高学歴女子が新・専業主婦を目指す時代

かつて斎藤美奈子は『モダンガール論』の中でこう言った。「女の子には出世の道が二つある。立派な職業人になることと、立派な家庭人になること。職業的な達成(労働市場で自分を高く売ること)と家庭的な幸福(結婚市場で自分を高く売ること)は、女性の場合、どっちも「出世」なのである」。
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かつて斎藤美奈子は『モダンガール論』の中でこう言った。「女の子には出世の道が二つある。立派な職業人になることと、立派な家庭人になること。職業的な達成(労働市場で自分を高く売ること)と家庭的な幸福(結婚市場で自分を高く売ること)は、女性の場合、どっちも「出世」なのである」。

「立派な職業人」とは古い言葉で言えばキャリアウーマン、「立派な家庭人」とはここでは、上昇婚で果たされるセレブな専業主婦を指す。この本が出たのは2000年。今でもこの命題は有効なのだろうか。

少なくとも高学歴女子に関しては、まず何をおいても「立派な職業人」になり「職業的達成」を果たすのが生きる道だという認識が持たれてきた。高い学歴の中で身につけた専門知識と技術を武器にキャリアアップし、結婚しても仕事をやめず家事・子育ては夫と完全分担。実現できるのはごく一部の人だとしても、結婚を志向する高学歴女子の目指すべき「理想」のライフスタイルは、こうしたスーパーウーマン的兼業主婦だった。

しかし最近、どんなにやりがいのある高い報酬の仕事に就き、夫が家事育児を分担してくれていても、「こんなに頑張ってどうするの。お金はそこそこでいいから精神的にゆとりのある生活をしたい」「もっと子供との時間がほしい」と思い始め、築いたキャリアを捨てて家庭に入る女性が少しずつ増えてきたという。

これは去年の海外(ニューヨーク・マガジンの連載記事)のニュースだが、紹介されていたのは「修士号を持ち、やりがいのある仕事に就いていた」女性で、「夫が出張の多い職場に異動になった」のをきっかけに、専業主婦になる決意をする。子供の問題やスケジュール調整に関する夫婦間の苛々が、彼女の選択を後押ししたという。

「私たちの世代は、女性も働くものだと教わって育ったので、働かない女性は時代に逆行しているように扱われてしまう。でも、なぜ私たちは女性らしく生きてはいけないの? 女性らしさを保ちながら男性のように生きるなんてことを、なぜしなければいけないの?」と、自分の選択について説明している。「女性らしく生きる」とは家庭に入ることを指す。

妻の収入が夫より低ければもちろんのこと、夫婦の収入が同じくらいでもどちらが仕事を辞めた方がいいとなった場合、妻が辞めるケースが圧倒的に多いだろう。妻が一家の大黒柱くらいでないと、夫が辞めることにはなりにくい。

それをフェミニズムは「せっかく築いたキャリアを捨てざるを得ないのは女の方。再就職したとしても生涯賃金が大きく違ってくる。これはジェンダー規範に覆われた社会のせい」として問題視してきた。実際そのことで残念な思いをした高学歴の既婚女性も、少なくなかった。

そういう「歴史」があるから、高学歴でおそらくフェミニズム的な教育もしっかり受けているだろう先の女性も、(仕事を辞めたことを)「なぜ~いけないの?」と妙に大上段な構えで問うているのだろう。けれども、その選択により「ハッピー」になった彼女の実感はたぶん「専業主婦になれてラッキー!」だ。そもそも今、家族四人を楽に食べさせていくだけの経済力をもつ男性は、アメリカでも少数派。そういう家庭に専業で収まり子育てに専念できるのはかなり恵まれている人、ということにもなるのだから。

「立派な職業人」か「立派な家庭人」か、ではなく、一旦なった「立派な職業人」の立場を捨てて「立派な家庭人」へ。

なんというか、女性の経済的自立を促してきたフェミニズム形無しですな‥‥と思っていたところに、また海外ものだがこんな本が出ているのを知った。

ハウスワイフ2.0

作者: エミリーマッチャー,Emily Matchar,森嶋マリ

出版社/メーカー: 文藝春秋

発売日: 2014/02/24

メディア: 単行本

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以下はamazonに掲載されている本の紹介文。

「私たちは会社に使われない新しい生き方を求めている」

ハーバード、エールなど一流大学を出ていながら

投資銀行、広告代理店、官庁などの職を捨て

続々と主婦になるアメリカの若い世代。

けれども彼女達は、これまでの主婦とはまったく違う。

自分で生き方を選択するハウスワイフ2・0なのだ。すなわち

・会社を選択的に離脱する

・企業社会で燃え尽きた母親の世代を反面教師にする

・田舎生活を楽しみ、ジャムをつくり、編み物をする

・ストレスのある高報酬より、ほっとできる暮らしをする

・ウェブ、SNSを使いワークシェアを利用する

・ブログで発信し、起業する

・家事を夫と分担し余裕をもった子育てをする

著者自身も、ハーバード大学を卒業しながら、不況に直面した世代。

地元大学の事務職を辞め、現在はノースカロライナの田舎で

夫とともに手作りライフを楽しむ。

ニューヨーク・タイムズ紙、ニューヨーカー誌は本書を絶賛。

アメリカのメディアで大論争を呼んだ話題の書。

「やっぱりバリキャリって幸せそうじゃないでしょ?でも"普通"の専業主婦とは違うのよ」と言いたげな、溢れ出る高め目線。本は読んでないのだが、もうこの紹介文だけで「うわぁ‥‥」となった(特に「ジャム」と「編み物」のところで)ので、それぞれの項目の言わんとしていることを、悔し紛れにゲスパーしてみる。

・会社を選択的に離脱する→クビじゃないのよ、惜しまれてこっちから辞めるの。

・企業社会で燃え尽きた母親の世代を反面教師にする→あの人たち犠牲者だったよね、フェミニズムの。

・田舎生活を楽しみ、ジャムをつくり、編み物をする→都会の高層マンション・臨海アーバンライフよりこっちがおしゃれ!

・ストレスのある高報酬より、ほっとできる暮らしをする→本当に大切なものはお金じゃ買えないって、やっと気付いたの。

・ウェブ、SNSを使いワークシェアを利用する→(言ってる意味がよくわかりませんでした‥‥)

・ブログで発信し、起業する→これからは主婦がネットでビジネスする時代よね(てきとう)

・家事を夫と分担し余裕をもった子育てをする→妻を専業にできる程度には高&安定収入、しかも"理解のある"夫ですごく感謝してる!

要は「高学歴だがキャリアを捨て平均より高収入の夫の支えでロハス生活を満喫、主婦ブロガーやママ起業家を目指す」という新しいスタイルのようだ。いったいどれだけの人がそんなもの目指せるってんだよ?! という疑問や微妙なムカつきはちょっと横に措いておいて。

高収入、キャリア、社会的地位‥‥、いずれも「男性がもっているものを女性も勝ち取れ」と(フェミニズムに)言われ、頑張って獲得してきたもの。それを惜しげもなく手放し家庭回帰する海外の高学歴女子。実際にやってみたら思ったほど簡単ではなかったということもあろうが、ポイントは彼女たちの年代がキャリア形成時に「不況に直面した」経験をもつ、日本で言うロスジェネ以降の世代に当たることだ。

ということは、日本のロスジェネ世代以降の高学歴女子の間でも、こうした志向が広がる可能性が十分にあるということではないか。いやもう既に着々と広がっているのかもだが。

これが"理想のライフスタイル"として人気を呼ぶのは、なんとなくわかる気がする。私の貧困な想像でしかないが、『天然生活』と『VERY』を混ぜたような、"丁寧な暮らし"と"適度なクラス感"が同居しているような、「幸せ」オーラが漂ってくる。既婚子なし50代非正規雇用の私でもそう感じるのだから、仕事と家庭の両立に苦労しているバリキャリなお母さんたちが「こういうのもいいかもなー」と思っても不思議ではない。

もちろん両立を成功させたい人はどんどんやればいいし、そういう制度的仕組みはきちんと作られるべき。でも全員が同じように頑張れるわけじゃないし、全員が「男並み」に外で働きたいわけじゃない。だいたい、どう頑張っても社会を牛耳ってるのは"安倍ちゃん"みたいなおじさんたちだ。そんな男が作っている社会に、なんで必死に働いて貢献しなくちゃなんないの。自分のプライベートの方がずっと大切よ‥‥と。

そもそも専業主婦は戦前から、結婚後も家の内外で労働しなければならない多くの庶民の女性の憧れのポジションとしてあった。特に「高学歴女子となり、同じく高学歴かつ高収入の男と結婚し専業主婦に収まる」のは日本でもアメリカでもいいとこのお嬢様の「上がり」パターンだったわけだが、この「ハウスワイフ2.0」は一旦は就職した後に離職し、夫はカジメン・イクメンで、充実した家庭生活の合間にキャリアや能力、趣味を生かしたお仕事(人にこき使われるんじゃない)をする、というところが大きく違う。専業主婦と兼業主婦のいいとこ取りだ。

すぐに浮かんだのは、「新・専業主婦志向」というやや懐かしい言葉。1998年の厚生白書に登場した言葉で、従来の専業主婦(夫は仕事、妻は家事)と異なるのは、「夫は仕事と家事、妻は家事と趣味的仕事」という点だった。結婚して子供の手が離れたら自分の趣味を生かした仕事を通じて社会と繋がっていたいという志向をもち、夫には「十分な収入」と「家事参加」を求める。

2003年に出た『結婚の条件』で小倉千加子は、「かつて短大生メンタリティと言われた新・専業主婦志向は今、四大卒女子の間に広がっている」と分析していたが、それから10年、新・専業主婦志向は「夫は仕事と家事育児(分担)、妻は家事育児と趣味やキャリアを生かした仕事」というかたちで、一部高学歴女子の理想となりつつある。

こうしたライフスタイルの前提条件にあるのは、夫の経済力である。夫一人の収入で家計をある程度の余裕をもって回していけること。結婚を志向する高学歴のキャリア女性は高学歴(かつ平均より高収入)のキャリア男性と結ばれる確率が高いわけだから、この条件をクリアしやすい。

そして、充実したロハス生活や主婦ブロガーやママ起業家も、学習意欲に溢れ研究熱心で自分の関心事を極めようとする傾向のある高学歴女子の得意分野に思える。料理ブログが本になったり趣味の手芸がビジネスに繋がったり、そうした「女らしい」分野からプロになる人も、中にはいるだろう。

従って、いくら上野千鶴子がこういうところで、

「一度マミートラックにのって二流労働者になってしまうと、一流に戻れないまま、組織の中で塩漬けにされるのです」

「賃金が上がらないといっても、外食せずに家で鍋をつついて、100円レンタルのDVDを見て、ユニクロを着ていれば、十分に生きて行けるし、幸せでしょう? 」

「女性は年収300万円を確保しつつ、年収300万円の男性と結婚して、出産後も仕事を辞めずに働き続ければいい。「年収800万円の男をゲットして、仕事は辞めて専業主婦になろう」なんて考えないことです」

と啓蒙しても、専業志向の高学歴女子に関してはまったく無駄。

「塩漬け上等。お金じゃなくてやりがいのあるお仕事選びます」

「私たちの幸せはロハスな暮らしでジャムが作れて編み物ができること」

「年収300万の夫をもつ人は頑張って。私たちは違うから」

ってことなので。

これを従来のフェミニズムへの反動と取る人は多いだろう。実際、この世代の比較的高学歴な女性で、傍目にはフェミニズムに親和的な言動でいながら、「フェミ(の人)って苦手」とはっきり言う人は時々見かける。

また、「男女とも仕事と家庭を両立させられるような社会的仕組みが十分じゃないのが根本的な問題。でもせっかく得た社会的ポジションと経済的自立を手放すべきではない。ここで女性が家庭に逃げ込んでは元の木阿弥」という意見もあろう。

しかし私からすると高学歴女子の新・専業主婦志向は、むしろ"フェミニズムの到達点"に見える。

フェミニズムが女性の経済的自立を謳ったのは、一人でも生きていけるようになるためだった。人に経済的に依存するということは、相手に主導権を握られ、服従する不自由な身分を意味していたからだ。つまり自分で自分の「幸せ」を選択すべきだとフェミニズムは啓蒙してきた。しかし現在、専業主婦が夫に主導権を握られ、服従する不自由な身分だと考える人はいないだろう。

そんな中で出てきた、仕事をやめて家庭中心の生活をする、会社に使われるのをやめてマイペースの働き方に変えるという生き方。それは自分で自分の「幸せ」を選択することだ、フェミニズムの教えに反しているのではなく、むしろその延長線にある生き方だと主張されたら、返す言葉がないのではないだろうか。

むしろフェミニズムと親和的な生き方をしてきた元キャリア志向の女性たちが、自分の「幸せ」を求めて積極的に新しいタイプの専業主婦を創出するようになるほど、フェミニズム(のある部分)は成熟し社会の中に吸収された、と言うべきかもしれない。

冒頭の『モダンガール論』の惹句をもじれば、「高学歴女子には三つの道がある。夫選びを失敗せずに新・専業主婦になるか、頑張って「立派な職業人」になるか、どちらにもなれずに貧困化するか」になるだろう。

目につきにくいところでじわじわ増えていると予想されるのが、三番目の「貧乏くじを引いた高学歴女子」。最近出た新書『高学歴女子の貧困 女子は学歴で「幸せ」になれるか?』ではその実態が生々しく描かれている。

‥‥と、ひとごとのように書いているが私も共著者の一人だ。正確には上記三つの道のどれにも完全には嵌り切らないままずるずると歳を重ねたので、どの立場もそれなりにわかるという中途半端なポジションにいる。詳しくはこちらを読んで頂くとして、先の話と合わせると出てくる結論は、「結婚はいまだに女性のセーフティ・ネット」だということ。

一見、あたかも反動のごとく出てきた高学歴女子の家庭志向とは、フェミニズムが社会構造や制度やジェンダー規範を大きく変えられないまま、個人の「幸せ」追求心だけを刺激し続けて生まれてきた結果だ、ということも言えるのではないだろうか。

(2014年3月6日「Ohnoblog 2」より転載)