なぜチャットは「部屋」なのか【前編】(稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第3回)

匿名性は互いに鏡像の関係を抱く契機にもなるし、演劇的な自己呈示の契機にもなる。ただし、その選択にはコミュニケーション形式による規定が介在する。
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PLANETSチャンネルにて好評毎月連載中の 稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』 の前月配信分を、月イチでハフィントン・ポストに定期配信していきます。

※この連載の最新回(第4回「"つながるのその先"は存在するか」(1月7日配信))はPLANETSチャンネルに入会すると読むことができます。

前回連載では「現代のネットカルチャーの成り立ちを考えるために、その前史として『電話ユーザーたちのコミュニケーション』を考えるべき」という問題提起がなされました。今回は、80-90年代に一世を風靡した「ダイヤルQ2」「伝言ダイヤル」を振り返りつつ、富田英典・吉見俊哉らによる「電話コミュニケーション」批評の可能性と限界を考えます。

※本記事は前後編です。後編は、1/12(月)以降に公開予定です。

稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』これまでの連載はこちらから。

稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』 第3回 「なぜチャットは「部屋」なのか(前編)」(11月26日配信)

『ネット起業! あのバカにやらせてみよう』岡本呻也(文藝春秋・2000)という本の中に、iモード開始直前の時期に交わされたという、こんな会話が登場する。

「浦島太郎みたいに浮世離れした人ですねえ。でも僕らは今、携帯電話に情報配信する商売をやってるんですよ。今からやるんなら携帯ですよ」

 真田はすばやく計算して言った。Q2の経験で、スポーツで売れる情報は競輪競馬、プロレスと、サーファー用の波情報のみ、と相場が決まっていたからだ。サーフィン人口はごく少数に過ぎないのだが、海岸にどのような波が立っていて、人出がどのくらいあるかという情報を求めている人は確実にいる。

 「携帯電話? なんじゃそりゃ。おおっ、これはいいかも」

 「サーフポイントの波の情報はどうやって取るんですか」

 「それは簡単だよ。藤沢にあるサーフレジェンド社が"波伝説"というのをファクシミリで流しているから、それをそのまま流せばよい。

 ところで何で堀君が真田君と一緒にいるの?」

 実は彼は、大学時代の堀の兄貴分でもあった。この浦島太郎は金の卵を持ってきてくれた。

 ドコモに持っていくと、「やってみよう」ということで、企画が通った。サーフレジェンドの、ダイヤルQ2時代以来の長年の実績がモノを言った。

(出典:http://www.nin-r.com/uneisha/netbaka/511.html

この本が書かれたのは、20世紀末に巻き起こったITバブルの末期。いわゆるビットバレーの担い手の姿を活写したこの本は、現在インターネット上で全文公開されている。ここに出てくる真田とは、実は現在ソーシャルゲーム『ラブライブ!』などが大人気のKLabの創業者・真田哲弥である。そして、この真田が堀主知ロバートらと共同で設立した会社が、iモードなどへの携帯コンテンツ提供で大きく名を上げたサイバード社である。

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1985年の電気通信事業法の改正以降、民営化されたNTTは新規事業の展開を迫られる中で、矢継ぎ早に電話事業に関する新しい施策を繰り出してゆく。その中で起きたのが、電話の「多機能化」であった。

電話を使ったテレホンサービスには、それ以前にもキャッチホン(1970年)や転送でんわ(1982年)などの利用者の利便性にフォーカスしたサービスが既に存在していた。しかし、この時期から矢継ぎ早にNTTが繰り出したのは、伝言ダイヤル(1986年)などの人間のコミュニケーションのあり方そのものに介入していくサービスであった。

そんな「多機能化」が臨界点を迎えたのが、1989年に登場したダイヤルQ2(以下、Q2)である。それは、現代風に言えばテレホンサービスの「オープンプラットフォーム化」であった。Q2はそれまでの事業とは違い、利益をNTTが独占するのではなくて、電話回線を登録者に開放してサービスを開かせ、その決済代行の手数料徴収で回していくビジネスだった。そこでは教育や育児相談、あるいはコールカウントと呼ばれる世論調査システムなど、多彩なテレホンサービスが提供されており、株式やスポーツの速報を、新聞やテレビより早く伝えるチャンネルなども、高い人気を博していた。

このビジネスモデルを聞けば、多くの人がお気づきだろう。音声による提供になっているものの、これは後にNTTドコモが携帯電話において、データ通信で行った「iモード」における情報提供サービスの原始的な形になっている。

実は、真田はかつてこのQ2事業における風雲児だった。そして、そんな真田が社会的バッシングの中で会社を潰すものの、当時の知識を活かしながらiモードで再起してゆくというのが、先の本のクライマックスを成している。実はQ2で人気があったコンテンツは、波情報のサービスがiモードでも成功したように、後にガラケーで人気を博すようなコンテンツに似通っていたところがある。女性向けの占いサービスなどはその良い例だし、そもそもQ2上がりの人間が係るサービスも少なくなかったと聞く。

とはいえ、多くの人はダイヤルQ2に対して――iモードとは違って――おそらく「出会い系」のイメージがあるのではないか。それもあながち間違っていない。実際、最終的にQ2で大きく収益を得たのは、そうした健全なインフォメーションサービスではなかったと言われている。そもそも、そうした単方向サービスはシステムの構築も運営もコスト体質で、ビジネス的な旨味には乏しかった。

代わりに大きく発展したのは、「場所代」を取るサービスである。複数人の同時通話を可能にするパーティーラインや、相手に番号を知らせず電話をかけられるツーショットなどの、「多機能化」した電話サービスを利用した、コミュニケーションの場を提供する事業こそが人気を得た。それこそが、まさにここから取り上げていく、NTTの意図を大きく裏切って発展した、「出会い厨」のユーザーたちに向けられた「電話コミュニケーション」の場であった。

「電話論」の限界とその可能性

前回に予告したように、これから私は80年代の後半から可視化されていった電話ユーザーの生態を紹介していく。私が注目するのは、彼らが受話器の向こう側にイメージした匿名の「他者」と取り結ぶ関係のありようである。

電話とは、本来は電話番号を知っている知人と一対一で通話するためのツールに過ぎなかった。しかし1985年以降、NTTは電話を多機能化させる中で、結果的に後のインターネットに通じる二つの機能を導入した。一つは、電話番号を互いに知らせず、匿名性を保ったままで互いに電話する機能。これを一対一で行えたのが、後に社会問題となり「公営のテレクラ」とまで非難されたダイヤルQ2のツーショットである。また、NTTは一対一で通話を行うだけでなく、複数人で回線を共有して、リアルタイム(=同期型)にコミュニケーションを行えるパーティーライン(1989年開始)や、バラバラの時間(=非同期型)に録音メッセージを吹き込んでコミュニケーションできる伝言ダイヤルの機能も提供した。

つまりは、コミュニケーションにおいて匿名/実名、一対一/多人数、同期/非同期などを選択できるようになった結果、受話器の向こうにイメージする他者との関係が多様化したのである。そして、驚くべきことに、そうした各々のシチュエーションにおける電話のコミュニケーションは、現代のネットユーザーの姿によく似ているのである。これがインターネットとは関係のない場所で成立したがゆえに、それは示唆的であるし、まさにそれ故にこそ私はここから議論を始めるのだ。

ここからは、以下の3つの本の著者の議論を紹介しながら、どのように電話ユーザーたちが「他者」との関係を取り結んだと、彼らが考えたかを紹介していく。まず、一人目はダイヤルQ2研究を行った『声のオデッセイ―ダイヤルQ2の世界 電話文化の社会学』(恒星社厚生閣・1994)の富田英典、二人目は電話論の古典となった『メディアとしての電話』(弘文堂・1992)共著者の一人で都市論や万博の研究でも有名な吉見俊哉。そして、三人目は伝言ダイヤルのナンパについて論じ、後年『「携帯電話(モバイル)的人間」とは何か―"大デフレ時代"の向こうに待つ"ニッポン近未来図" 』(宝島社・2001)を著した浅羽通明である。彼らは三者三様のやり方で、80年代後半から登場した電話ユーザーたちに光を当てた。

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ただし、彼らの論を見て行く前に、そこに孕まれたある種の限界を指摘しなければならない。社会学者の宮台真司は『制服少女たちの選択』(講談社・1994)で、電話にまつわる既存の社会学的言説を数十ページにわたって徹底的に批判している。宮台の苛立ちは、おそらく多くの「電話論」がそのコミュニケーションを、現実と切り離された仮想的な共同体として描くことで、背景にあるリアルの社会的文脈に目を向けないばかりか、その問題を温存してさえいる点である。強烈な調子の批判が延々と続いた最後に、宮台はこう言い放つ。

わたしは、電話や「電話風俗」にかかわるコトバは、一種の踏み絵かリトマス試験紙のようなものだと感じている。そこには、メディア周辺に生じる一見新奇な現象を、「メディアが開く新たな身体性」(という神話!)に帰責したり、「理解不能な若者」(という他者性!)に帰責したりするような、陳腐で怠惰な物言いがあふれかえっている。そこでは「ニューアカ的共同体」と「赤提灯的共同体」がともに臆病に温存されるばかりで、問題の本質はいつまでたってもおおい隠されたままだ。「電話風俗」や「ブルセラショップ」や「アダルトビデオ」の取材で出会った何十人もの「普通の」――メディアが煽り立てる「フツーの」では断じてない!――女の子たちは、そのことをわたしに教えてくれるのである。

(『制服少女たちの選択』宮台真司,講談社・1994,p116-p117)

宮台のこの指摘は、まさに3人の論に見事に当てはまる。実際、匿名の電話コミュニケーションが基本的にリアルでの出会いを目的とした「電話風俗」であったことに対して、特に富田と吉見に顕著であるが、彼らはそこに言及しながら、しかし理論に組み込むのを奇妙に拒絶する。そのことが、いま読むと彼らの論に一種の"ニュータイプ論"的な若者論にありがちな寒々しさを与えているのもまた否めない。

現実問題、今となってはネットのヘビーユーザーやサービス事業者であれば、匿名の、それも一対一を基調としたコミュニケーションが「出会い系」の温床であるのはほとんど常識に近い。その意味では、この宮台の指摘こそが、現代のネットユーザーの本質に迫っているという言い方もできるだろう。だが、これは奇妙な逆説なのだが――実はこの「出会い系」の側面を否認することで彼らの論に生じた歪みこそが、かえって当時の電話よりも、後世のインターネットユーザーを上手く映しだしてしまった面もあるのである。

もちろん、そこには今なおネットの多くの場所が匿名的な、リアルと切り離された「仮想空間」としてイメージされている事情もある。「イメージされている」というのは、いかに「仮想空間」で匿名のコミュニケーションに興じているように見えようと、必ず全てのコミュニケーションは「現実空間」に通じているからだ【註】。なにせ会話の中で待ち合わせ場所や連絡先を教えてしまえば、その瞬間にすぐさま「出会い」という「現実空間」へと繋がる穴が穿たれる。故に人気のSNSやメッセンジャーの運営はカスタマーサポートコストが悩みのタネになる。そもそも優れたコミュニケーションサービスとは、人間と人間を効率的にマッチングする仕組みのことであり、それは常に優れた出会いを提供する仕組みたらざるを得ないのである。

この全ての"バーチャルな"コミュニケーションにぽっかりと開く「出会い系」という穴に対して、そしてナンパ師を自称して「何十人もの」フィールドワークを重ねたと豪語する宮台のリアリティに対して、以下の3人はあまりに無防備である。だが、そこから目を背けた故に記述された、彼らの議論に秘められたポテンシャルもまた存在する。なぜなら彼らの知性は結果的に、一種の不可知論としての他者が、いかにコミュニケーション過程で把握されるかという、対面でのそれにすら孕まれる高度に普遍的な課題に挑んでいたからである。その確認から、まずは私たちは始めよう。

富田英典:インティメイト・ストレンジャー ――1.自己を反射する鏡としての「声」

私たちは前回、電話の戦後史を文芸批評家・江藤淳の「閉された言語空間」を出発点として記述した。その江藤淳が田中康夫の小説『なんとなく、クリスタル』を絶賛したのは1980年。それから5年後の85年のプラザ合意の頃から始まった円高基調は、そこで田中康夫が描いた享楽の消費社会の風景を日本に本格的に展開してゆく。同時にこのプラザ合意の年は、電電公社がNTTに民営化された年でもあった。

社会学者の富田英典がQ2の研究を行った著作『声のオデッセイ ダイヤルQ2の世界――電話文化の社会学』(以下、『声のオデッセイ』)の冒頭は、そんな電話の「多機能化」と消費社会の進展が歩みを揃えた時代背景を、こう表現する。

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ダイヤルQ2のリカちゃんダイヤルは、ダイヤルQ2の本質を突いている。ダイヤルQ2で人気をよんだ「アダルト番組」「パーティーライン」「ツーショット」などは、大人向け、あるいは青少年向け「リカちゃん電話」なのである。ポルノ雑誌のグラビアで微笑む若い女性の声が聴けたり、AV女優が、直接、電話でしゃべってくれる。それは、着せ替え人形の「リカちゃん」の声が電話で聞ける「リカちゃん電話」と同じ構図である。

(『声のオデッセイ』p4)

「リカちゃん電話」とは、1967年に始まった老舗テレホンサービスで、普段は聞くことのできないリカちゃんの声が聴けるサービスだった。この文章は、消費社会の中で流通するシミュラークルとしての商品に対して、人々が求める現実的な手触り――例えば、好きなグラビア女優の声を実際に聴きたい、というような――への欲求に擬似的に応えるものとして、当時のQ2があったことを示唆している(ちなみに21世紀の日本人は、そんな欲望を「握手会」という大変にアナログな形で満足させている)。

しかし一方で、2014年にこの文章を目にする私は、この富田の言葉たちを単純に奇妙に思う。例えば、パーティーラインという機能は、本当にリカちゃん電話に喩えられるべきものなのか。少なくとも、こちら側からも話しかけていくのを基本とする「能動的」な双方向メディアであるパーティラインを、録音された声を流す「受動的」な単方向メディアにすぎない「リカちゃん電話」と同列に語るのは、やはり座りが悪くはないか。匿名での一対一の通話であるツーショットにも、やはり同様の指摘は可能である。そもそもを言えば、先にも記したような実際に出会う「電話風俗」の側面を考えても、虚構の音声にすぎないリカちゃん電話と比較するのはおかしい。

この冒頭に象徴される奇妙な「受動性」は、実は富田がこの本で展開する、多岐にわたるQ2文化の紹介と分析のあらゆる場面を覆う基本的な態度である【註】。とにかく、この本は「声の消費者」としての聞き手の立場からのQ2分析が多い。もちろん、電話における会話の分析が、どうしても聞き手のインプレッションを問うものになるのは仕方ない面はある。だが、実はこれは富田の、匿名的なコミュニケーションを行う電話ユーザーに対する理論的立場が要請するものでもある。

富田の電話ユーザーに対する理論的立場――それを一言でいうならば、「互いの声を自分に都合よく消費し合う関係」である。だが、問題はそこにおける消費の内実である。

その彼の理解が最も鋭く現れているのは、この本の最後に登場する、途中でリサーチを辞退したという、とある調査対象者の女性の告白ではないだろうか。そのQ2ユーザーの女性は、あるとき「相手の男性が、全部同じ人の声に聞こえてきて怖い」というメッセージを残して、富田の調査を突如辞退したという。それを富田は、耳を澄まして消費しなければいけないような微妙な声の差異がどうでもよくなったからこそ、彼女には全てが同じ声として聞こえるようになったのではないかとする。そして、こう言い放つのである。

彼女が恐怖を感じた「電話の声」とは、現代の高度化した消費社会と情報社会に魂を売り渡してしまった私たち自身の声だったのである。

(同書p149)

Q2の匿名的なコミュニケーションにおいて、人々は発話に微妙な差異を見出そうとするが、本質的にはそこで人々が耳を澄ましているのは自分たち自身の声にすぎないという、結論だけ聞くと奇怪でさえある認識がここにはある。つまり富田にとって匿名での「電話の声」とは、究極的には自分を映し出す鏡のようなものとしてある。そのことを論証してゆくのがこの本なのだ。いわば富田にとって聴き取られた声とは、そのまま私の話す声でもあり、故にこそ聞き手としての立場に固執することが要請されるとも言える――しかし、なぜそうなるのか。

富田英典:インティメイト・ストレンジャー ――2.音声がもたらす対象との一体化

このような他者認識【註】へと富田を導いたのは、おそらく本書で最も富田が力を入れて書いている、ツーショットの分析にまつわる箇所の結論である。ここで富田は、ツーショットにまつわるフィールドワークや先行研究から、以下の7つの特徴を導き出す。

1)未知なる異性との自足的コミュニケーション

2)出会い

3)偽りの自己提示

4)年齢の標識としての声

5)声のフェティシズム

6)声のシミュラークル

7)生の声のリアリティ

ここで重要なのは、6)と7)である。1)と2)は、たとえ出会い系に利用されていようとも、ツーショットの最中はそれ自体で独立したコミュニケーションになっているのだという少々苦しい(?)言い訳であり、3)~5)については、自分を過剰に良く見せる一方で、相手の年齢や性別には厳しく耳を澄まして精査するが、結局は実態を反映しているとは限らないという(「本当は出会い系なんだからそりゃそうだ」という)話が書かれているだけである。だが、残りの二つは奇妙である。

おそらく、ここで富田はツーショットのもつ独特のエロティシズムのようなものに触れている。例えば、6)で富田は受話器と耳という物理的存在の関係について考える。

「対面的コミュニケーション」では、二人はお互いに相手の言葉が耳に届いていることを目で確認しつつ話すことができる。耳元でささやくように話すときは、自分の口が相手の耳元にあるのを実感しながら話すことになる。(中略)(電話では)「対面的コミュニケーション」の場合とは異なり、彼女(彼)には自分の口が耳元にあるという感覚はない。自分の口元にあるのは冷たい送話器でしかない。電話とは、相手の口が自分の耳元にあるかのような錯覚を与えるが、自分の口が相手の耳元にあるのを実感させることはない。

(同書p82-p83)

対面コミュニケーションと違い、電話では相手に自分の言葉がどう響いたかが互いに確認できない。その結果、私たちは話せば話すほどに、互いに抱きあうイメージがどうしてもバラバラになってゆく。しかし一方で富田は、7)で印刷技術成立以前の「声の文化」を論じた米国の文学研究者・オングの指摘した、聴覚の性質に注目する。

オングによれば、視覚は「自分の外部に切り離されたもの」として対象を認識するが、聴覚は音声を「自分の内部に取り入れて内面で統合させる」性質を持つ。その根拠をオングは、視覚は視線を合わせた先しか取り込めないが、聴覚は自分を中心にしてあらゆる方向から音を取り込めるから、と説明する。この聴覚の、あらゆる音を自らの中へ集約していく受動的な性質を、富田は「聴覚は自分と対象を一体化させる」と表現する。受話器から耳に注ぎ込まれた「シミュラークルとなった声」は、聴覚の持つ性質によって自己との一体化を果たすのだ。そこにおいて、互いにバラバラのイメージを抱き合いながらも、一方で互いに鏡像にあるような関係が成立するのである。

富田英典:インティメイト・ストレンジャー ――3.匿名性は親密性を生み出すか

もちろん率直に言えば、この論理はナンボナンでも苦しい面がある。例えば、昼食後の授業中に机にうつ伏せをして教員の話を聞いているとき、あるいは好きでもないニコ生主やキャス主のリンクを踏んだとき、私たちは声だけとなったその存在に対してむしろウザいという感想しか湧かないだろう。「声」のもつ不思議な親しみやすさに迫っているようには思えるが、そのままでは首肯しがたい雑駁さがある。

それを認識してかは分からないが、富田はさらに受話器と耳の間の距離に注目して、別のロジックからも論証を詰めてゆく。社会学者のG・ガンパートによれば、相手との物理的な距離によって人間は対話時の態度を変える。近くなれば「ささやき声」になるのだが、受話器と耳の距離はまさに相手と自分の距離が近づいた意識を持たせるから、自然にそれに近づいてゆく。そのことは、電子空間の中で奇妙に相手との関係を密接に感じさせるだろう。性愛を求める場であるがゆえにそれは加速するはずだ。実際、富田は匿名のツーショットにおける手練のナンパ師たちが、現実空間のアッパーで演技的に話しかけるナンパ師と違い、ささやくように話しかけ、相手の望むイメージにいかに自らを調整させるかに腐心していたことを紹介している。彼らは、いわばこのツーショットのアーキテクチャを熟知したメタプレイヤーなのである。

私の考えでは、むしろこの後者のロジックによる戦略のほうが重要である。なぜなら、これは必ずしも声の人文的知見にもとづかずに、電子メディアにおけるある種の関係のコミュニケーション過程の本質に迫っているからである。

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事実、十数年の時を経て――携帯デバイスにおけるデータ通信が本格的に普及し、ポケベルや携帯メールなどで「文字」でのコミュニケーションが登場した後に――2009年に富田が上梓した『インティメイト・ストレンジャー』という著作で提唱された同名の概念では、むしろこの方向から議論が組み立てられている。

彼は、そこでメディア上では、匿名でありながら親密であるような関係が成立すると主張する。その内容はほとんど『声のオデッセイ』における「声のシミュラークル=バラバラな自己イメージ=匿名性」と「声の生々しさ=自己との一体化=親密性」の変奏に他ならない。

だがこの抽象化は、彼自身の思索の深まりによるものだろうが、それ以上にその後の数年間で起きた電話メディアの未曾有の発展によるものでもある。文字や絵を送るデータ通信の時代が来ても、結局のところ富田が注目したようなコミュニケーションのあり方は変化しなかったのである。

そのためだろう。富田は論の構築において「声の性質」を用いることを放棄した代わりに、「匿名性」と「親密性」が両立するという立て付けから、「匿名性」の上に成立する「親密性」という方向に論の立て方を変更している。「匿名性」そのものは電話のみならずポケベルや携帯メールにも当てはまるのだから、その共通した性質から導かれるものとして「親密性」を捉えれば、この問題は解決されるのだ。

そして、彼は都市とメディアを対立させてこう展開する――都市における匿名性は親密性を生まないが、メディアにおける匿名性は親密性を生み出す。なぜなら都市の匿名性は相手が誰かわからないだけだが、メディアの匿名性は相手の身振りや表情さえもわからない。しかも危険を察知すればそもそもいつでも関係を切断できる。そのような匿名の状況下では、人間は他者に対して(文通の時代からそうであったように)自己を開示すると同時に、相手を親密な存在として想像してしまうのだ、と。

これはナンパ師たちがツーショットで掌握していた特性そのものであるのは言うまでもない。彼らは、まさに、そうした匿名性を利用しながら相手に都合の良いイメージを植え付けて親密性をつくりだしていた。しかし、それをメディアのコミュニケーションにまつわる普遍的な問題として断言してしまってよいのか、私にはわからない。例えば、本書の最後で富田はこのように語る。

「バーチャル」は本来は「仮想の」あるいは「架空の」という意味ではなく、その物の「本質的な部分」を指している。このように考えると、メディア上で「匿名性」と「親密性」が融合し「インティメイト・ストレンジャー」が成立したのは、人々がそこに成立する人間関係に「本質的な部分」を見たからである。

(『インティメイト・ストレンジャーー―「匿名性」と「親密性」をめぐる文化社会学的研究』p327)

もちろん、富田は慎重に、この「本質的な部分」が何かは簡単ではないとする。しかし、かつて彼自身が『声のオデッセイ』のやはり最後にこんなことを書いているのを見たとき、その「転向」ぶりには愕然としないだろうか。

(ユニークな留守番電話の応答例を集めたCDを紹介したあとに・筆者注)なぜごく有りふれた応答メッセージではだめなのだろうか。自分を演出することに長けた現代の若者たちは、自分の留守まで演出しようとしている。現代的な電話コミュニケーション、風俗化した電話コミュニケーション、声だけが浮遊する電話コミュニケーションとは、演出された留守番電話型コミュニケーションなのである。

(『声のオデッセイ』p157)

『声のオデッセイ』の時点での富田は、匿名性を演劇的な自己呈示の契機としても見る視点を持っていた。先のツーショットにおける3)~5)の指摘などは、まさにその認識にもとづく。人間は匿名のコミュニケーションにおいて、果たして演技を行うのか、それとも真実を開示するのか――おそらく富田の中でも、ここは理論的に曖昧なままで問われずにいて、いつの間にか当初から彼自身が意識の上では強調していた路線に一本化されていた、というのが実態ではないだろうか。

実のところ、結論から述べてしまえば、匿名性は互いに鏡像の関係を抱く契機にもなるし、演劇的な自己呈示の契機にもなる。ただし、その選択にはコミュニケーション形式による規定が介在する。富田のインティメイト・ストレンジャーの概念について言えば、彼が明らかに匿名のツーショットにおける一対一関係を基本形式に置いて「電話論」を構築していることが大きく影響を与えている。そのことがよくわかるのが、次に紹介する吉見俊哉の、伝言ダイヤルを基本とした「電話論」である。

※後編は、1/12(月)以降に公開予定です。