こんにちは、公子です。今回もインドネシアの田んぼで考えたことをお伝えします
8月15日、日本の終戦記念日ですね。その2日後の8月17日はインドネシアの独立記念日です。第二次世界大戦後、インドネシアに残って、インドネシア人兵と共にオランダからの独立に共に戦った日本人兵士たちがいたと聞いています。
インドネシアに残る日本米
いま、私たちが使っているお米の種。
戦時中に日本人兵が台湾経由で持ち込んだと言われているものがあり、それが今も日本米として残っています。
こういう話を聞くと、日本兵は祖国の味を求めて異国で稲作をしていたのかな、日本人だけで作っていたのかな、などと歴史に想いをはせることがあります。
そして戦後70年が過ぎたいまも、日本人がインドネシアで米を作っています。
今でこそ現地スタッフや農家さんと一緒に田んぼに入って生育についていろいろ話せるようになりましたが、それまでは農業ド素人の私。「稲作が分からない」「自分にできるのか」と悩み、投げ出したくなることも多くありました。
現場で悩む、現場で学ぶ
指導する立場でいるのに私が技術をもっていないと、なめられ、足元を見られてしまいます。使う肥料や農薬も生育状況を理解していないと、「僕らが必要だと伝えたものは何でも買ってくれる」という偏った判断を現地スタッフにさせてしまうことになりかねません。
生産は初期コストが大きく、さらに年2回の作付けだと、その分コストも2倍です。
それに日本米はとても繊細なので、稲の状況をみながらケースバイケースで判断を下さなくてはならないことが往々にしてあります。
種をまいて苗を植えればぐんぐん育つインドネシアの長粒米とは「体力」が違います。病気のサインに気づけず、病が広まってしまったら手遅れですし、そこまでにかけた費用も種も全て台無しです。
単身でインドネシアに渡って半年経ったころ、いろいろな責任を背負い始めた素人農家の私は、とにかく現場に足を運ぶことにしました。
日々稲の状況を見て、些細な変化を記録に残し、日本側とディスカッション。おばちゃんたちと作業を共にしたり、雑談をしたり。
「毎日米を見ていたら分かるから」
「日本のやり方が世界のスタンダードとは限らないから」
と、一緒に事業に取り組む仲間からのアドバイスがあったからこそ、自分のスタンスや自信が少しずつ確立してきたように思います。
日本人としての誇りを持って
海外で働くこと、それは外国人である「日本人」として能力や技術を提供することだと思います。
日本人としての力とは、たとえば仕事の質において一定の水準が保てること、継続する力がありあきらめないこと、自分で考える力があること、現状に安住せず勤勉勤労であること、などでしょう。
海外に憧れ、独り立ちしようと海外で就労するのであれば、「マネジメントされる」側ではなく、国も宗教も自分とは異なる人たちを「マネジメントをする」側として、強い責任感をもって挑戦をして欲しいと思います。
そのためには、日本で「こういうことをやり遂げた」「限界までやった」という自負を持つことが大事です。
私が小学生の時から尊敬していた「杉原千畝」。
第二次世界大戦時、リトアニアで「命のビザ」とよばれる日本通過ビザを大量に発行し、ナチス・ドイツに迫害されたユダヤ人を含む6000人もの命を救った気骨の外交官です。海外で「日本人」としての誇りを忘れずに生きてきた先人たちのように、私も生きて、働いていこうと思います。
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ライター
公子(こうこ)/Koko
1985年福岡生まれ。 大学在学中にイギリスへ交換留学。 海外就労に憧れていたら、ハウスメイトのガーナ人から「日本でできることもたくさんある」と言われ、リクルート「九州じゃらん」やキャナルシティ博多で地域活性に従事。 26歳で地元を離れ、移り住んだ長野・小布施町での農業との出会いが人生を変える。日本米の生産でインドネシアへ来て2年半。日本の外から「食」を支えるべく奮闘中。
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