以前、バカとは会話をしない!と豪語する人が居ました。
この人は国立大学出身のいわゆる高学歴。いつも「バカは流れが読めないし、通じない」「バカと話をすると咬み合わなくて疲れる」と主張します。
たしかに彼女は頭が良い人だった。ボキャブラリーも豊富で学力も高かったことでしょう。しかしなぜか、この人と会話をしていると寂しさを感じずにはいられませんでした。
人を見切ることの寂しさ
「アイツはいつも的外れだ」「どうせこの程度のレベル」と人を安易に見切ってしまうのは寂しいことだと思います。たしかに社会で生活していると的はずれな事をぶつけてくる人も居るでしょう。しかし彼らが全てダメというわけではありません。本当に学ぶことは何か無かったでしょうか?
もちろん成功の秘訣を学ぶのも良いことです。しかし反面教師も立派な学びです。あの人は○○という方法で失敗してしまったので、自分は同じ過ちをしないように気をつけよう。これは立派な勉強です。
しかし見切ってしまった人からは何も学ぶことが出来ません。なぜなら「学ぶ価値なし」と勝手にあなたがレッテルを張ってしまうからです。その人が成功しても「どうせ偶然」と妬み、失敗すれば「ほれ見たことか」と罵る。
これでは単に相手を見下しただけ。
何も学べないのも仕方ありません。
■子どもに見切る背中を見せたくない
見切りをする人は自ら学びの機会を失います。これは子どもでも同じことです。
(子供たちが)先生は偉いと思うと、先生からいくらでも勉強できる
この先生はバカだと思ったら、何も勉強しない
子供はその人がホームレスであれ、偉いと思うと学ぶ
あらゆる人から学ぼうと思う人はあらゆる人から学べる
武田鉄矢(深イイ話)より
深イイ話に出演された武田鉄矢さんの言葉です。
子ども達は大人を見ています。マネをします。我々が小馬鹿にした人は、子ども達も真似して小馬鹿にすることでしょう。こうして子ども達は貴重な学びの機会を失います。それは間接的とはいえ、大人が見せた背中の鏡なのです。
まとめ
これだけ簡単に情報が手に入る世の中です。その気になればスグに大量の情報と知識を仕入れる事ができます。しかし知識や情報を集めるだけが学びではないと思います。
事の大小はあれ、人を通じて学ぶことはかけがえの無い機会です。ちょっと知識や情報を持っているからといって人を見切ってしまえば、あなたの学びはそこで終わってしまいます。
とりあえず話を聞いてから、自分に合うか合わないかを腹の中で判断して、合っていると思えば実行していけばいいし、合っていないと思えば取り入れなければいいんだよ。
引用:がんばらなくていいんだよ
話を途中で遮りたい衝動を抑え、まずは聞いてみてはどうでしょうか。あとで取り入れるかどうかを判断すれば良いのです。
次世代の子ども達には「人を見切る」ことの寂しさと、誰からでも学ぼうとする「好奇心」を伝えたいものです。