馬と言葉、そして資本主義。キルギス映画『馬を放つ』監督インタビュー

近代資本主義の波が押し寄せ、伝統文化が軽んじられつつあるキルギスの姿を描いている。
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馬を放つ

 キルギスの世界的名匠、アクタン・アリム・クバト監督の最新作『馬を放つ』が3月17日より公開される。

 映画どころか国自体に馴染みがないという人も多いかもしれない。筆者もあまりキルギスについては詳しくなかったが、本作はそんな未知の国の伝統と現在について深い示唆を与えてくれた。

 舞台は中央アジアに位置するキルギスの山間の村。ある日、村の資産家のカラバイの馬が盗まれる事件が発生。カラバイは犯人探しにやっきになるが、なかなか見つからない。ケンタウロスと呼ばれる主人公の男は言葉をしゃべれない妻と息子の3人暮らし。遊牧民族としての伝統を重んじるケンタウロスはいにしえの言い伝えをよく息子に聞かせている。遊牧民族であったキルギス人にとって馬はとても大切なもの。「馬は人間の翼である」ということわざが映画にも引用されていが、ケンタウロスはそんな人と馬との結びつきを息子によく語って聞かせていた。

 映画は、盗難事件とケンタウロスの関係と、彼の家族との物語を中心に、近代資本主義の波が押し寄せ、伝統文化が軽んじられつつあるキルギスの姿を描いている。

 本作の監督と主演を兼任するアクタン・アリム・クバト監督に話を聞いた。

資本主義と伝統の対立

——どんなきっかけでこの物語を作ろうと思ったのですか。

アクタン・アリム・クバト監督(以下アクタン):実際の事件から着想しました。私の生まれた村に一頭の素晴らしい馬がいました。その馬の持ち主が銭湯に行っている間に、馬が盗まれてしまったのです。その馬を盗んだ犯人は、自らも馬を所有していたにもかかわらず犯行に及んだのですが、その理由を一切話しませんでした。いまだに理由は謎のままです。この話を映画監督になってから思い出して、謎めいているし、それでいて美しい映像も撮れそうそうだと思い映画にしたんです。

——この映画は、資本主義的な価値観に対して、伝統的思想の重要さを説いていると思いますが、監督は、キルギスの人々から伝統的な価値観が失われているという危機感があるのでしょうか。

アクタン:そのとおりです。民族的伝統や習慣だけでなく、人間性までもが資本主義によって失われつつあると思います。互いに愛し、尊敬することを人々が忘れてしまっているかのようです。

——キルギスは旧ソ連から独立して資本主義の国となりましたが、そのような動きは、キルギスがソ連から独立して以降なのでしょうか。

アクタン:そうですね。映画の中で資本主義的価値観を体現しているのが、馬を持つ資産家のカラバイです。そしてそれに対抗しようとしているのが主人公です。お金持ちになるのは悪いことではありませんが、同時に自分たちの文化の伝統を守っていくことも重要です。次の世代に引き継がなければなりません。幸福のためには文化の充実は欠かせないと思います。

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馬を放つの1シーン

馬は人間の翼

——カラバイの持っていた馬は競馬用の馬ですよね。

アクタン:そうです。

——それは金儲けのために所有していたということですか。

アクタン:遊牧民であるキルギス人にとって馬はかつて身近なものでした。今では利益や遊びのためになってしまい価値観が変わってしまいました。

映画でも引用していますが、馬は人間の翼だったというキルギスの古いことわざがあります。かつては、人が死んだ時だけに馬を殺していました。なぜかと言うと、馬は死んだ人間の魂をあの世に導いていくものだと考えられていたからです。それが今では、結婚式や子どもが生まれた時など、あらゆる行事で馬を殺すようになりました。

——監督の前作『明かりを灯す人』では馬でボールを追いかけるスポーツ、コクボルなどがでてきます。キルギスにはあのような馬を使ったスポーツもたくさんあると聞いています。

アクタン:あれは本来はボールではなく、羊の肉を詰めたものを奪い合う競技です。昔からキルギスから伝わるゲームで、今は羊の肉の代わりに砂を詰めたりボールを使用してスポーツとして定着しています。

——その他競馬も盛んですよね。

アクタン:ええ。20〜30キロくらいの距離で競います。カラバイの馬はそのための馬です。最近は金持ちがアイデンティティとして馬を持ち、そうした競技に参加したりしています。

——ではそうした伝統的な競技も、今は金持ちのためのものになってしまっているのですか。

アクタン:そうなんです。伝統が資本主義に塗りつぶされているんです。

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主人公と言葉を発しない息子

主人公の妻はなぜロシア語しかわからないのか

——映画の中で、かつて映画館だった建物がモスクとして使われているという描写がありましたが、キルギスでは映画の人気は低下して映画館が潰れていっているのでしょうか。

アクタン:そういうわけではなく、あのシーンで描きたかったのはイスラム教の脅威です。映画館を文化の象徴と見立ててイスラムの文化的侵略を描いたつもりです。

これは私の意見ですが、イスラムの文化はキルギスの伝統文化にとって脅威です。宗教的な教えがというよりも、キルギス語よりもアラビア語を推奨し、言語的な侵略を行っているように私には感じられます。

(注:現在のキルギスの多数派宗教はイスラム教のスンニ派で、イスラム由来の行事や祝祭日なども設定されている。旧ソ連時代には無神論政策もあり、宗教は禁止されていた。キルギスにイスラム教が流入してからそれほど長い時間は経っておらず、若い世代にはイスラム信者が多いようだ)

——言葉と言えば、主人公の妻と息子は言葉をしゃべれません。こうした設定は何を意図したのでしょうか。

アクタン:言葉というのは文化にとって最も重要なものです。喋れない息子は言葉をなくした、つまり文化を失ったキルギスの象徴です。

母親にも象徴的な意味合いをもたせています。キルギスでは母国語のことを「母語」と言います。というのも私たちキルギス人は母親から言葉を教わるからです。

もうひとつ、主人公は妻と手話で会話をしますが、あの手話は全てロシア語です。旧ソ連時代からの名残ですが、キルギス語での手話教育はまだ確立されていないのです。

——手話のキルギス語はないんですか。

アクタン:独立以降、キルギス語を大事にするということになりましたが、マイノリティであるろう者の教育にまで浸透していないのです。あるいは中央政府の役人たちにとっては関心のない部分なのでしょう、だから今でも手話教育はロシア語のままなんです。

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アクタン・アリム・クバト監督