インドネシアにいながら転職!新たな職場に立ってからの一年を振り返る

どうしてもぶつかってしまうのが言葉の壁です。
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濱田真里

こんにちは、公子です。インドネシアの日系スーパーで働き始めてまもなく一年が経とうとしています。

去年、私が勢いで飛び込んだこの組織は、インドネシア全国で600~700人のローカルスタッフを抱える大きな企業です。日本人はマネージャーとして、組織ピラミッドの上のほうに、入社と同時に配置されます。

私が配属されたジャカルタ郊外の地域には、店舗が5つあります。

各店のインドネシア人の店長と伴走しながら、日本人含め、インドネシア人、欧米人のお客さまに、満足していただけるサービス・クオリティや品揃えを提供できるように奮闘しているところです。

日本人マネージャーとしての苦労

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KOKO

私がふだんいる旗艦店には、従業員が85名います。その中で日本人は私ひとりです。

毎日、開店・閉店の前には必ず朝礼・終礼を行います。そこに参加するスタッフの中には、17年前のオープンの時から勤続している人もいます。

そこへ、何をやってくれるのかも分からない、誰なのかも知らない日本人が急にやってきて偉そうに指示を出してきたり、できていないところを怒ったりしてきたら、誰だって従いたくはないでしょう。

一緒に働くスタッフは、基本的に真面目な人たちばかりです。

困った時に頼りになる上司なのか、相談したらきちんと応えてくれる上司なのか、部下たちと同じ目線で物事を見られる上司なのか......。この組織の中では特別な存在である「日本人」の役割はどうあるべきか自分なりに考え、誰よりも早く出勤し、ひと段落するまで店の状況も見届けて退勤するなど、常に店舗でお客さまや従業員の声を聞き、「不満・不安」を取り除くために動くことを心がけてきました。

言語も心も壁があった

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しかし、どうしてもぶつかってしまうのが言葉の壁です。

店のオペレーションも、会議も全てインドネシア語。言葉ができなければ、仕事になりません。入社して3ヶ月間、寝ても覚めても、トイレにいる時でさえ常に単語帳や例文集を持ち歩き、うなされる程の言葉のシャワーを浴びていました。

何より、店には85人の言語の先生がいます。間違えても伝わるまで伝えて、とにかくコミュニケーションを積極的に取ることを心がけました。嬉しいこと、腹が立つこと、悔しいこと、全部溜め込まずに伝えました。

最初の半年は、インドネシア語も今よりずっと下手でした。

朝礼で私が言葉を発すると、クスクスとバカにしたように笑う人も大勢いました。挨拶もしない、視線も合わせない、「日本人は結局動いてくれないから」と何も期待しない。「給与だけ高いお飾りがまたやって来た」、そんなふうに思われているのを感じていました。

しかし、半年が経ったあたりから、従業員たちの雰囲気がガラリと変わってきたのです。ある朝、私が店舗で掃除をしていると、一人ひとりが「スラマッパギ(おはようございます)、コウコサン」と挨拶をしてくれた時は、本当に嬉しく思いました。

外国人として、相手の立場を想う

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「諦めちゃダメよー!」と、のび太を励ますしずかちゃん
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今では「こう改善したい、この商品を取り扱いたい、次のディスプレイはこうしたい、こういう人を採用したい、このクレームはどうしたらいい?」などと多くの会話をし、考えを共にしています。

海外で働いてはいますが、前提はやはり、私は外国人ということです。

逆の立場に立った時に、どういう振る舞いが受け入れられるのか、どうしたら仕事を一緒にしてくれるのかを、自分の頭できちんと考えることが大事だと思います。

5月27日からは1ヶ月間のラマダン(断食)が始まりました。

食品を扱う場所においての、断食は辛いだろうと思います。この時期はなるべく私も怒らないように気をつけて、従業員たちの目の前では飲み食いするところも見せないようにしています。

文化も宗教も違う人と働くことは、相手を理解し、敬い、正面から向き合うことではないかなと思っています。

ライター

KOKO

1985年福岡生まれ。 大学在学中にイギリスへ交換留学。 海外就労に憧れていたら、ハウスメイトのガーナ人から「日本でできることもたくさんある」と言われ、08年リクルート入社「九州じゃらん」で、観光地の営業に従事。その後、福岡商業施設「キャナルシティ博多」のイベント・制作ディレクション、海外パフォーマー/アーティスト招聘を担当。 26歳で地元を離れ、名古屋・東京を経て、最後に移り住んだ長野・小布施町での農業と篤農家との出会いが人生を変える。米生産農家の、日本米の生産・現地法人立ち上げで来イし3年弱を田舎で過ごす。その後、現地の日系スーパーに転職。 日本の外から「食」を支えるべく奮闘中。