"学ぶ者"がすべきこと "教える者"がすべきこと

日本の指導者で、学び続け、悩み続けて、考え続けている人は何パーセントくらいいるのだろう?

ものごとの全体像を捕らえて把握するという作業はなかなか厄介で、普通の人間はどうもこれが上手くいかず悩んでしまう。

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先日、今年の暮れ頃から日本を出発し、海外の活動地や国内の離島に順次赴く看護師たちに話をしたときに彼らの挑戦や成果に対する不安、またそれぞれの現在の葛藤を聞いていて思ったことがある。

結論からいえば、悩みすぎ、考えすぎ、期待しすぎということだ。

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何かに挑戦するときは、あまりに考えすぎると緊張し、硬くなる。これは肉体に限ったことだけでなく人生にも当てはまる。考えすぎたり悩みすぎたりすると、現状という時間に人生が張り付いてしまい、動けなくなってしまう。

何事も経験が大事だというけれど、このような時は経験がかえって足かせになってしまい、子どもの頃のように素直に前へ進めなくなってしまう。

何事も行なってみなければわからないのだから、行なってみるしかない。

誰でも経験上、自分の頭で考えた予想とその結果は今までの人生でも大きく違っているのが常なのだから、悩みすぎは禁物で、時間の無駄だ。

50歳を過ぎて思うのは、"何で私は未だにこんな位置に留まってしまっているのだろうか?"ということで、自分の人生に対してどうもしっくりきていない。

"もっと行けたんじゃないか?"と心がかしましい。

それでふと自分の人生を振り返ると、悩みすぎ、考えすぎた上に、だらだら過ごしすぎたと思い当たるばかりで、なんともやるせない気持ちになる。

だからせめて、ここから最後まで悩まずに、前へ前へ進もうと思っている。

神様が私の時間をまだ残してくれていたことに感謝するしかない。

もう一つどうしても気になったことがある。

それは期待しすぎということだ。

結果的に期待以上ということはありえるのだが、私の経験上は、普通の日本人看護師が、一年や二年の時間投下で海外でも国内で通用するようなスーパーナースに生まれ変わることは難しい。

でも、できないわけではない。しかし二年では時間が足りない。

もちろん私の元で本気でやってもらえれば、20歳代と30歳代の看護師ならば五年でスーパーナースになると思う。

私の言うところのスーパーナースとは、臨床能力が凄いということだけではなく、環境の変化や苛酷な状況下でも自己制御ができ、医師がいなくても患者の最低限の安全は確保し、必要があればその土地の行政や権威と折衝も交渉もできる、ということである。

さらに、なんといっても一番伝えるべきは、『医療は患者のためにある』という当たり前のこと(これをいつしか忘れてしまう医療者が多すぎるのが現実)と、常に一体化した医療人であるということだろう。

そう考えると、私の残された時間で、このようなスーパーナースをいったい何人世に送り出せるのだろうか?

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まあしかし、一年や二年でもしっかりやれば道筋が見えてくるとは思うのだが、後は自分でやらなければならない。人間、自分に甘いのでこれはなかなか大変だが。

私が現地で厳しくやっていると「親にすらあまり怒られたことがない」という言葉を、いまどきの日本の若い世代からよく耳にする。

何でも褒めればいいという人もいるけれど、私はそうは思わない。

欠点や異常な癖の修正は、それらの指摘や注意から始めなければならないことは自明だ。

物を盗んだ子どもに、"君にはすごくいいところがある"という前に、"盗んではいけない"と注意することが当たり前のように。

看護師という能力を本当に伸ばしたければ、どうしても欠点と癖の修正が必要になる。

それは看護師という職業が総合職であるという性質が強いからだ。だから、看護師の場合、人間力そのものを伸ばさなければならない。

ここが医師と違うところで、医師は長所の伸長に力点を置けばいいことが多い。それは医師は専門職という色彩が強いからだ。別に人格的に問題があっても、手術が上手い医者は結構いるということが現実なのだ。

今の日本に少なくなってきたのは、怒ってくれる人かもしれない。

だからといって、よくスポーツで殴ったりするコーチもいるが、あれはどうかと思う。

殴って上手くなるかな??

基礎ができている選手たちには絶対に、欠点を責めるよりも長所を伸ばしたほうが効果的だと思うが。

怒って気づかせ、褒めて伸ばし、寄り添って支えるということができなければならないと思う。そこではしっかりとした指導哲学や、方法論を自らに持っていなくてはならないと思う。

日本の指導者で、学び続け、悩み続けて、考え続けている人は何パーセントくらいいるのだろう?

私もこれからは指導が中心となっていくのだろうから、この辺をしっかり自覚していなければならないかもしれない。

教えるほうも、学ぶほうも、人間やはり生涯勉強ということだろう