プロ野球・楽天イーグルスの元監督で同球団副会長の星野仙一さんが1月4日、死去した。70歳だった。
楽天の発表によると、星野さんは2016年7月に「すい臓がん」であることが判明。2017年12月末に病状が悪化し、帰らぬ人となった。同球団は「昼寝でもしているような安らかな表情でご家族に看取られて旅立たれました」と、最期の様子を伝えた。
星野さんは1947年、岡山・倉敷市出身。倉敷商高を経て、1968年に明大からドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。投手として通算500試合に登板し、エースとして活躍。通算146勝121敗34セーブを誇った。
プロ入り時のドラフトをめぐる因縁から「打倒巨人」を掲げ、ピッチングでは闘志を剥き出しに。その姿から「燃える男」と呼ばれた。
1982年に引退後、NHKで野球解説を務めた。その後、中日・阪神・楽天の監督を歴任。感情を剥き出して指揮をとる姿から「闘将」の異名をとった。
1988年と1999年、生え抜きの監督として2度にわたり中日のリーグ優勝を果たした。
2002年には当時低迷していた阪神の監督に就任。「勝ちたいんや!!」をキャッチフレーズに、就任2年目(2003年)で阪神を18年ぶりのリーグ優勝へと導いた。
2008年の北京オリンピックでは日本代表の監督も務めた。この時は金メダルを目標に掲げるも、4位に終わった。
2010年、63歳で楽天の監督に就任。その翌年に「東日本大震災」が発生。被災地の球団監督としてチームを率いることになった。
就任3年目の2013年、エースの田中将大投手を擁して「日本シリーズ」を制覇。東北の被災地を勇気づけるとともに、自身初の「日本一」に輝いた。
2014年、星野さんは楽天監督を退任。成績低迷もあったが、国指定の難病(胸椎の「黄色靱帯骨化症」)を患った影響もあった。
2014年10月7日の退任セレモニー。スタジアムを埋め尽くしたファンに向けて、星野さんはこう語った。
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「中途半端に4位、5位じゃ面白くない。思い切って最下位からみなさんを喜ばせよう。そんな選手になってもらいたかった」
「ようやく、スタンドのみなさんからも激しいヤジが飛び出しました。私はこれが一番うれしい。やはりみなさんが選手を育てる。チームを強くする。その責任はみなさんにもありますよ。そういう思いで、選手を見つめてやってください」
「イーグルスの監督になって本当によかった。最高に幸せな野球人生を送らせていただきました」
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こうして背番号77はグラウンドを去った。
監督として通算1181勝を記録し、4度のリーグ優勝を果たした。セ・パ両リーグを制した史上6人目の監督だった。
楽天の監督退任後は同球団の副会長に就任。チームの戦力補強に尽力した。
プライベートでは、22歳のとき妻・扶沙子さんと結婚。2人の娘に恵まれた。扶沙子さんは1997年に白血病で死去。その後、星野さんは独身のままグラウンドで戦い続けた。
気性の激しさから「鉄拳制裁」が代名詞に。「乱闘好きな男」といったイメージもあった。監督でありながら、審判への「暴言」で退場処分を受けたたこともあった。
一方で、情に厚い一面もあったという。朝日新聞(2001年12月08日朝刊)は「選手の妻の誕生日には、亡くなった夫人を通じて花束を贈ったこともある。退団者の再就職先探しに骨を折ることもたびたび」と、その人柄を伝えている。
【UPDATE】(2018/01/06 17:55)
楽天球団の発表内容を追記しました。