私の名前は、ブラッケン・ハンケ。カナダに住む、どこにでもいるような13歳の女の子です。
好きなことは、歌うことと演劇。友達と出かけるのも大好きです。自分の部屋で絵を描いたり、フェルトをしたり、ウクレレを弾いたりして何時間も過ごします。
だけど一つだけ、他の子どもたちと違うところがあります。それは私がドラァグクイーンだということ。
私の親はファッションスタイリストと婦人用帽子の職人です。記憶のある限り小さな頃から、ファッションや魅力的なものに囲まれて育ちました。
そして、幼い時からファッションショーに連れて行ってもらいました。うっとりするようなファッションに身を包んだエレガントなモデルが、長いランウェイを気取って歩くのを眺めていた思い出があります。
あそこで注目を浴びて歩くのが自分だったらよかったのに……と思っていました。私は、あのキラキラした衣装に身を包んだ人になりたかった。
そのうち、私はそうしたイベントにドレスアップして行くようになり、ちょっとした有名人になりました。地元バンクーバーの新聞の社会面に載ったこともあります。
一番おしゃれなドレスを着て、私のためにお母さんが作ってくれた帽子を被り、ラインストーンを両目の横につけて、完成。なぜそんなにおしゃれをするのと聞かれた時には、「私は小さなファッショニスタ」と答えていました。
おしゃれをするのが嫌いな子供なんているの?と思うくらい、私は服で自分を表現することに幸せを感じていました。
9歳になったある夏の午後、私は2階の部屋でお母さんが携帯で動画を見ているのをみつけました。
動画には、きらびやかな服を着て、びっくりするようなヘアスタイルとドラマチックなメイクをしたゴージャスな女性が、長くてツヤツヤしたキャットウォークを歩く姿がうつっていました。
見た途端、目が離せなくなりました。それは、今までに見たことのないようなファッションショーでした。
目を見開いて「これは何?」とお母さんに尋ねました。お母さんは私に、「ル・ポールのドラァグ・レース 」だと教えてくれました。そして、ドラァグクイーンについて説明してくれました。
それ以前にも、ドラァグクイーンについて少しは知っていました。家族で、バンクーバーのプライドパレードに毎年行っていたし、家族の友人の中にはドラァグをやっている人もいたからです。
だけど「ル・ポールのドラァグ・レース」のようなショーを見たことはありませんでした。私はすぐに夢中になりました。
それから私は、お母さんと一緒に、「ル・ポールのドラァグ・レース 」を見るようになりました。いくつかの大人向けのパートを、お母さんは私には見せないようにしていましたが。
シーズン5を見ている時に、お母さんは私にお気に入りのドラァグクイーン、アラスカを紹介してくれました。アラスカを見た途端、私は彼女の虜になりました。
彼女が最初のコンテストに出場した時に身につけていた馬の頭のマスク、最高でした。彼女がランウェイで身につける奇抜なドレスも大好きでした。とにかく、彼女のすべてが大好きでした。
そして私は、ふと気がつきました。ゴミ袋から作ったドレスを着たアラスカが、あれほど素敵なのであれば、私にだってできるんじゃない?
私はお母さんに、ビニール袋でドレスを作ってドラァグクイーンの装いをしてもいいか尋ねました。だけど、答えノー。がっかりしました。なぜ、憧れているドラァグクイーンのように装ってはいけないのか、理解できませんでした。
お母さんは私に「ドラァグの装いをすることが、(文化の)盗用と見られるのを心配している」と話してくれました。ドラァグクイーンには、迫害されてきた長い歴史があります。だから私のような迫害を経験していない人が、迫害を経験してきた多くのドラァグクイーンと同じような装いをするのは不適切ではないか、と心配したのです。
だけど私は諦めたくありませんでした。何度も何度も、一度だけでいいからクイーンになりたいとお願いました。しかしお母さんは、首を縦に降りませんでした。
それが何カ月も続いたある日、ついにお母さんは私を、友人であり私たちが大好きなお店で働いている地元のドラァグクイーン、ケンダル・ジェンダーのところへ連れて行きました。
お母さんはケンダルに、私がドラァグになりたいと言い続けていると話しました。するとケンダルはパッと顔を輝かせて、“ハイパークイーン”というドラァグクイーンのことを話してくれました。
ハイパークイーンは、ドラァグでいる時もそうでない時も自分を女性だと認識しているドラァグクイーンで、パフォーマンスでは女性を強く強調します。
その話を聞いたお母さんはついに根負けして、私にメイク道具を手渡してくれました。ラメ、マット、グロス、そしてパウダー……メイク道具の中には、選ぶものがたくさんありました。
お母さんは、私がドラァグクイーンになるのに必要なコスメを一緒に選んでくれました。洗面台に必要なものを全て並べた後、お母さんの携帯を立てかけて、アラスカのメイクチュートリアル動画を見られるようにしてくれました。
そして、私のメイクを助けてくれました。少しずつ、全く違う人になっていく自分。その姿を私は眺めていました。
ドラァグクイーンになって最初の年は、ドレスアップして居間を飛び跳ね、大好きな歌を口パクで歌っていました。
でも私がドラァグクイーンの装いで参加できるイベントは、なかなか見つけられませんでした。
ある日ケンダルが私たちに、全ての年齢の人が対象の、クリスマスをテーマにしたヴォーグ・ボール(LGBTQ+の人たちが、ダンスの“ヴォーグ“などのパフォーマンスを競い合うイベント)があると教えてくれました。
私はその時まだボールカルチャーについてあまり知りませんでしたが、すごく楽しそうだったし、それにとにかくランウェイを歩く機会が欲しいと思っていたので参加することにしました。
ヴォーグ・ボールはニューヨーク市で1980年代に始まりました。LGBTQ+のコミュニティ、その多くは有色人種のLGBTQ+の人たちが集まって、異なるカテゴリー(“顔”、”ベストドレス”、”ヴォーグ”など)で競いあうのです。
ルールや、ボールで競い合うための専門知識を完全には知らなかったけれど、私は美しい羽毛をつけたピンクのドレスにキラキラしたアクセサリーをたくさんつけ、頭からつま先まで美しく装って参加しました。できることは全部やりました。そして、それは素晴らしい経験になりました。
そのヴォーグ・ボールで、私をドラァグクイーンとしてサポートしてくれる重要な人たちにも出会いました。私のヴォーグマザーとなってくれたラルフ・エスカミラン。それに私のヴォーグファミリー。ヴォーグファミリーは“ハウス”でもあり、私たちは「ハウス・オブ・グバサリア」と呼ばれています。
彼らは私に、ボールルームカルチャーやヴォーギングについて教えてくれました。そういったカルチャーもまた、私を虜にしました。
全てのドラァグクイーンが、ヴォーグをしたりハウスに所属したりするわけではありません。だけどたくさんの人たちがそのカルチャーを楽しんでいます。そしてボールルームのコミュニティとドラァグコミュニティーは、しばしば重なり合います。
ヴォーグ・ボールに参加した後すぐに、私は地元のコミュニティに自分の居場所を作ることができました。地元のドラァグクイーンたちが、メイクの仕方を教えてくれたり、パフォーマンスをする場所を見つけてくれたりしました。そうやって、私はさらにドラァグクイーンについて学ぶことができました。
それでも、ドラァグクイーンのショーのほとんどが、バーや子どもが入場できない場所で開催されるので、私は参加できませんd
11歳になってようやく、バンクーバーのプライドで初めて本物のパフォーマンスができました。
誕生日のお小遣いで新しく買ったピンクのウィッグに、青と白のユニコーンをつけて臨みました。バックステージで自分の出番を待っている間、ものすごく緊張しました。
メーガン・トレイナーの「Me Too」に合わせた振り付けを何週間も練習していたけれど、途中で何か忘れてしまうのではないかとハラハラしながら、自分の出番を待ちました。
そしてついにやってきた、私の出番。すごく不安だったけれど、曲が始まりカーテンが開いた途端、私は自分がいるべき場所に立っている、そして自分がパフォーマンスを心から愛しているとはっきり感じました。
それ以来、舞台前に緊張することはなくなりました。ステージは私にとってのホームです。幸せを感じ、受け入れてもらえると感じられる場所です。
みんなが私を理解してくれているように感じられるし、私がどんな人生を送っていても、私を受け入れてくれると思える場所です。
そのパフォーマンスから2日後に、私は3人の素晴らしいユースパフォーマーたちと一緒に、モントリオールのプライドに参加しました。
たまたま彼らは、私が出演していたドキュメンタリー「ドラァグキッズ」に出演している子たちでした。
「ドラァグキッズ」は私たちのようなドラァグクイーンになりたい子どもたちが経験している様々な出来事や、私たちをサポートしてくれるコミュニティを追ったドキュメンタリーです。
なぜドラァグが好きなのか、と私はよく聞かれます。その答えは、いつも同じです。
ドラァグは私をとても幸せにしてくれます。そして、私のクリエイティブな表現手段でもあります。
自分を表現できて、ルールも制限もありません。ドラァグクイーンの私は、踊り、歌い、ドレスを作り、キャラクターを作って、コスプレをします。
同時に、ドラァグは私にとって政治的な意味もあります。メディアや社会は若い女性たちに、どんな格好をすべきでどう振る舞うべきかを教えようとします。
私はドラァグを通してそういった風潮を揶揄し、社会が求める期待を風刺しているのです。
ドラァグになった時は、どんなキャラクターにでもなれます。メイク落としで顔を何回か拭けば、また“普段の自分”になることも、頭の片隅でわかっていながら。
普段の自分でいることも好きです。だけど、しばし他の誰かになるのは、とても楽しい。
子どもがドラァグになるのはふさわしくないと考える人もいるでしょう。それは、ドラァグが大人の悪ふざけであり、その内容が際どいものだという間違った考えに基づいていると私は思います。
ドラァグは、子供のエンターテインメントの歴史にも、深い関わりがあります。子供向けのTV番組や映画には、異性の服装を着たキャラクターがたくさん登場します。
そして、全てのパフォーマンスアートがそうであるように、多くの種類のアートには、数々のパフォーマーが存在しているのです。
もちろん、ドラァグショーの中には、子どもの私が参加するには適していないものもあります。それは、子どもの私が見るのに適さない映画があるのと同じです。
私がパフォーマンスするのは、大抵いつも「ドラァグブランチ」か、図書館などでドラァグクイーンが本を読んだり、子ども向けのパフォーマンスをする「ドラァグ・クイーン・ストーリー・タイムス」です。
そういった場所は、クィアの子供や(クィアでない子供にとっても)家族にとって、一緒に集まってコミュニティの一員となるための素晴らしい機会です。
だから私はドラァグが全ての人のためのものであると信じています。
全く予期していなかったことなのですが、ドラァグクイーンになってから、世界中の子どもたちからメッセージをもらうようになりました。
そういった子どもたちの多くが、私とよく似ています。だけど残念ながら、彼らの多くが、私のようにパフォーマンスをする機会がありません。それは、家族やコミュニティからサポートが得られないからです。
そういった子どもたちの中にはとても苦しんでいる人もいます。13歳の私には、全てのメッセージに返事をするのが難しい。だけど私の存在が「あなたのように感じている子は他にもいる、あなたは間違っていない、そして一人じゃない」と感じるための助けになるのであれば、とても嬉しいです。
若い人たちからのメッセージを読んで、目に見える存在がいることは重要なんだと感じました。
多くの子どもたち、特にクィアの子どもたちが、地元のコミュニティーだけではなくネット空間でいじめやヘイトを経験しています。そして自分を傷つけ、時には自死に追い詰められる子もいるのです。
私は自分の存在が、LGBTQ+の子ども達が会話をするための助けになれたらと願っています。周りに受け入れてもらえない子ども達、そして偏見のある社会でありのままの自分で生きていこうとしている子ども達の助けとなり、彼らの希望になれたら嬉しい。
ドラァグクイーンはずっと、反抗や抗議の形でした。今、ドラァグクイーンの子ども達の多くにとってもそうです。
クィアの若者たち、そして自分は他の人と違うと感じる全ての人たちのために居場所を作ることは、世界をダメにしたりしません。それは世界を生きやすい場所に変えるのです。
ブラッケン・ハンケ:13歳の俳優で、ドラァグアーティストでLGBTQ+のユース。カナダ・ブリティッシュコロンビア州バンクーバー出身。宿題をしている時以外は、愛犬を抱いたり友達と遊んだりクリエイティブな表現方法を探すのが好き。Instagram @brackenhanke