ひらた中央病院の東日本大震災後の取り組み①  〜放射能に対する恐怖との戦い〜

福島県のこの地域には病院が少ないこともあり、震災直後の12日から、近隣の病院から入院要請の依頼が入りました。

福島県と聞いて、今も真っ先に思い浮かぶのは『原発』そして『放射能』ではないでしょうか。かつては、磐梯山を望む雄大な自然や猪苗代湖、また映画で広く名が知られたスパリゾートハワイアンズなどを思い浮かべる人も多いかもしれません。

現在の福島県に震災前のような平和なイメージはどの程度残っているのでしょう。今でこそ根拠のない誹謗中傷や偏見はほとんどなくなりましたが、震災直後は自ら住みたいと希望する県ではないというのが、世間の正直な気持ちだったと思います。私たちは、この福島県が恐れるような土地ではないと証明され、多くの人々が生活し活気ある場所に戻れることを願っています。

2011年3月11日14時46分、今までに経験したことがない大きな揺れが襲ってきました。決して忘れることのできないあの光景が、今でも鮮明に思い出されます。

いつもよりも少し大きいと思う程度の揺れから、何かにつかまらないと不安になり、さらには身の危険、そして病院が損壊するのではと感じる大きな縦揺れが襲ってきました。その時に患者を守らなければと病棟に走りました。病棟スタッフは揺れの大きさに怯え、ナースステーションで自分の身を守るしかありませんでした。私はスタッフに「病室に行け!患者をみろ」を叫んでしまいました。

ようやく揺れがおさまり冷静さを取り戻したとき、扉の向こうに広がっていたのは、あらゆるものが倒れ、床に散乱している光景でした。子どもを保育園等に預けているスタッフにはすぐに迎えに行くように指示しました。

残ったスタッフで患者の安否を確認するスタッフ、壊れたものを片付けるスタッフ、恐怖を和らげるために患者に声を掛けてまわるスタッフ、誰しもが現状を飲み込めないまま、それでも必死に走り回っていました。外来患者は外に避難し、毛布に包まりながら寒さに耐え自宅に帰れる車を待っていました。

みんなで無我夢中で走り回っていましたが、夜の9時を過ぎたときに家族が待っているスタッフは帰るようにしました。帰るスタッフは家族が心配だったにも関わらず、患者のために動き回っていました。帰るスタッフは「明日の朝は早くきます。何かあったら連絡ください」とこのような状況の中でも患者を思う気持ちが頼もしく感じました。

幸いにも、全ての施設内に負傷者はひとりもいませんでした。建物には亀裂やゆがみはあったものの、倒壊するほどの損傷は見られず、あの寒さのなかで暖を取ることのできる環境が確保されていたのは本当に幸運だったと思っています。

地震当日の夜には原子力緊急事態宣言が発令され、福島第一原発の半径3km圏内に避難指示が出ました。テレビで状況を確認した時に、福島原発が爆発する恐れがあると放送されました。最初は事の重大さに気づいていませでしたが、状況を見続けると爆発したら家族はいつ避難したほうがいいのか?患者も避難しなければいけないのか?と考えていました。

しかし、当院は福島第一原子力発電所から45km離れた位置にあり、同敷地内には、老人保健施設・診療所・デイサービス・訪問看護等の医療系施設と福祉系の5つの施設・事業所がありました。通所系のサービスは当面中止にして、ケアマネジャーと訪問看護師は一人暮らし・老々生活をし、訪問系のサービスを受けている約80名の利用者の安否確認をしました。

この地域には病院が少ないこともあり、震災直後の12日から、近隣の病院から入院要請の依頼が入りました。その病院は建物損壊が酷く、患者の治療を継続することが困難ために肺炎・心不全・食欲不振等の患者を15名収容しました。そのため、当院に入院していた軽症の患者は早めに退院していただかなければいけませんでした。

同じ日に富岡町から郡山市の高校に避難していた今村病院の院長からも収容の要請が入りましたが、状況を聞いている途中で病院の電話が通信不能になってしまったのです。電話通信が可能になった16日に再度今村病院から連絡が入り、体育館で対応できない9名の糖尿病・尿路感染等の高齢者を17日に受け入れました。今村病院の院長は涙を流しながら何度も「ありがとうございます。」と繰り返していました。

今村病院の受入が終わった夕方には、福島県の対策本部から連絡があり、双葉郡の介護施設の入所者がいわき市の学校に1次避難しているが、食事が取れていないため状態が悪化しているので学校ではなく治療ができる場所に2次避難させたい。そのため、当院に受入の要請が入りました。17日現在で142床のベット数に対して155床と13床と通常より多くの入院患者の対応をしていたので、県の要請にはすぐに受け入れしますと回答できませんでした。

しかし、対策本部の切実な訴えだったので、すぐに主任者以上で会議を開き、受入できるか?救済の方法をどうするか?結論は法人全体として、限界まで救済することに決まりました。

この時、スタッフからは「これ以上、救済して対応できるんですか?」「受け入れした患者さんに食事を提供できますか?」「私達の身体は限界です。」「私たちも本当はすぐにでも避難して、家族のところに行きたいんです。」とスタッフが極限状態であることを改めて感じました。

職員全員を集めて理事長から「すぐに避難したい人」と聞くと、当然全員手を挙げました。県から救済の要請があり、「何とか助けたいから協力してほしい」と当院もいつ避難指示がでるかわからない中での決断でした。18日、楢葉町からいわき市の小学校に避難していた114名の施設入所者を受入し、いわき市内の病院から依頼があり2名、震災から7日後の18日には243名の患者が入院していました。

小学校から避難してきた高齢者は脱水がひどく、すぐに点滴をする高齢者が多かったことを覚えています。食事が摂れる方は疲れと空腹からうまく言葉が出ない方が多かったですが、「ああ温かい」「こんなご飯が食べられるとは思わなかった。幸せだ」と安堵の表情へと変わっていったのが印象的でした。

受入をしていると他にもひらた中央病院は受入してくれると情報が周り、いわき市内の津波被害を受けた施設や病院からも50名近い患者さんの受入要請が入りました。

津波被害を受けた施設に到着すると、想像を上回る被害状況を目の当たりにし、ただ愕然としたのを覚えています。移動中に亡くなる可能性のある重篤な患者さんは、施設に残していかざるを得なかった。21日は31名のみが、収容となりました。心苦しい思いをしながらもこれが限界でした。残された患者は、2週間程度その施設で対応し、その後近く病院に入院されたと聞いております。

合計171名を受け入れ、305名の入院患者の看護・介護が始まりました。救済した方の安堵した表情に変わる様子、1次避難後に家族別れて当院に避難した事を知り、再会してお互いに元気でいる事が確かめ合う姿を見た時に救済して本当に良かったと思い、全てのスタッフが一丸となって動いけた事が法人の今後の財産になりました。

(続く)

医療法人誠励会 ひらた中央病院

事務長 二瓶正彦

経歴

平成16年3月 学校法人 東北柔専 仙台接骨医療専門学校 卒業

平成16年4月 医療法人誠励会 入社

平成20年4月 ひらた中央病院 事務長

平成24年6月 公益財団法人 震災復興支援放射能対策研究所 事務局長

2015年11月30日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

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