「堕ろすのは反対だから」16歳の高校生は、父親の言葉で親になる決心をした

予期せぬ妊娠。今、本当に子どもを産んで良かったと思っている
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徳 瑠里香

「母親ってなに?」「家族ってなに?」

センセーショナルな虐待事件の報道と、先日観た『万引き家族』の影響もあり、しばらくそんな問いに思いを巡らせていた。

思えば私は妊娠中、同じ問いを持って、自分の身近にいる女性とその家族に話しを聞き、小さな物語をまとめていた。7人の女性とその家族の話を聞いて、文章を綴りながら自分に問いかけても、いまだその答えはわからないまま。というか、正しい答えなんてないんだと思う。女性の生き方も家族のあり方も本当に人それぞれで、みんな迷いながら、それぞれの家族のかたちを模索している最中だった。

「正しい親」も「正しい家族」もきっと幻想で、そんなものはない。にもかかわらず社会は、勝手な「正しさ」を押し付けて、そこから外れた親と子、家族を気づかないうちに追い詰めてしまうことがある。

当たり前のことだけれど、個人の生き方も家族のかたちも、ひとつじゃないし、正解なんてない。10人いれば10通りの生き方があり、それぞれの家族のかたちがある。だから私も、「答え」ではなく、「問い」を持ち続けようと思う。

妊娠中に話しを聞いたなかのひとり、16歳で妊娠をして母になった友人の小さな物語をここでお届けしたい。もちろんそのなかに、冒頭に挙げた大きな問いの答えが書いているわけではない。「わたし」から見た、とても個人的な「ひとり」の断片的な話であること、長いこと(1万字ほど)を先にお伝えしておく。

高校2年の春、美菜子(仮名、30)が妊娠した。

中学時代からたくさんの時間をともに過ごし、同じ高校に進学。自転車を漕いで隣町の海へ行ったら、帰り道がわからなくなり家に辿り着けなくて、両親に心配をかけたこともあった。16歳 ―― 私たちはまだまだ子どもだった。

そんな歳に、美菜子は母になる。ちょうどその頃、生まれつき生理がない私はいつか母になる日のために、ホルモン治療を始めていた。

美菜子が高校を辞めてからも学校帰りに家に通い、大学から地元を離れた私が帰省する時には必ず会って、毎年、お互いの誕生日には手紙を送り合い、夏休みは旅行へ、新年は一緒に初詣に行き、多くの言葉を交わしてきた。

美菜子は私にとって、自分の母親以外で一番身近にいる「母」でもある。これまで私が生理を起こすための治療を止めなかったのは、すぐそばに小さな命と向き合う母、美菜子の姿があったからかもしれない。

月日を経て、私も30歳にして、美菜子が16歳から経験した妊娠・出産、そして子育てを迎えた。美菜子はこれまで「母になること」そして「家族になること」とどう向き合ってきたのだろう。

背中を押した父の一言

16歳、春。美菜子はしばらく生理が来ないことを不安に思い、学校帰りに薬局で妊娠検査薬を買って試した。結果は陽性。中間テストの真っ最中だったけれど、勉強は一切手につかず、美菜子の日常は色を変え、思考は停止した。

「まさか、私が妊娠!? 信じられない。というか、意味がわからない。何も考えられなかった。本当に赤ちゃんがいるのか、いないのか。それだけが頭の中をぐるぐるして、気持ち悪かった」

母親に打ち明けると、すぐに病院へ連れていかれた。

「もし妊娠していたら、お父さんには絶対言えないから知られる前に堕ろそう」

そう思いながら母と訪れた、街の寂れた小さなレディースクリニック。内診台で股を開き、息を凝らす。

「ここに赤ちゃんがいますねえ」

おじいちゃん先生はモニターを指差し、穏やかな声でそう言った。付き添っていた母は青ざめて椅子から崩れ落ちた。美菜子はエコー画面をじっーと見つめた。妊娠2ヶ月で赤ちゃんは12mm。

「ちっちゃいのに、ちゃんと動いていて、生きてる!って思った瞬間に泣けてきた。なんで私、簡単に堕ろすとか思ってたんだろうって、自分に怒れた」

内診台を降りると、医師は「ここにサインをもらえばできるので」と紙を差し出した。中絶の同意書だった。

「すごい嫌だなって思った。でも、高校生で産んで、現実問題、育てられるのか。そもそもまずお父さんには言えないって気持ちがやっぱり強くあったんだよね」

一人っ子の美菜子は、口数の少ない厳格な父と友だちのように気さくな母に大切に育てられてきた。いつも近くにいたのはお母さんだったけれど、美菜子は自身を「ファザコン」だと言う。

「幼い頃から、お父さんは仕事が忙しくてあまり家にいなかったけど、たまに帰ってくるととにかく嬉しくて。厳しくて遠い存在ではあった。あんまり話さないから何を考えてるかわからないし、未だに謎だけど、大好きで。昔からお父さんに認めてもらいたいって気持ちが強かったかも。高校生になって、お母さんとはよく一緒にいたけど、お父さんとはほとんど喋らなくなっちゃった。それでもお父さんのことは強く意識していたね」

何をしていてもお腹に自然と意識が向かう。

― 同じ痛みなら、中絶よりも出産で経験したい。

― でもやっぱり堕ろすしかないかな。

思いは堂々巡りでどうしたらいいかわからない。

そんな美菜子の背中を押したのは、恐れていたお父さんの一言だった。

「堕ろすのは絶対に反対だからね」

妊娠が発覚して3日も経たないうちに、口止めされていたが耐えられなくなったお母さんが仕事中のお父さんに美菜子の妊娠を電話で伝えた。その日、お父さんの帰宅を恐れて部屋に隠れていた美菜子を呼び出し、一言、そう言ったのだ。

「その言葉を聞いた時、すごく安心した。産めるんだって。命を無駄にしたくないな、本能的に産みたいと思ってたんだよね。でも怖かった。お父さんの一言で、許された感じがして、ほっとした」

17歳で結婚、母になる

当時付き合っていた一歳年上の彼氏・達也には妊娠が発覚した時点で伝えていた。彼が「やったー」と喜んでいたことも美菜子を安心させた。お父さんはすぐに、達也とその両親を呼んで家族会議を開いた。婿に入り、美菜子の実家で一緒に住むのなら結婚を許す、と。その家族会議で美菜子たちの結婚は決まり、達也は美菜子の実家に引っ越してきた。そして、お父さんの紹介で達也は工場で働き始め、美菜子は高校を辞めて、出産と子育てに備えた。

「お母さんもそばにいたからか、不思議と出産や子育てへの不安はなくて、なんとかなるだろうって楽観的だったね。もっと色々調べて胎教とかしたらよかったって今は思うけど、当時はそんなこと何も考えてなかったなあ。自分本位だったのかも」

17歳、冬。予定日より1週間遅れた1月17日の夜12時前、達也が夜勤だったため、お父さんとお母さんと川の字で横になった瞬間、陣痛が来た。お母さんに病院に連れていってもらい、5時間後に破水して分娩台へ、20分ほどで元気な男の子が誕生。美菜子は母になった。

「もうね、嬉しかったよ。会えたことっていうよりお腹が引っ込んだことが(笑)。海斗にはすぐ会えたんだけど、自分が産んだのかよくわからなくて、宇宙から来たみたいな。未知の存在。目を閉じてるし人形みたいで、すぐには実感できなかった」

その日から海斗は、美菜子の隣で眠り、美菜子を求めて高い声で泣き、美菜子の腕に抱かれて母乳を飲み、小さな息を繰り返す。

「この子が生きるためには私が必要なんだなあって思ったよ。私も本能なのか、一緒に寝てても海斗を潰すこともないし、母乳も自然に出るし、たくさんの赤ちゃんが泣いていても海斗の声がちゃんとわかる。不思議だった」

退院し実家に戻ってからは、お母さんに助けられながら、必死に子育てをした。眠れないし、慣れないことばかり。生まれたばかりの海斗と片時も離れることはなかった。

数ヶ月前、高校生だった自分にはまるで想像もできなかった、"母"としての日常。日々必死に生きる小さな命を前に立ち止まることはできないけれど、意識が追いつかず、ふと、自分が選ばなかった人生を思い描き、"母"ではない自分に思いを馳せることもあった。

「海斗が生まれてからも自分本位で物事を考えている時はよくあったよ。早く外に出たいな、遊びたいなとか。当時は高校時代の夢ばっかり見てた。妊娠した時は高校なんて辞めてもいいって軽く考えてたけど、思い出すのは楽しいことばっかりで。瑠里香たちの話しを聞いて、産んでなかったら私もそこにいたのかなーと思ったり。自分がかわいいって思う部分もあって、母親じゃない自分もいたね」

でもそんな気持ちを癒やし、現実に引き戻してくれたのは、いつもそばにいた海斗の存在だった。

「海斗を抱っこしているとリラックスできて、母乳を飲む姿もかわいくて仕方なかった。お父さんがお風呂に入れてくれたり、喜んでる姿を見るのも嬉しかった。幼い頃、お父さんは本当は男の子が欲しかったって聞いたことがあって、保育園の時とか私、男の子になりたいって思ってたからね。その夢を叶えられたかな、親孝行できてるかなって、どこかで満たされてる自分もいた」

狂ってしまった家族の歯車

しかし、その暮らしは長くは続かなかった。海斗が生まれてから家族で出かけられるようにと、お父さんのローンで車を買った。その車で達也は仕事終わりに遊びに出かけるようになり、朝帰りをすることも増えた。当時達也も19歳。遊びたい年頃でもある。

「もちろんお父さんは怒って、オデッセイは没収。達也だけ遊んでずるいと思ってたから、私もお母さんと一緒になってぐちぐち言っちゃって、家に達也の居場所がなくなった。ある日、達也は歩いて自分の実家に帰っちゃったんだよね。そうなった時に、私は達也の味方できてなかったなーって反省して、私も海斗連れて、達也の実家に帰ったの。そしたらお父さん、勝手に私たちの離婚届を出しちゃったんだよ」

美菜子たち夫婦は婚姻届と同時に離婚届を書かされていた。未成年がゆえに、保護者の同意あって成り立った結婚だった。覚悟を決めさせるために、何かあった時のために、お父さんは離婚届を控えていた。

達也の実家での食事中、お母さんから着信があり美菜子たちはその事実を知る。状況を確認するためにかけ直しても通じない。焦って市役所に駆けつけると、すでに離婚届は提出されていた。お父さんは頑なでそこに会話はなかった。美菜子たちはその場ですぐ婚姻届を提出し、美菜子はこのタイミングで嫁入りし苗字が変わった。

ほどなくして達也の実家を出て、隣町にアパートを借りて3人で暮らし始めた。

でも、上手くはいかなかった。

「結局達也は変わらなくて。もっと自由になっちゃって、夜遊びばっかり。夜中に知らない番号から電話が来て、酔いつぶれたから迎えに来てほしいとか。私は我慢しているのに。ご飯もつくりたくないし何もしたくない。もう無理って思って、よく喧嘩になった。私、男性の罵声に慣れてないからいちいち傷ついて、自分否定しちゃうし、つらかった」

実家のしがらみから解放された達也は堰を切ったように夜遊びに走り、美菜子にも声を荒げた。ここから逃げ出したい。生活を放棄したい。そう思っても海斗がいたから、耐えられた。しかしある日、海斗が保育園で「最近の家族の思い出」をテーマに書いた絵を見て、海斗のために離れようという決意が固まる。

画用紙には、暗い色で、車の中で達也が怒り、美菜子と海斗が泣いている姿が描かれていた。保育園の先生にも「最近、海斗くん、友だちの輪から外れてぼーっとしていることが多いです」と心配された。離れることを考えたけれど、その時点で美菜子は仕事もしておらず、経済的にも離婚をすることは難しい。美菜子はアパートを出て、実家に駆け込んだ。

海斗を連れて実家に帰ると、そこには自分が生まれ育った「家族の日常」が無くなっていた。お父さんは携帯をいじったままトイレから出てこず、泊まりに行って帰ってこないこともあった。家に一人残されたお母さんは衰弱して見える。子どもがいることで保たれていた夫婦の秩序が、美菜子が出ていったことで一気に乱れた。

「結局お父さんは、お母さん以外の好きな人のところに行っちゃった。お父さんは私たち家族のなかで一番しっかりしているように見えて、理想の父を頑張って維持していただけなのかも。お父さんは全てが想定外の方へ向かってしまって自暴自棄になっていたのかもしれない。今でもなんで離婚しちゃったのかわからないけど、お母さんはわかっていたのかな。離婚が成立して、お父さんはその人と再婚して、お母さんも私のススメで彼氏をつくった。私が20年弱暮らした実家には誰もいなくなっちゃったんだよね」

どんなに深い絆で結ばれていても、どんなに同じ時を過ごしても、夫婦は他人で始まり、他人で終わってしまうこともある。出会う前と離れた後の人生が交わることはほとんどないことも多いだろう。

「お父さんとお母さんがもう一緒にいることはないと思うとすごくせつない。あんなに仲良かったのになんでだろうって今でも不思議に思うよ。私もお父さんが再婚した時点で、お父さんとは縁を切ろうと思っていたんだけど、ちょうどその時、大好きだったおじいちゃんが亡くなって。死んじゃったらもう二度と会えなくなっちゃうんだって思うと、後悔しそうだなって素直になれた。今でもたまにお父さんに誘われれば、海斗連れて会いに行ってる。新しい奥さんも優しい人で、お父さんにとってはこれでよかったのかな、とも思う」

再生、新しい家族のはじまり

両親の離婚を受け入れてから、美菜子は自身の離婚に向けての準備を進めた。母の紹介で出会ったファイナンシャルプランナー(FP)の女性に、将来必要なお金など現実的なことを相談。手に職をつけようと、それまで趣味で友だちに施していたネイルの勉強を本格的に始め、資格を取り、仕事にした。同時にパートで映画館でも働いた。

そしてある程度軌道に乗ってきた23歳の春、海斗が小学1年生の時、達也と離婚してシングルマザーとなり、アパートを借りて海斗とふたりで暮らし始めた。

「それまでは海斗のために離婚はよくないと思って耐えていたけど、重荷がなくなって、人生が開けた感じだった。私は海斗がいるだけで幸せだーって思えた。海斗も小学生になって、姉弟みたいな感じで、笑いのツボも合うし、ふたりでいるととにかく楽しかった」

当時離婚相談に行ったFPの女性の事務所で、後にパートナーとなる康介さんと出会っている。岐阜にあった康介さんの勤め先でもあるその事務所に愛知から出張ネイルをするため美菜子は頻繁に足を運んだ。美菜子の離婚が成立したのち、自然と恋人同士のような関係性になっていった。と言っても、一緒に出かける時には当たり前のように海斗も連れていった。それでもはじめはぎこちなかったと振り返る。

「はじめて一緒に遊びに行った時、海斗には特に何も伝えず、こうくんと車で、滝を見に行ったり流し素麺したりしたの。こうくんははじめからかわいがってくれたけど、海斗はすごいぎこちなかったね。私がこうくんとふたりで喋っていただけであからさまに不機嫌になって。わがままも言っていた。まあ、嫌だよね」

美菜子は康介さんとの交際よりも、海斗の気持ちや海斗と一緒に過ごす時間を優先したいと思っていた。康介さんは母である美菜子を好きになったから、海斗が一緒にいることは当たり前のことだったと振り返る。当時は結婚なども特に意識することもなく、その時の恋愛を楽しんでいただけだった、と。

康介さんが恋愛から結婚へ、美奈子との関係性を進めたいと思ったきっかけはある事故にあった。康介さんは、美奈子と海斗を迎えに岐阜から愛知へ車で向かう途中、交通事故に遭った。大事にはいたらなかったものの、病院に運ばれ、頭を7針縫った。知らせを聞いた美奈子はすぐに病院に駆けつけていた。

「彼女が病院に付き添ってくれて、かけてくれる言葉や対応がすごく優しくて、本当に心が温かい子だなあと思った。そこですぐに結婚を意識したわけではないけど、長く真剣にこの子と付き合っていきたいな、と。この事故がなければ、疎遠になっていたかもしれないね」

康介さんは当時のことをそう振り返る。美菜子にとっても、康介さんは長く寄り添いたい頼れる存在となりつつあった。

「事故をきっかけにこうくんは私たちとの将来を本気で考えてくれた。私もだんだん海斗のためにもお父さんはいたほうがいいんだろうなと思えてきた。こうくんの傷が回復してから、海斗はお母さんに預けて、初めてふたりで鳥取・島根に旅行へ出かけた時、当時はノリでしかなかったけど、わざわざ近くの市役所に婚姻届をもらいに行って出雲大社で書いたんだよ(笑)。結ばれるかもねって。実際にその婚姻届を出したのは3年後だったけど」

結婚を意識してから入籍するまで、ふたりは海斗のことを考えて、たくさんの話し合いを重ね、ゆっくり関係性をつくっていった。出かける時は基本的に3人で、康介さんと海斗がふたりで遊びに行くこともあった。ふたりで行ったテーマパークではまったゲームのことを海斗は今もはっきり覚えていて楽しそうに振り返る。初めはぎこちなかったふたりも男同士、一緒に遊ぶことで打ち解けていった。

慣れてきた頃、美菜子のアパートで康介さんが一緒に暮らすようになった。それでも康介さんは1時間以上かけて美菜子の地元・豊川から勤務先の名古屋に通い、帰りも遅く、土日休みではなかったため3人で過ごす時間が増えたわけではない。半年後、康介さんは名古屋に3人で引っ越すことを提案し、説得する。美菜子と海斗には抵抗感があった。

「海斗は当時小3で友だちもたくさんできた頃。環境を変えたくないって思ったし、私も不安だった。海斗も嫌だって泣いてたから、その姿見て私も泣いた。こうくんの長時間通勤も限界だったから、引っ越しは仕方なかったんだけど。振り回しちゃったね」

家族がいたから母になれた

27歳、春。海斗の4年生の進級に合わせて生まれ育った豊川から名古屋へ引っ越し、その1ヶ月後に入籍。美菜子は康介さんと海斗と3人で新しい家族を築いた。

同じ県内とはいえ、知らない土地での生活にはじめは慣れず、海斗は何度も「帰りたい」とこぼし、その度に美菜子も胸が締め付けられた。

「はじめはリズムが掴めなくて、親も友だちも近くにいなくて心細かった。海斗にも申し訳ない気持ちがあった。海斗がこうくんにきつくあたることもあったし。こうくんは海斗のお父さんになることを意識して努力をしてくれてるのに、ぶつかることもあった。こうくんにはこうくんの育ってきた環境があって、私とは違うから、海斗の育て方について対立した時に、私のほうが海斗を見てるしって気持ちが出ちゃったりした。私も余裕がなかったんだね。

こうくんが海斗に何かしてくれた時に『ありがとう』って言ったら『ありがとうなんて言わなくていい。当たり前のことだから』って怒られたことがあって、自分の子どもだったらたしかにそうかってハッとした。私たちは家族なんだって」

海斗は小学校の卒業アルバムの文集に「行きたくはなかったけれど」というタイトルで名古屋へ引っ越してきたことについて作文を書いた。その文集と一緒に、同級生からのメッセージが詰まったカードをたくさん持って帰ってきた。

かいとは、四年生のときにきて、すぐに人気者になってすごいと思った。

クラスではいつも明るくて楽しそうだね。みんなにおもしろい話をしてくれてみんなも楽しそうだよ。たくさん笑わせてくれてありがとう。

かいとはとっても優しいよね。

「海斗は親の事情で保育園も転園して、小学校も転校して、家族も落ち着かなくて、これまでの12年間散々だったと思う。名古屋への引っ越しは卒業文集に書いちゃうくらい嫌だったんだね。それでもグレずに毎日学校に通い、ちゃんと友だちをつくって帰ってきて、大きな病気や怪我をすることなく、よくぞここまで育ってくれましたと本当に感謝してる」

結婚して3年。海斗は中学に入学し、野球に夢中になっている。美菜子はネイルの仕事が軌道に乗り、縁あって自分のお店を開いた。家族で過ごす時間も増えた。康介さんが仕事休みの日曜は基本的に家族で過ごす。月1回はお互いの実家に行くことも欠かさない。

康介さんがアパートに来た時のことを尋ねると「別に。どうせいるだけだし、放っておいた」とこぼしていた海斗にとって、康介さんは「お父さん」になりつつある。野球部に入ったのも学生時代に野球をやっていた康介さんの影響だ。部活から帰ってくるなり康介さんに野球の話をし、時間があればふたりでキャッチボールをし、部活のない休日はドームに野球観戦に出かける。

ある日、親の身長を入れると自分がどれくらい伸びる可能性があるかがわかるアプリを見つけた海斗は、自然とそこに美菜子と康介さんの身長を聞いて記入した。

「親は私たちふたりだと思っているんだーって嬉しかった。その結果は正しくないけどねって思ったけど黙ってた(笑)。今は頭の中の95%が野球。ご飯を食べる時もお風呂に入る時もボールを離さない。部活から帰ってきても体力有り余っていてキャッチボールしたいとか言うから、こうくんがいてくれて本当に助かってる。私じゃ応えてあげられないもん。これまでは1対1で、海斗もママ大好きって感じで、恋人みたいな姉弟みたいな関係でなんとかなってきたけど、今は思春期で反抗期も始まっているしね。こうくんがいて、そういう話をできるのはありがたいよ。これからもっとそういう場面が出てくると思う。私にできることはどんどん少なくなってるね」

母になって13年。美菜子にとって「母になる」とはどういうことなのだろう。

「私はずっとわがままな母だったと思う。海斗を産んでから、人から見たら私は"お母さん"なんだけど、一応意識もするけど、よくわからない。いつまでたっても自分が"お母さん"だということが。わからないまま、親がやってくれたことを思い出しながら、海斗とただただ一緒に過ごしてきた感じだね。私は立派な母じゃないけど、海斗がこうして育ってくれたから、母になれているのかな」

離れ離れになることもある家族だから

あと4年もすれば海斗も美菜子が彼を産んだ歳になる。海斗は海斗の人生を歩んでいくことになるのだろう。

「これまで私の中心に海斗がいたけど、この前学ラン着てる姿見て、どんどん大人になっていくんだなあということを実感した。ずっと一緒にはいられないかもしれないと思うとすごい寂しい。でも海斗には海斗の人生があるから、子離れもしないとね。考えると寂しすぎて、最近こうくんと子づくり始めたよ。子どもは授かりものではあるけど、家族が増えたらいいなって。

それまではふたりの子どもが産まれたら、こうくんが海斗のことかわいくなくなっちゃうかも、変わっちゃうかもってちょっと怖かったんだけど、今はそういう感情もない。30歳になってようやく落ち着いて、しあわせだって思える。ここから何か起きるんじゃないかって不安になるくらい穏やか」

家族のしあわせがこれからも続くように、海斗や康介さんと会話や同じ時を重ねていきたいと美菜子は言う。

「今は海斗が帰ってくる時間にできるだけ家にいて、話したい時に話を聞いてあげられる環境をつくろうと思ってる。これまで海斗は保育園もお迎えが最後で、小学校も鍵っ子だったし、寂しい思いもさせちゃっていたと思う。経済的にも精神的にも私に余裕がなかったけど、今はこうくんがいてくれるおかげで仕事も調整できるし、心穏やかにいられる。

お父さんと私みたいに話せなくなるのは嫌だなあって思うから。なんで20年も一緒にいた家族が一瞬でバラバラになっちゃったのか、いまだにわからないまま、もう戻れなくなっちゃった。そうはなりたくないから、こうくんとも海斗ともちゃんと思ってることを伝え合って、家族の時間を大事にしていきたいな」

"お母さん""お父さん"である前に一人の人間だから、それぞれの感情やそれぞれの人生がある。血がつながっていても、どんなに同じ時を過ごしても、ずっと分かり合えないこともあるし、ちょっとしたボタンの掛け違いで、一瞬で崩れてしまうこともある。美菜子はそのことを知っているから、今目の前にいる自分の家族の手を離さないように、迷いながらも、必死に向き合っているんだろう。

私は美菜子の妊娠の話を聞いた当時、産まないほうがいい、堕ろすべきだと思っていた。高校を辞めて、子どもを産み育てるなんて、これからの美菜子の人生はどうなっちゃうんだろう。自分とは違う世界に行ってしまう気がして、不安だったのかもしれない。

海斗が生まれてその生命をこの腕に抱いた瞬間からその思いはかき消された。それでも、家族の問題で衰弱する美菜子を前に、10代20代で美菜子はなんでこんな大変な思いをしなくちゃいけないんだろうと、経験していない私は理解することもアドバイスすることもできなくて、ただただ話を聞きながら何もできない自分がやるせなかった。

美菜子は海斗のことを考えて、一つひとつちゃんと乗り越えて「母」になった。

今ははっきりと思う。美菜子に海斗がいてくれてよかった。美菜子の人生にあの時、海斗の命が宿ってくれてよかった。美菜子が産むことを決め、育ててくれてよかった。

「海斗がもしいなかったら私の人生どうなっていたんだろう。想像ができない。海斗がいたからネイルも始めたし、お客さんとも自分の経験から話ができる。こうくんとの結婚も、私の人生のすべての選択に海斗がいた。海斗がいない人生は考えられないなあ」

美菜子の心には今、この世に生まれることができなかった「小さな命」が刻まれている。

「最近お客さんから、妊娠したけど彼氏に伝えたら拒否されちゃって堕ろしたって話を聞いてすごく悲しくなった。昔、若くして妊娠した友だちにも相談されたけど、結局その子も家族に反対されて堕ろしちゃった。すごい無力感。私に伝えられることがもっとあるはずなのに」

現在日本で行われている人口妊娠中絶は年間20万件ほど。生まれてくることができなかった命の数だけ、女性とその家族の事情があるのだと思う。

出産や子育ては女性ひとりで決断してできるものではなく、家族や周りのサポートが必要になる。予期せぬ妊娠を前にした、堕ろす決断と産む決断。どちらも決して簡単にできるものではない。

「私は自分で決断したというより、親や周りの環境が大きかったね。産んでからも私が若くて頼りなかったから、親とか友だちとかも一緒に育ててくれて、私も海斗も幸せ者だよ。環境に恵まれたおかげでここまでやってこられた。今はこうくんもいてくれるしね」

いつどんな時だって、周りの愛情を受け止める豊かな感受性とチャーミングな笑顔を携えて、自分が置かれた環境とその人生と向き合ってきた美菜子。そんな美菜子を私は、友人として、母として、心から尊敬する。

「私は全然すごくないよ。何事も割りとポジティブに捉えられる、そういう性格に育ててくれた両親に感謝だね。私も親がしてくれたことは、海斗にもしてあげたいと思う」

両親が新しい家族を持ちそれぞれの人生を歩んでいる今でも、20年間ともに過ごした家族の存在は美菜子のなかに色濃く刻まれている。今は離れ離れでも、美菜子が両親に愛されて育った日々の記憶は消えない。家族は築いても、壊れてしまうこともある。それでもその時分かち合った幸せや与えられた影響は心の奥底に残り続ける。家族と過ごす日々は、儚くも、揺るぎない。

「家族のかたちに正解があるのかはわからないけれど、いつか海斗が私たちふたりの子どもでよかったと思える日が来るように、家族の時間を過ごしていきたい」

美菜子と康介さんと海斗。3人の家族の物語はまだはじまったばかり。お互いを思う気持ちを忘れずに同じ時を過ごしていけば、その"いつか"はきっとやってくるだろう。その日を楽しみに、この家族の物語の続きを、そばで見守っていきたいと思う。

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