2020年3月22日、長女が生まれた。ゴールデンウィークを挟んで4月25日から6月7日まで、約1カ月間の育休を取った。ハフポスト日本版に在籍中に男性社員に子どもが生まれることが初めて。そのため、僕が男性育休の第1号となった。
ちょうどその時期は新型コロナウイルスの感染拡大による緊急事態宣言が、日本各地で実施された時期と重なっていた。僕らがどんな風に過ごしたのか振り返ってみた。
■出産にギリギリ立ち会えた
3月下旬は全国的にマスクの品薄は続いていたが、新型コロナへの切迫感は4月以降に比べれば薄い時期だった。僕は都内の病院で娘が産まれた瞬間に、分娩室で立ち会うことができ、入院中の妻子に面会もできた。しかしその数週間後に生まれた赤ちゃんは、新型コロナの感染予防のためにいずれもNGとなっていた。
ただ、僕のときも面会可能なのは「同居家族のみ」と制限されていた。妻と僕の両親も、孫に会いたがっていたが、面会はかなわなかった。そのため、妻の入院中はなるべくたくさん娘の写真を撮って双方の両親にLINEで送った。カナダに住む妻の姉も、出産に合わせて帰国予定だったが見合わせていた。
娘が生まれた3日目の3月24日、東京オリンピック・パラリンピックの1年延期が正式決定した。新型コロナによって僕らの日常は音を立てて変わり始めていた。
■妻と娘は千葉へと向かった
予定通り入院から5日間で退院した。都内の自宅に親子3人で一晩だけ過ごしてから乳幼児の移動に対応した「キッズタクシー」で千葉に移動した。当初の予定では、4月下旬までの約1カ月間、妻は「里帰り育児」をする手配になっていたからだった。
一方、僕は都内の自宅に1人残って仕事を続け、4月下旬に妻と娘が帰ってきたタイミングで、育休を取って育児に参加する……。僕らはそんなプランを立てていた。
ハフポスト日本版の編集部では、3月下旬から新型コロナの感染対策としてリモートワークでの勤務がメインになっていた。両親から「こっちで仕事をすれば?」と誘われたことで、妻が東京に帰ってくるまで、僕は埼玉県の実家で過ごすことにした。夫婦がお互いに実家に帰る……という奇妙な事態になった。
僕が埼玉に移動した3月29日は、折しも志村けんさんが新型コロナ感染症で亡くなった日だった。翌日に発表され、日本中にショックを与えることになった。この頃から、テレビ番組では司会者とゲストが2メートル近い距離を空ける「ソーシャルディスタンス」を取るようになっていた。
そして、僕らの育児プランも新型コロナで大幅に変わることになる。
■埼玉に親子集合
僕が埼玉の実家で暮らし始めて、3日目のことだった。妻から「生活拠点の件で相談がある」と電話があった。妻の実家に近い千葉県東部の福祉施設で数十人のクラスター(感染者集団)が発生したというのだ。妻もご両親も、生後1週間の赤ちゃんを育てることに不安を感じているという。妻の実家内で家族会議をした結果、埼玉県にある僕の実家で子育てをしてはどうか?という話になったそうだ。
僕としては、予定より早く娘に会えればうれしいし、僕の両親も「是非来て欲しい」とのこと。4月2日に妻とその両親が、僕らの娘を連れて自動車で来た。妻のご両親は、孫と離れるのが寂しそうだった。
こうして僕の両親、僕と妻、そして娘の5人体制での埼玉暮らしが始まった。この日の都内の新型コロナの感染者数は過去最高の98人に達していた。非常事態宣言が首都圏に発令される日も近いと噂されていた。
■妻に与えていたプレッシャーに気付く
埼玉の実家で子育てを始めてから6日目の4月7日、安倍首相は東京、埼玉、千葉を含む7都府県に緊急事態宣言を発令した。
僕もリモートワークで速報対応をした。安倍首相はこの日の会見で「仕事は原則自宅で」と話し、対象地域の知事らに「生活の維持に必要な場合を除き、みだりに外出しないよう要請すべき」としていた。政府がリモートワークを要請する日が来るとは予想もしていなかったし、それをリモートワークで速報するというのも時代の変化を感じた。
育児をしながら、自宅で記事執筆を続けたが、ほとんど新型コロナ関連の記事ばかりだった。そのまま4月25日から育休に突入した。
育休を取る数日前、印象的な出来事があった。
早朝の午前5時くらいに娘が延々と泣きじゃくっていた。妻が一生懸命にあやしていて、僕も寝床から出て娘のオシメを換えた。そのとき、妻が泣いてしまったのだ。結婚して1年近くになるが妻が泣く姿を見たのは初めてだった。
育児の大半を妻に任せて「仕事があるから」と夜間にサポートしなかった自分を恥じた。しかし、あとで妻に事情を聞くとそうではなかった。「朝から仕事がある夫を起こしてしまったので泣いた」という。
育休前とはいえ、そんなに気にしなくて良いのに……。知らず知らずに妻にプレッシャーをかけていたことが申し訳なかった。
■「ミルク担当大臣」を宣言するも、育休はハードだった
その夜の教訓を活かし、育休に入ってからは、夜間の娘へのミルクや授乳も夫婦で時間交代制にして、お互いに少しでも睡眠時間を確保できるようにした。僕は勝手に「ミルク担当大臣」と名乗り、粉ミルクをほ乳瓶に溶かして娘に与え、ほ乳瓶を洗うところまでなるべく一人でやるようにした。
もちろん、男の僕には母乳を与えることはできないが、それ以外はなるべくやった。娘のオムツを換えている最中にウンチが出てじゅうたんが真っ黄色になった。首が据わっていない娘をダッコするのが怖くて変な持ち方をしていたら手首を痛めた。毎日、小さなビニール製のベビーバスで沐浴させるのだが、自分が担当すると娘が嫌がって泣いてしまう上、自分も無理な姿勢で腰を痛めた。もちろん何回もやっているうちに慣れて失敗も減ってくるが、最初のうちはトラブル続きだった。
「育休」という字には「休」という文字が入っている。でも、乳児を育てるハードさは、取材したり原稿を書いたりする普段の仕事と変わらなかった。覚悟はしていたけど、想像以上だった。
育児の最中も、緊急事態宣言は続いていた。僕らは親子で外出することはなるべく避けて、実家に籠もった。妻子とともに外出したのは5月1日、かかりつけの病院までキッズタクシーで1カ月検診に行ったときぐらいだった。
毎日、東京都の感染者数に一喜一憂しつつ、なるべく買い物はAmazonなどの通販で済ませた。最低限の必需品だけ、近所のコンビニやスーパーで買い物するようにした。
毎日午前中は掃除や洗濯をしながら授乳やミルクをするのでかなり忙しい。夫婦でゆっくりできるのは午後3時くらいのスキマ時間くらいだった。その時間は通販などで買ったお菓子でお茶をした。夕日を浴びながら、2人で過ごすつかの間のティータイムで食べたお菓子が、めちゃくちゃ美味しかった。幸せを感じたのを覚えている。
■緊急事態宣言の解除後の東京は…
東京都と埼玉県の緊急事態宣言が5月25日に解除された3日後の28日、僕らは都内の自宅に帰った。あれほどマスクが品薄だった都内のドラッグストアにも、マスクが並び始めていた。新型コロナで一変した日常が少しずつ元の姿を戻しつつあるようだ。
東京に戻って数日後のある日、iPhoneの指紋認証が利かなくなった。「おかしいなぁ」と思って、改めて自分の指を見ると、ガサガサで指紋が消えかかっていた。この2カ月間、ほ乳瓶を洗いまくっていたせいだろうか。妻から「名誉の勲章じゃん」と言われた。
6月に入ると、生まれたときに約3キロだった娘の体重は倍近くになっていた。粉ミルクを嫌がることが多くなり、ミルク担当大臣としての出番は少なくなった。とはいえ、オムツ替えにダッコ、お風呂に入れるなどやるべきことは山のようにある。
「明日からは仕事かぁ」。44日間の育休の最終日となる6月7日。ちゃんと職場復帰ができるか不安を感じながら娘をベッドであやしていたときのこと。娘は笑いながら、両手を振り上げてガッツポーズを取った。
その姿はまるで、「パパ頑張れ!」とエールを送っているかのようだった。