「撮らないで済むなら、撮りたくなかった」。彼は、10年間胸の奥にしまっていた思いを打ち明けた。
2011年3月11日、津波が街をのみこむ衝撃的な映像が中継されていた。
NHKのヘリコプターからそれを撮影していたのは、当時、NHK福島放送局の報道カメラマンだった鉾井喬(ほこい・たかし)さん。
入社1年目、その日がまだ5回目のフライトだった。
当時、鉾井さんが撮影した津波の映像は世界中をかけ巡った。その凄惨な映像を、“歴史的な映像”と称える声もあった。
今も消化できない思いがある。「自分は一番安全な場所にいて、撮影していた...」。
現在は、NHKを離れ、現代アーティストとして福島にもアトリエを構え生きている。
「なぜ自分が撮ってしまったのか」。心に葛藤を抱えながら。
整備のタイミングだった
地震が発生した午後2時46分。鉾井さんは、ヘリコプターで取材を担当する当番勤務で、宮城県南部にある仙台空港にいた。
格納庫で、まだ不慣れだったヘリのカメラ操作を練習していた時、ドーンと下から突き上げられる揺れに襲われた。
あまりの揺れに体が座席から放り出されそうになる。
「危ない下りて」。近くにいた整備士が腕をつかんで、引っ張り出してくれた。
目の前のヘリは、上下左右に揺れ続けていた。
普段なら機体は格納庫内にとめていたが、その時間は、たまたま点検があり、機体の半分を外に出していた。
それが運命を分けることになる。
建物内にとめていた他社のヘリの中には、揺れで機体同士がぶつかり、壊れているものもあった。
被害を免れたNHKのヘリに乗り込んだ鉾井さん。混乱の中、離陸した。
家と車をのみこんでいく黒い津波と、生きている自分
離陸直後、仙台駅へと向かった。窓ガラスが割れているなどの被害はあったが、上空から見る仙台の街は、いつもと変わらない様子に見えた。「意外と大丈夫だな」。少し安堵した。
細かい雪が降り始めていた。ヘリは、雲の合間をすり抜けて沿岸部を目指した。
名取川に沿って進んでいた時、川を遡上する波を見つける。とにかく、目の前の景色を撮らなければ、そう思った。
その時、ヘッドフォンから機長と整備士の声が聞こえる。「もっと左!もっと左!」。
言われるがままにレンズを左側に向ける。飛び込んできたのは、平野を這うように進む黒い津波だった。
黒い塊は、容赦なく家や車をのみこんでいた。津波の渦に別の角度から来た津波が重なり、さらに大きな塊となって襲いかかる。木材、船、瓦礫、あらゆるものが簡単に押し流されていく。
理解が追いつかなかった。ただ、映像は生中継されている。
生きている自分の足の下で、街や人や車が、次々と津波にのみこまれていく。「(映像を)アップにしてはいけない…」。手が小刻みに震えていた。
「生と死」。自分が置かれていた状況をようやく整理できたのは、撮影を終えて着陸し、数時間たってからだった。
出発した仙台空港にも、3メートルを超える津波が押し寄せた。離陸してからおよそ50分後、上空で撮影していた時だ。
「その場に留まっていたら、自分の命もなかったかもしれない」。鉾井さんは振り返る。
一番安全な場所にいて撮った「スクープ」 今も消えない葛藤
あの日、報道機関で津波の映像を空から中継していたのは、鉾井さんだけだった。映像は「スクープ」として世界中をかけ巡った。
鉾井さんにはあの日、もう一つ忘れられない光景があった。
仙台空港には戻れなくなったため、福島空港に着陸。別のカメラマンと交代し、NHK福島放送局に車で戻っていた時のことだ。
国道4号線は渋滞していて、途中から進めなくなった。
ふと横を見ると、並走する東北自動車道にぼんやりと浮かぶ赤いランプの列があった。
夜が明け、ようやく福島市内に入った時、交差点で、消防車の集団とすれ違う。そこで初めて、赤いランプが全国各地から沿岸部へと向かう消防隊なのだと知った。
「一刻も早く助け出して欲しい」。上空という安全圏にいた自分が「見下ろしていた」人々。その人たちの無事を、願うことしか出来なかった。
大切な人を失くした人、命をかけて救助に向かう人、そして生き延びた自分。
「たくさんの人が亡くなっている中で、自分は、一番安全な場所にいて、撮影をしただけだ」
映像が数々の賞を受賞するたび、葛藤は大きくなっていった。また、被災地と東京を行ったり来たりするうち、「安全圏」にいる自分に、違和感が芽生えていった。
「原発事故」が生んだ新たな葛藤 そしてアーティストに転身した
NHK福島放送局に赴任していたことで、原発事故からも目を逸らさずにはいられなかった。
10年、20年では到底答えが出せない課題。
その中で鉾井さんは、”正しさ”とは一体何なのか、わからなくなっていった。
「報道は、”正しいこと”を伝えなければいけない。でも、時にその“正しさ“が、今の福島にとって受け止めきれる“正しさ“なのか...。誰にとっての”正しい”なのか…」
取材で顔馴染みになった福島の人たちが、国や報道機関などが出す“正しいこと“に幾度も振り回される様子を目の当たりにした。
そして、勤務組織の制度上、いつか転勤をして福島を去る。今は目の前にある問題も、いつか他人事にできてしまう。
津波を撮影した日と同じように、守られた場所にいるような気がした。
「もう少し自分の目で福島を見て、考えながら生きていきたい」
震災発生から2年後、NHKを辞めた。
元々、大学時代にはアートを学んでいた鉾井さん。研究テーマは「風」だった。
人力飛行機を制作して距離を競う競技「鳥人間コンテスト」に出場し、パイロットとして飛んだ経験が、研究につながった。
感じることも見えることもない、わずかな風によって、「鳥人間」の人力飛行機は翻弄される。記録は、289.55m。鉾井さんの中で、その経験が「“見えないもの”によって自分たちが生きていることを可視化したい」という思いに昇華されていく。
NHKに就職し、一度はアートから離れた鉾井さんだが、再び“見えないもの”に翻弄されている自分を感じたのが、原発事故だった。
「アートは、作品を受け取った人それぞれが、色んなことを考えればいい。今の福島に必要なのは、“正しさ”を押し付けるよりも、考えるきっかけを投げかけ続けることだ」
福島に寄り添い 作品を作り続ける
アートの世界に戻った鉾井さんは2016年、震災後の福島をテーマにした短編映画を発表する。
「福島桜紀行」。沿岸部から内陸へと進む桜前線を追いかけ、桜とそこに集う人々を見つめたドキュメンタリーだ。
桜は、福島の人にとって特別な存在だ。
震災と原発事故により、当たり前が失われた中で、毎年当たり前に咲き誇る姿。春という“見えないもの”が桜によって形になり、人々の喜びに変わる。
撮影のきっかけは、当時、全域が避難区域となっていた浪江町の一人の男性と出会ったことだ。男性は、いまだ帰ることが出来ない故郷で仲間たちと共に、川沿いの桜並木を手入れしていた。
男性はカメラに向かってこう話す。「いろんな条件が揃った上でないと帰ろうとは言えないんだけど、みんなで浪江町に帰ってきた時に、震災前から町に咲いていた桜がまた咲いていたら、気持ちは違うと思うんですよね」。
消化できない思いを抱えながらも生きる福島の人たちの姿に、鉾井さんの心は動かされていく。
2019年には、群馬県の中之条町で作品を発表した。
町内の至る所にそびえ立つ多くの鉄塔と鉄塔同士を結ぶ電線。張りめぐらされた電力網は、福島原発や柏崎刈羽原発でつくられた電力を首都圏へ送り続けてきたものだ。
原発と電気を使い続ける“都会の人々”が、中之条町を通じて一本の線で結ばれる。
その鉄塔を軸に、風と電力の動きを可視化する仕掛けを作った。
風が吹くと、吹く風の強さによって、針が動き、風の痕跡が土台の丸太に刻まれていく。さらに、電気の力で土台の丸太自体も動かすことで、風の力と電気の力の双方が組み合わさった新たな痕跡を生み出す。その仕掛けの奥では、電力を送り続けてきた鉄塔が静かに佇む。
どちらかが正しい、どちらかが悪いということではなく、人は、自然の力とエネルギーによって生きていく...。それを今だからこそ考えて欲しかった。
10年前の経験 良かったのか 悪かったのか
震災から10年。福島と福島以外の地域での温度差も少しずつ感じている。
廃炉作業が終わるまで、日本が避けて通れない問題なはずなのに、やはり福島以外の人にとっては、自分の問題として捉えづらい面もある。
「“見えないもの”によって、自分たちが生きていることを可視化したい」という思いで作品づくりをしてきた自分なりの方法で、記憶の風化に抗いたい。鉾井さんはそう話す。
鉾井さんは、10年前のあの日、あの場所に居合わせてしまったことを今どう考えているのか。
「どうしても『10年』という時間軸に注目が集まるが、ただの通過点。10年という時間が、心の中の何かを消化してくれたことはない」
しかし、10年たったからこそようやく分かったこともある。
「一人のアーティストとして、自分は、過去の体験や気持ちを作品に込めていく。その創作の過程で、葛藤を整理できることで作品が生まれたり、作品が生まれることで葛藤に整理ができたりすることもあるかもしれない」。
鉾井さんは、きょうも葛藤を抱え生きている。
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鉾井さんの新作が2021年3月26日から〜4月18日、東京ミッドタウン日比谷6階パークビューガーデンに展示される。詳細は「HIBIYA BLOSSOM 2021」から。