誰かを完全に理解するなんて無理。仮面をかぶって生きてもOKじゃん。平野啓一郎さんと話したらラクになった。

小説「ある男」から感じた、ネット時代特有のフシギな不安感
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kimix

「結婚なんて、できるわけない」と嘆く友人がいる。

聞けば、「結婚してもしなくてもいい時代にわざわざ結婚するとして、心からわかり合えるたった1人を選ぶ自信も、確信もない」という。

既婚者の自分からしてみると「そんなに高尚なものじゃないよ」という感じもするものの、私は友人の不安を解消する言葉をうまく持ち合わせていなかった。

ここに、ヒントとなる言葉を与えてくれる小説家がいる。芥川賞作家の平野啓一郎さんだ。

最新作『ある男』(文藝春秋)では、大切な人のことを、本当はわかってないかもしれないという「漠然とした不安」をミステリー仕立ての物語で描いた。

ただでさえ、スマホやSNSから入ってくる情報が多すぎてガチャガチャしているこんな時代に、大切な人と健全な関係を築くにはどうしたらいいのか。対人関係のモヤモヤとどう向き合えばいいのか。小説『ある男』から浮かび上がるヒントとはーー

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ハフポストとdTVチャンネルのネット番組「ハフトーク」に出演した小説家の平野啓一郎さん
Jun Tsuboike/HuffPost Japan

インターネット時代の特有の不安感

「愛したはずの夫は全くの別人だった」——。小説『ある男』のキャッチコピーだ。

宮崎県に住む里枝は、不慮の事故で夫をなくしてしまう。一瞬で崩れてしまった幸せな生活。しかし、悲しみに暮れる間もなく、ふとしたことがきっかけで、亡くなった夫が、実は名前も過去も偽って生きてきたことを知る。里枝は弁護士の城戸を頼りに夫の秘密を解き明かそうとする。

1920年代に発表された江戸川乱歩のミステリ小説『パノラマ島奇談』など、夫だと思っていた人が実は「別人」だったという設定は昔からある。しかし『ある男』には、ネット全盛時代の今だからこそ、差し迫ってくるリアリティがあるように感じる。

平野さんは、ネットの登場が人の生活やものの感じ方にもたらした影響は、本当に「大きい」と話す。

《SNSが普及したことで、人が自分をアピールする手段は、かつてのような服装や車、職業などといったものから、SNSでの発信そのものに変わってきている部分があります。

タイムラインを遡れば、その人がこれまでどういう風に生きてきたかも知ることができる。人の過去の蓄積が可視化されていることが前提になっているのが今です。

SNSを見ればその人がわかるーー。他人を「ある程度わかっている」という状態が当然になるから、「相手のことがわからない」ということに対して、かつて以上に異様なことのように感じてしまう部分はあるんだと思います。

小説はどうしても時代の空気をまとう部分があるから、今のネット時代特有の不安感みたいなものは、おのずと登場人物の言動にも反映されていると思います。》

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『ある男』(文藝春秋)

誰といるか次第で、自分は変わる。それが当たり前。

ネット時代にはびこる独特のモヤモヤや行き詰まり。冒頭の友人の言葉も、こうしたところから生まれているのかもしれない。

ここに"補助線"を引いてくれるのが、平野さんが唱えてきた「分人主義」という考え方だ。

「分人」というのは、「個人」をさらに細分化した人間の「最小単位」を表す言葉。「個人」という呼び名で括られる自分の中にも、状況によってその都度キャラを変えながら生きる「多種多様な自分」がいるという考え方だ。

平野さんはいう。

《自分の中に複数の人格があるという状態は、長い間、"裏表がある"とか"二重人格"などといった具合に、ネガティブに捉えられてきました。

でも、みんな薄々気づいていることですが、人間というのは、対人関係ごとに、その関係性によって色んな自分になります。それを肯定的にネーミングしたのが『分人主義』です。

出発点として、コミュニケーションする相手ごとに違う自分なのはしょうがないこと。それなのに、どれが本当の自分でどれが偽りの自分なのか? ということを考え出すと、混乱するばかりです。

全部が本当の自分で、その中には、生きていて心地いい分人もあれば、そうじゃないものもある。

そんな風に、自分や他人を見ていくべきなんじゃないか、と思うんです。》

自分の中に「複数の人格」がいると認めることは、「絶対的な一つの自分」を求めてしまうマインドからの解放でもある。

エッセイ『考える葦』(キノブックス)の中で平野さんは、分人主義に基づいて、人間の恋愛感情をこんな風に整理している。

<人が、誰かを好きになる、というのは、実は「その人といる時の自分(=分人)が好き」ということである。他の誰といるよりも、その人といると笑顔になれる。快活になる。生きていることが 楽しい。人は決して、ナルシスティックに自分一人で自分を好きになることは出来ない。しかし、 この人といる時の自分は好き、と言うことは出来る。だからこそ、その相手を大事にする。いつまでも一緒にいたいと思う。

 I love you. の翻訳は、蓋し「あなたといる時の自分が好き。」ではないだろうか。>

こんな風に考えると、誰かに100%自分を理解してもらおうとしたり、100%相手を理解しなければならないと思う必要はないのではないか。

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ceciangiocchi via Getty Images

「愛したはずの夫は全くの別人だった」。

冒頭で紹介した『ある男』のキャッチコピーだ。夫が別人だと知った里枝や、彼女を助ける弁護士の城戸など、この作品には、自分自身や、愛する人の「本当のすがた」を探し求め、もがく人たちが出てくる。

登場人物に対して、彼らの生みの親でもある平野さんは「それでいい。全部わからなくても仕方ないよ」と優しく語りかけているようにも思える。

その眼差しを通して読者である私たちは、どこか気持ちがラクになっていくのを感じるのだ。

たとえば自分の愛する人が、想像していた人とは違う「別人」である瞬間があったとしても、それはそれで受け入れられるのではないか。家庭では、オフィスと違う仮面をかぶっていたとしても、ある意味自分らしく生きていることになるのではないか。冒頭に紹介した、結婚に躊躇している友人も、そこまで難しく考えなくて良いのではないか——。

小説を読み終わり、平野さんの話を直接聞いていた1時間。その間の「分人」としての私は、少なくともそんな思いを抱いて、気持ちを落ち着かせていた。