元慰安婦の方たちとの出会い

私は元慰安婦に会いたいと頼んだ。そして市内のあるホテルで元慰安婦の方たちに会うことができた。その出会いは私にとっては緊張に満ちた体験だった。
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■元「慰安婦」の方たちとの出会い

慰安婦問題を改めて論じようと思ったのは、『帝国の慰安婦』にも書いたように、日本政府がいわゆる佐々江案を提案し、韓国政府が支援団体の反対を気にして拒否した2012年の春である。

もっとも、慰安婦問題に対する私の考えの概略はすでに『和解のために』の中で書いていた。そういう意味では、あえてまた書くべき必然性はなかった。

しかし、日韓両国民(若しくは左翼と右翼に)に向けて意見を提示した『和解のために』は、日本では過分な評価を得たが、韓国(支援団体)ではメディアの好意的レビューを得ながらも当事者周辺の人たちには黙殺された。

そして、2010年代に入ってから、挺対協の少女像建立と李明博元大統領の竹島訪問以降、両国のメディアには露骨な嫌悪と憎悪が溢れるようになっていた。

なにより、大人の主張を信じるほかない若者たちが、傷つき敵愾心を募らせつつあった。私は、それまでの四半世紀以上に深刻な四半世紀を、目の前に見る思いがした。

そこで、帰国後、時間を惜しんで執筆に励んだ。人に会うことさえできるだけ減らした。一冊の本が世の中を変えられるとは思わなかったが、小さな声が別の声と出会うためには、まずは静かな湖に石を投げなくてはと考えた。

毎日のように何らかの日韓間の葛藤が報道されるような状況だったので、できるだけ早く書きたくもあった。怨恨を抱いたままこの世を去る元慰安婦の方が一人でも少ないこと願っていた。そして2013年夏、私は『帝国の慰安婦』を出版した。

『帝国の慰安婦』はいわゆる歴史書ではない。歴史との"向き合い方"について考えた本である。そのために必要な、最小限の「ファクト」について考えてみた本だ。

学術書の体にも作れる資料を用いながらも一般書の形式で出したのは、両国民が広く知るようになった問題である以上、アカデミズム内の議論だけでは、この事態を乗り越えられないと考えたからである。

追われるような気持ちで本を出してから、私はその秋から元慰安婦の方たちに会うことを始めた。執筆中に会わなかったのは、20年も前の古い証言集の方こそが、慰安婦をめぐる状況を豊かに示していると思ったからである。

そこには、イメージが単一化される以前の、「国民の常識」となり「国定教科書」的集団記憶になる前の、「女たちの話」があるがままに残されていた。

私は証言集に残されていた、そうした女性たちの声に耳を傾け、それに基づいて「朝鮮人慰安婦」がどのような存在であったかを考えた。結論として、アジア女性基金事業の終了とともにこの問題を忘れていた感があった日本に向けて、新たな謝罪と補償が必要と書いた。

どういった形が良いかは、当事者も含む協議体を作って議論し、この問題について国民に広く知ってもらうようにメディアの参加も得ての解決が必要とした。

日本版では国会決議が必要とも付け加えた。しかし、証言集のみに依拠しての結論だったので、私には「今、ここ」を生きている元慰安婦の方たちに会う必要があった。

慰安婦問題発生初期から元慰安婦たちのために尽力してきていながら、アジア女性基金関係者ということで挺対協から敵対され、入国禁止にまでなった日本の女性ジャーナリストがいた。

『和解のために』でそのことに触れたことが縁になって、私はその女性と会うことにもなった。その人は基金解散以降も続いた、日本政府の予算で行われた元慰安婦のアフターケア事業にかかわっていた。

そこで私は、その女性がまたソウルを訪問した時、元慰安婦に一緒に会いたいと頼んだ。そして市内のあるホテルで元慰安婦の方たちに会うことができた。中には、証言集で口述を読んだことのある方もいられた。

その出会いは私にとっては緊張に満ちた体験だった。「和解のために」を出した後でもあり、10年前とは状況も気持ちも変わっていた。本を書いたことは元慰安婦の人生や歴史や現在の政治にコミットしたことでもある。私には書いたことに対する責任があった。

自分の分析が間違っているとは思わなかったが、私の知らない歳月、私の知らない辛酸を極めた体験に向き合うことは、緊張を要した。

その日、私は元慰安婦の方たちから主に日本の謝罪と補償についての考えを聞いた。体験を一部聞きもしたが、個々の詳しい体験を聞くことは控えた。

慰安婦問題の専門家になろうとも思わなかったし、新たに本を書く気持ちもなかったからである。私ひとりのために、苦痛の記憶を思い出させる権利はないとも思った。

そして、意外にも最初の出会いの時から、私は彼女たちが望む謝罪と補償が、支援団体が語ってきた主張とは異なることを知った。その後自宅に出向いてお会いした他の方も同じだった。

その方は、「強制的に連れて行かれた」体験を繰り返し語る方だったが、それでも「法的責任」の要求などは要らない、補償金を受け取れればいいと述べた。

驚きはなかった。すでにアジア女性基金を巡っておきた分裂と葛藤を知っていたので、そうした声の存在は十分に予想できることだった。

同時に、そうした声があるという理由だけで、長い歳月の間、この問題を様々に研究し考え、解決のために頑張ってきた支援者たちの考えが、当事者でないという理由だけで無視されるべきとも思わなかった。

長い歳月を当事者たちを支えてきた支援者たちは、半分当事者のようなものと考えたからである。

重要なのは、そうした声がこれまで「聞こえてこなかった」ということだった。私はそのことを再確認しながら、『和解のために』と『帝国の慰安婦』にを通しての私の試みが無力だったことを知った。

本を書いた重要な目標の一つは、この問題に関する元慰安婦の「もう一つの声」を伝えることだった。しかし、私の試みは依然として失敗したままだった。元慰安婦たちとの出会いは、わたしにはそう気付かざるを得ない時間でもあった。

その他の元慰安婦の方たち会うには、挺対協やナヌムの家を介さなければならなかった。すべての個人情報は支援団体が持っていたからである。

しかし、水曜集会に参加してきた私の教え子は、元慰安婦の方たちとは話すどころか接近さえできなかったと言った。元慰安婦が外部の人に会うことを極力避けているように見えたとも言った。

挺対協に私が直接連絡をとらなかったのは、挺対協が私を『帝国の慰安婦』刊行直後に早くも訴えようしていたことを知っていたからである。

本が発刊されて間もない頃、挺対協関係者が弁護士を呼んで私を訴えるべく相談したことを、私は二つの経路から知った。しかしこのとき相談した弁護士は、告訴に対して否定的だったと聞く。

ところが、2016年3月、私への起訴に抗議する声明を出してくれた日本の学者たちが開いてくれた討論会に出された李ナヨン教授の資料には、元挺対協代表の鄭チンソン教授と私の本をめぐって相談し、対応するだけの「価値がなかったため」対応しなかったと記されていた。

どちらが真実か、私は知らない。確実に言えるのは、最初の告訴状で指摘された100箇所以上の本の抜粋の中には、挺対協に関する記述が少なくないということである。

『帝国の慰安婦』は挺対協批判でもあるのだから、関係者たちの戸惑いも理解できないわけではない。私への告訴に踏み切ったのはそれから10ヶ月後のナヌムの家であり、挺対協が実際に関与したのかどうか、関与したとしてどのくらい関与したのかこれもまた私にはわからない。

しかし、仮処分と損害賠償裁判に出された原告側の書面と資料にあったのは、運動家と学者の顔・意見そのものだった。私の本を「虚偽」とみなすべき「証拠資料」として出されていた多くの資料が20余年の挺対協の活動のたまものであることは間違いない。

国連報告書の類は言うまでもなく、そこには河野談話さえ入っていた。慰安婦問題を否定する人たちを批判するために用意された全ての資料が、今度は私に向けて出されていた。現在進行中の刑事裁判でも、まったく同じ資料が提出されている。私を訴えようとした挺対協を介して元慰安婦の方たちに会うのは不可能にみえた。

そこで、私はもう一つの支援団体(福祉施設)であるナヌムの家に連絡した。挺対協と違ってそれまでは自分たちの考えを積極的に外に出すような活動をしてなかったので、考えを聞きたかったからでもある。

始めて電話で繋がったナヌムノ家の所長に、学期中でソウルから離れているナヌムの家まで行く時間がまだなかなか作れないので、近々ソウルに用事がある時は連絡してほしいと頼んだ。はじめ所長は、私に丁重に接した。

そしてある日、私の方でナヌムの家に行けそうだと電話で話したとき、当日自分は不在だが、事務局長と話したらいいと言ってくれた。

そこで私は、11月末のある日、先の日本人女性ジャーナリストと一緒にナヌムの家に行った。ホテルで会った方のうちのひとりがナヌムの家で暮らしていたので、その方とは再びの出会いとなった。

■ペ・チュニさんとの出会い

多くの学者が関係している挺対協も、私を告訴するつもりでいた。その考えが、本に対する反感によるものなのは確かだ。とはいえ、本そのものだけを原因として告訴を検討したという点では、まだよかったと言うべきかもしれない。

挺対協ではなくナヌムの家が、そして発刊直後ではなく10ヶ月も経ってから告訴に至った背景には、私とハルモニたちとの交流がある。そうした意味において、私が再びナヌムの家に行かなければ、告訴されることはなかっただろう。

また、その間に出会ったハルモニたちの声を社会に伝えるためのシンポジウムを翌年の春に開催しなければ、そしてそのシンポジウムについて日韓両国のメディアが好意的に注目することがなければ、告訴されることはなかったはずだ。

この告訴は、そうした意味において、本そのものが問題となった告訴ではない。私に対する警戒心が、私を告訴させた 。

つまり、支援団体の考えと異なる考えを有するハルモニと私が出会ったことが、告訴の遠因となった。原告側が私を警戒し危険視したということは、告訴状のあらゆる箇所に現れている。

支援団体は、彼らの主張と運動を私が妨害していると考えた。それだけではなく、ナヌムの家や挺対協に対する、一部のハルモニたちの不満を私が知ったことも、彼らが私を警戒したもう一つの理由だったのだろう。

だから、私はまず関係者たちに言いたい。私には関係者たちの長年にわたる苦労を貶めたい気持ちはない。長年続いた活動に、ましてや多くの人が集まって決めていく行動に、間違いがないはずはない。

だが、一つの方針を決めるためにはそのつど数多くの議論と悩みが存在したはずであり、(2016年9月4日に一橋大学で発表された山下英愛さんの発表資料、「日本軍「慰安婦」問題とオーラルヒストリー研究の・への挑戦」を読んで、私は活動家たちが証言集を作りながら、いろいろ思い悩んだことを知った )そうした苦悩と議論の時間に敬意を表したい。

また、運動を成功させるのための、私のあずかり知らぬ努力と涙にも。

しかし、同時に、私を訴えたナヌムの家の嘘と暴力を、学者や運動家など関係者たちが2年以上放置してきたことに対して深く失望せざるをえない。

検察が主導した調停委員会の調停過程において、私は、ナヌムの家から言われた、元慰安婦の方々への謝罪も考慮に入れていた。しかし同時に、支援団体も私に謝罪してほしいと私は要請した。それは、こうした思いからである。

告訴自体も納得できなかったが、告訴以上に、原告側による、「朴は、`慰安婦は自発的売春婦`と主張した」との枠組みのせいで私に浴びせられた、全国民的な非難と性暴力の欲望までも示していた罵倒を、女性の人権団体を標榜する支援団体が傍観し沈黙していることが、私には長い間信じられなかった。

20年以上慰安婦問題に関わってきた人たちのうち誰も、私に対する告訴を取り下げるようにと声をあげた人はいない。そのことは私自身のためにも悲しいが、こうした状況が昨今の韓国の問題的状況と無関係とは見えないことこそが、私には悲しい。

関係者たちはともすると政治家や経済人たちを非難するが、時に倫理をかけ離れる行動をするのはそうした人たちのみではない。どうしてそうなるのかについても今後書いていきたいとも思っている。

ナヌムの家には、日本政府が90年代に謝罪と補償のために設立したアジア女性基金関係者でもあった日本人たちとともに赴いた。彼らは、日本政府の予算でハルモニたちを温泉に連れて行ったり、料理をご馳走したり、お小遣いを差し上げていた。そのために年に何回か韓国を訪問しているということだった。彼らと知り合ったのは日本で「和解のために」の日本語翻訳本が出てからである。

訪問の前日、ナヌムの家の所長に連絡すると、自分は所用で不在だが事務局長に会えばいいと言われた。そのため、私は初めて訪ねた日、謝罪と補償に関するナヌムの家の考えを事務局長から聞いた。そしてナヌムの家が挺対協とは異なる考えを持っていることを知った。

彼らは、自分たちは当事者を中心に解決するつもりであり、「法的賠償」ではない、調停を引き出せる裁判をアメリカで始めると言った(その後、本当に起こし、一審では負けたと聞く)。そして、この裁判に賛成するという意味でハルモニたちのはんこが押印された書類も見せてくれた。

そしてハルモニたちがいる建物に移動し、ホテルで出会ったユ・ヒナム ハルモニやほかの数人の方たちとしばらく話しあった。ハルモニたちが10人暮らしているということだったが、その場には全員はいなかった。体調が優れないため、と事務局員が説明した。

そして車に乗って食事の場へ移動した。ハルモニたちはお寿司が好きだというので、わたしたちは日本料理店に向かった。そしてそれぞれいすに着いた時、偶然向かいに座った方が、後に深い交流をすることになるペ・チュニさんだった。ペさんとは、食堂に行くまえにナヌムの家の居間で顔は合わせたが、話はしていなかった。

ぺさんが私たちと一緒に座ったのは偶然だったのだろうか。この頃は知らなかったが、ペさんは日本が好きだった。そのために最初から日本人のいる席に座ろうとされたのかもしれない。ともあれ、ぺさんの隣に日本人が座ることになり、私たちは自然に日本語で話した。映像からもその姿を確認できるが、ぺさんは時々周りの人たちを意識した。

ぺさんは開口一番、興味深い話をされた。話が進み、日本を許したいと仰った時、私は許可を得て携帯電話のカメラで録画を始めた。

私はこの日の映像を、翌年ぺさんが亡くなった直後に「ぺさんも国家賠償を求めていた」とナヌムの家の所長が話している報道を見て、フェイスブックに公開した。2014年6月10日のことである。ぺさんに不利益があるかもと考えて、それまで公開しなかった映像だった。

この映像の中でぺさんが語った話を、そのフェイスブックから転載しておく。

「この話が入ったら。。。だが、この話が入ったら、それこそ敵は百万、こっちは一人、そういうことになるわけ」

ぺさんは、具体的な話の前に、自分の話がナヌムの家の他の人らに知られることを恐れた。長い年月を共にしてきた人たちを「敵」と言わせた心理は何だったのだろうか。それは必ずしも敵愾心から来た表現ではないはずだ。それはただ、自分の考えをあるがままに表現できなかったことに対する絶対的な孤独を表したかった言葉であろう。

ぺさんは続けて、日本を許したいと話した。私はなぜそう思うようになったのかと聞いた。

「いや、思うって、うちは仏教で、あの世の事、この世の事、ずっと聞くでしょう。ひとがこの世に来て、何か一ついい事しないで、そのまますっと帰るというのはあれだし。うちが一人だったら、許せば、許して、うちがこっちでこういうこと、あういうことあまりしないとかね、それで黙っていたら、むこうは何かが他の、何かほかのお礼を返すかも知らん」

ぺさんは、初対面の私に、韓国の運動のやり方に対する批判を始めた。それはなぜだったろうか。ぺさんは、他の人たちにもこうした話をしたことがあるのだろうか。

もしかすると、それは「日本語」だったからこそ声になった話だったのかもしれない。ぺさんの、ただならぬ話が「日本語」で話されたことの意味を、第3章で改めて考えたいと思っている。

「こういう相談する人もおらんし、ひとりでテレビを見ながら、ひとりで考えるわけ。だから、一生一代ね、この世に産まれてきてね、いいことするのね、一人だったらできるけど」

ぺさんは90年代からナヌムの家にいらっしゃると聞いた。ぺさんがこうした話をあまりしなかったとすると、長い年月の間、「ひとりで」心に抱いて過ごしたということになる。重要なのは、ぺさんが、許しという、生前に伝わることのなかった日本への思いを、「良いこと」と認識していたことだ。

「だから、こっちも言ったのね。それもらってあの世に持っていくのかって、冗談で言うわけやん。

にこにこ笑いながら、あの世に持っていくの?ってね。すると自分の子供らにやるってね。親だからね。

その欲まで持ってくのかと思って黙っていたの。何も言わないで」

他の慰安婦の方たちを批判しているようだが、それは「親」ゆえのことと、ぺさんは理解していた。ぺさんが語る、元慰安婦の方の考えと態度の差異は、その方たちが、世間から見られようなただ透明な存在にとどまる存在ではないことを示している。それは、当たり前のことでもある。

私が「帝国の慰安婦」の中で(無垢で透明な)「少女」や「闘士」としての慰安婦像を批判したのも、こうした理由からだった。1990年代に試みられた日本の補償以降に起こった元慰安婦たちの分裂と支援団体の葛藤を知っていたからでもある(『和解のために』2章)。

日本人支援者たちの中には、元慰安婦の方たちをただ無色透明な存在とみなす方たちが多いようだ。その分、強い感情移入も見受けられる。

支援者の態度がどうあるべきかについての考えは、2009年に執筆した論文で述べた 。(<「あいだに立つ」とはどういうことかー「慰安婦」問題をめぐる90年代の思想と運動を問い直す>、インパクション)

例えば、少し前に北原みのりさんが、ナヌムの家の所長の話を信じて私を非難したのも、そうした心理の結果であろう。

補償に対する元慰安婦たちの考えをただ欲深いとのみすることはできない。ぺさんがそうした考えに距離を置くことが出来たのは、仏教徒としての心得の結果だったようだが、家族がいなかったからかもしれない。

こうして、私は、「帝国の慰安婦」を出した後の2013年の秋に、世の中に知られているのとは必ずしも一致しない考えを持つ元慰安婦の方に出会った。

「なんで、あれ送れないのかといって、もうしゃべるでしょう。しゃべったらうちは黙っているでしょう。あなたは日本人がそんなに好きなのかって言うわけ。日本人のお客さんが来たら好きでしょう!って。それで言い返すわけ。

うちは何も言わないで、黙ってテレビだけ見るー

いや、黙ってテレビだけ見て、自分たちは(日本人の)ワルグチいって、うちも一緒になって言ったらいいけど、言わないでしょう。言わないから、みんなうち一人を注目するわけ。

いやっていうのは、テレビ見ても、お金のこととか、そういう、あの、首相が出て来てもうちは黙っておるでしょう。

だから、一緒になってワルグチ(いわないのが行けないの。)

悪口言ったらいいのに、黙っているの見ていたらね、わたしとかね、自分の、、に言ってるわけ」

ぺさんは日本のことが好きだった。日本からの解放以降も日本に赴き、30年ほど暮らし、80年代に帰ってこられたようだった。言うまでもなく、長く住んだからといって必ずしもその地域に愛着を持つわけではない。

この時の対話の後、ぺさんは時々私に電話をかけてきた。話が進むにつれ、私はぺさんが北朝鮮や中国を嫌っていることを知り、中国から帰ってこられた別の元慰安婦の方を嫌っている理由も、それ故ではないかと考えた。

ぺさんは、独立以降の冷戦体制を生きてきたほとんどの韓国人と同じように、冷戦後遺症を深く内面化させていた。

ナヌムの家は日本に対する好感を公けに表してはならない場所だった。しかし、ナヌムの家の建設には多くの日本人が寄付を行い、常住するボランティアたちの多くは日本人だった。

にもかかわらず、そこでは表面的な敵対と実質的な好感が共存することはなかった。表面的な敵対が、感情配置において優位に置かれる構造の中で、ぺさんは孤独だった。

「そう、うちは仏教。家の中でも、他の人は仏教って、あの、何か、、、したから、

、、、だけで仏教じゃないの、他の人たちは。

その、クリスチャンが四人おるわけ。心から徹底して、『うちはなんでもないです』っていって、でもうちら、お寺に寄付やったことでわかったわけ。あ、あのおばあは仏教だなってそういうことわかったけど、その金をうちがね、ちょっとだけ服やらあったらね、たくさん要らないし、まぁ、他の人は親がなくなっていないけど、うちはその金を仏様にあれしたほうがいいなと思って、お寺に寄付したほうがいいなと思って、他のところより、お寺に寄付した。それで、気がさっぱりするもん。お寺の仏様に、何かあれに使ってくださいっていって寄付したわけ」

ナヌムの家のさんたちの間には、冷戦体制の後遺症だけではなく、宗教の違いもあったようだ。世間ではよくあるそうした差異も、ぺさんをより孤独にしたのかもしれない。

しかし、ナヌムの家は仏教団体が設立したところである。ナヌムの家に暮らしている尼さんとも仲がいいようだった。

ぺさんの孤独は、冷戦体制50年の後遺症が作り出したものだ。同時に、「日本」という名前から自由でなかった、独立以降70年間の韓国社会が作り出したものでもある。無論、その構造は韓国人が置かれている構造そのものでもある。

ぺさんは、「元慰安婦」という無色透明な抽象名詞を、それぞれ異なる顔を持つ、具体的な名前を持つ固有名詞に変えてくれた。同時に、そうした構造を今一度認識させてくれた。ぺさんの孤独はわたしたちみんなが作ったものでもある。

ぺさんとの交流は、そのようにして始まった。