日本経済新聞の「私の履歴書」記事の出版である『経済と人間の旅』(2017年)の中(292-293ページ)で、ゲリー・ベッカーの人的資本論を「人間を売買する市場」論と断じ、ベッカーの結婚、教育、犯罪などへの応用理論を「反社会的・非人間的研究」と強い嫌悪感をもって批判していたのには仰天した。筆者自身はベッカーの家族経済学や教育経済学は極めて重要な社会理論と考えている。

この点では宇沢氏は何か大きな勘違いをしていたのではないか。人を単なる労働の対価である賃金で評価せず、人材投資の対象と見た点が人的資本論の1つの特質である。たとえば日本での正規雇用と非正規雇用の区別だが、近似的には労働者を労働の対価でしか見ないのが非正規雇用で、労働者を企業特殊な人的資本投資の対象とみるのが正規雇用といえ、後者の方がむしろ労働者のより人間的扱いといえるのではないだろうか。宇沢氏はベッカーが人的資本論を拡大して家族や教育などを効率性から論じたことに反感を持ったようだ。しかし子どもの効用が親の効用の一部であると仮定して、「合理的利他心」を持つ親のモデルを新古典派経済学に導入したのもベッカーである。一般に結婚・出産や教育など広い社会制度問題の理解には関係者の合理的選択の問題が含まれ、そのメカニズムの理解なくしては自由な社会での良い制度設計はできないと筆者は考える。以下その理由を具体的に述べたい。

社会問題の理解と自己投資のインセンティブ

特に筆者は、人的資本論でも個人の自己投資のインセンティブに関する部分が重要と考えている。拙著『働き方の男女不平等』(2017年)で議論したコートとラウリーの「統計的差別は予言の自己成就となりやすい」という趣旨の理論も、労働者の自己投資のインセンティブが理論の核にある。職場での「労働生産性が低い」と見なされ差別されていると自覚している労働者は、自己投資のインセンティブが低くなり、その結果労働生産性も実際に低くなってしまうというメカニズムがその理論であり、日本の女性労働者の相対的生産性の低さを説明する。女性の育児離職率が高いというのも同様な予言の自己成就である。「女性はいずれ辞めるから人材投資はむだ」というような職場では女性がキャリアの行き詰まりを予測し、就業を辞めることの機会コストを比較的小さいと見るので、育児期を機会に実際に離職する傾向を高めるというメカニズムが存在すると思われる。

また筆者のRIETIコラムでも、自己投資に関連するものが他にもある。「相対的剥奪と政治―韓国の朴大統領弾劾決議を読み解く」と題したコラムでは、フランスの社会学者レイモン・ブードンの理論を紹介した。社会的機会が増すと、なぜか社会的不満が高まるという事実を説明する理論である。ブードンは一定条件のもとで、機会増大によって生じる地位達成のための自己投資者の増加率が機会の増加率を上回るため、機会の増大は自己投資してもそれに見合う地位や職を得られない人々の数が増すので「相対的剥奪」者が増える、というメカニズムを、合理的選択を仮定するモデルで示した。ここでも自己投資のインセンティブが重要な役割を果たす。

また「失敗の歴史から学ばない教育政策―国立大学付属校の抽選入学制度について」と題したコラムでは、東京都の学校群制度や「ゆとり教育」政策の失敗は、新たな制度の下では、家族の子どもへの教育投資の戦略が変わり、また新制度下での質の良い教育の代替物は教育費用が高いので、家庭の貧富の差による教育機会の不平等が増すという日本の教育政策の失敗を説明したが、ここでも家族の子どもへの教育投資戦略の理解が要となる。

このように人的資本論から出てくる自己投資に関する人々の選択の問題を考えること抜きには、女性への統計的差別、社会での相対的剥奪、教育制度改革などの社会のメカニズムは理解できない。

賃金報酬制度と自己投資のインセンティブ

ブードン理論は達成したい地位には数に制限があるので起こるのだが、賃金報酬には相対的剥奪が生じないデザインは可能である。たとえば正規雇用者と非正規雇用者が同じ仕事を為しているのに賃金が異なるなら、相対的剥奪が起こるが「同一労働同一賃金」なら起こらない。しかし筆者は「労働=職務」と考え職務給にするのは反対である。「職ですべきこと(職務)」は「職でなすこと(達成)」とは異なり、報酬は後者の評価に関係すべきと筆者は考えるからだ。

より一般に過去の業績や未来への投資も考慮し、「何をなしたか」「何をなしているか」「何をなしうるか」で判断して報酬を定めるのが、仕事の質の向上への自己投資のインセンティブを与えるので良いと筆者は考えている。能力や努力だけでなく、責任感、勤勉、正直、向上心、仕事の丁寧さなど職務実行上の「非認知能力」の違いも報酬上の差を生みだすべきであると思う。宇沢氏なら人柄まで市場価格を付けるのかという批判になるのかもしれないが、筆者はむしろ経済学者のロバート・フランクが著書『Passion within Reason (1988)』で発展させた、報酬なしには社会的に望ましい人柄が増えないという考えに共鳴する。たとえば正直者が多い社会は、正直者が得をする社会で、努力する人が多い社会は、努力が報われる社会であると考えるのがその理論である。社会心理学者の山岸俊男氏は、いわば彼のライフワークでこのような「進化ゲーム理論」的視点が日本においても現実に妥当することを数多くの問題について社会心理実験で示してきた。

翻って日本の典型的賃金報償のあり方はどうか? 「終身」の正規雇用の年功序列賃金は、企業内社会主義ともいうべきもので、退職までの生涯賃金に関する結果の平等主義で、個人差を認めず、当然自己投資のインセンティブも与えない。では非正規雇用はどうか? これも典型的に見られる、職務給でキャリアの進展性もなく期限で雇止めになる使い捨ての雇用なら、自己投資のインセンティブは生まれようもない。

このように考えると日本の労働市場の典型的な報酬制度は正規雇用も非正規雇用もどちらも自己投資へのインセンティブを与えず、したがって自主的に仕事の質を向上させようとする意欲を奪っている制度であったといえる。だから強い組織の人事管理や統制でそれを補い、働き方の柔軟性に欠ける職場環境を生み出してきたのではないだろうか。

インセンティブ改革としての働き方改革

最初の話題にもどって、人的資本論は非人間的なのか? もし人間と他の哺乳類を比べた違いがその著しい学習能力にあるなら、学習意欲を生み出す自己投資のインセンティブの重要性を指摘することになった人的資本論こそ、新古典派経済学の枠組みの中にとどまるとはいえ、より人間的な経済学といえるのではないか。そして現在の日本社会はそのインセンティブを希薄にする雇用制度や報酬制度が未だ多い。筆者はだから、日本における「働き方改革」も、より多様な人々に対し、自主的な仕事の質の向上を生み出すもととなる自己投資へのインセンティブを与える制度を作るインセンティブ改革を伴うべきだと考える。

(2017年12月27日「RIETI 」より転載)