1968年、当時はまだヒラリー・ロダムだったヒラリー・クリントンは、マイアミでの共和党全国大会の熱狂に見入っていた。若き共和党員だった彼女は、ネルソン・ロックフェラーがリチャード・ニクソンと大統領候補の座を争う場を目にするため、初めて党大会に参加した。
「共和党大会は、私が初めて一流の政治の舞台を内側から見た機会でした。その週の出来事は、現実とは思えず、落ち着かないものでした」と、クリントンは2003年に発表した回顧録に記している。
当時20歳のロダムは、48年後に自分が別の党大会にいるだろうとはまったく予期していなかったはずだ。しかも今回は、民主党全国大会の壇上に立ち、主要政党の大統領候補指名を受けた初の女性として歴史を作った。
「今夜、私たちは、この国がより完璧な団結を目指して進む中で1つの節目にたどり着きました。主要政党で初めて女性が大統領候補に選ばれたのです」とクリントンは7月28日夜に語った。「私は、母の娘として、そして娘の母として、ここに立っています。私はこの日が来たことをとてもうれしく思います。おばあさんから小さな女の子まで、すべての女性たちにとって喜ばしいことだと思います。男の子たちや男性たちにとってもよかったと思っています。なぜなら、アメリカで壁が取り除かれるということは、すべての人に道を開くことになるからです」
「つまり、天井がなければ、可能性は無限に広がるのです」と、クリントンは付け加えた。「だから進み続けましょう。アメリカ中の1億6100万人の女性たち、少女たちの誰もが、彼女たちにふさわしい機会を手にすることができるまで。けれども、何より重要なのは、今夜私たちが刻む歴史ではなく、これから数年間、私たちが力を合わせて刻んでいく歴史なのです」
クリントンは2016年の選挙を「アメリカが岐路に立つ瞬間」と位置付け、「強い力が私たちを分断すると脅かされている」時だ、と述べた。
「私たちは、みなで協力し、ともに立ち上がるのかどうかを決断しなければなりません」と彼女は述べた。「私たちの国のモットーは『エ・プルリブス・ウヌム(多数からひとつ)』。このモットーに忠実でいられるでしょうか? ドナルド・トランプの答えは、先週共和党全国大会で聞きました。彼は私たちを分断させたいのです。世界からアメリカを、そして私たち同士を分断させたいのです」
「『自分だけが解決できる』なんて言う人は、信じないでください」と、クリントンは付け加えた。「そうです、これは実際にクリーブランドで言ったドナルド・トランプの言葉です。私たち全員に警鐘を鳴らすべきでしょう」
さらにクリントンは「私の家族には、大きな建物に自分の名前をつけるような人はいません」と、トランプ・タワーを所有するライバルを皮肉り、「誰もが不安を抱え、安心を求めています。そして、安定した指導者を求めています」と、自分こそが大統領にふさわしいとアピールした。
■ ヒラリー・クリントン大統領を待ち望む女性たち
この28日夜のイベントは、多くの女性がこれまでの人生でずっと待ち望んでいたものだった。そしてクリントンがステージに上り、娘のチェルシーに迎えられた歴史的な瞬間が訪れた時、多くの女性たちが、会場で、そしてはるか離れた場所で、涙を流した。
生涯をかけてフェミニスト活動家だった93歳のおばあちゃんが、ヒラリー・クリントンの演説を聞いて泣いているのを見ています。
「天井がなければ、天に限界はない」今晩、孫たちがヒラリー・クリントンを見ている。とても幸せです!
ワシントンD.C.に住むスーザン・ミラー(66)は、ペンシルバニア州中部に住む92歳の母が生涯を通じて共和党員だったことを話した。しかし2016年春、彼女はクリントンに投票できるよう党員登録を変更した。
「92歳の母は、女性に投票できることにとても興奮していました」と、ミラーは語った。「母は、こんな日が訪れるなんて今まで考えてもみませんでした。長年支持してきた党を変更して、とてもワクワクしています」
「これは30年間の私の努力の成果です。私は自分を誇りに思います」と、民間女性たちによる選挙資金団体「エミリーズ・リスト」の創設者エレン・マルコムは述べた。エミリーズ・リストは妊娠中絶に賛成する民主党の女性議員たちを当選させるための活動を行う。1985年の設立以来、最も影響力のある政治活動委員会(PAC)の一つになっている。
クリントンにとっては長い旅だった。彼女が最初にアメリカ中の注目を浴びたのは、1969年のウェルズリー大学に在籍していた時だった。彼女のクラスメートたちが、史上初めて学位授与式でスピーチする学生として、彼女を選んだ。彼女は全学生を代表して、彼女の世代の意見を代弁した。まだ彼ら学生は権力やリーダーシップを持つ立場ではないが、自分たちは、「批判と建設的な抗議には欠かせない要素」を持っていることを主張した。
1969年、ウェルズリー大学の4年生だったヒラリー・クリントンの卒業式でのスピーチは、アメリカ中の視線を集めることになった。
彼女のスピーチは、その前に登壇したエドワード・ブルック上院議員を直接的に批判する内容だった。ブルックは、抗議することの有効性や必要性に疑問を呈した。ヒラリーは用意した原稿を捨て、その場でブルックを直接的に批判した。クリントンはニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、雑誌「ライフ」などに取り上げられ、アメリカ中で注目を浴び、話題に上るようになった。
しかし彼女の名前が広く知れ渡るようになったのは、型破りな政治家の妻としてだ。今となっては党内左派から疑念を抱かれているクリントンだが、元々は体制側からリベラルな邪魔者として扱われていた。夫がアーカンソー州知事の時に姓を変えようとしなかったことで人々の反感を買った。その頃、後に彼女がファーストレディとして保険制度改革委員会を率いることになるなど誰も想像しなかった。
アーカンソー時代からファーストレディ時代、上院議長時代、そして国務長官時代に至るまで、クリントンは政治の世界で多くの女性差別を受けた。彼女がどのような女性なのかを、髪の毛、服装、声色にいたるまで、厳しい目にさらされた。
ヒラリー・クリントンは夫のビルと過ごすためにアーカンソーに移り、1982年には、民主党の知事候補を決める決選投票での勝利を祝った。
女性が選挙に出ることに対する世間の空気は大きく変わったが、障害がないわけではない。今回の選挙戦でも、「もっと笑ったほうがいい」とか「大声を出すのをやめろ」といった批判がクリントン氏に寄せられている。しかし、男性候補者にそのような批判が浴びせられたことは一度もない。
そのような苦労を経て、そして常にそれを乗り越える彼女自身の力によって、支持者が引きつけられていった。クリントンの集会やフィラデルフィアの民主党全国大会に集う女性の多くは、自分の姿を彼女に重ね合わせていると口々に言う。そして、最終的に頂点に立つのを見たいという。
ワシントンDCからやって来たビッキー・サポルタ(63)は、全米トラック運転手組合で初めて女性のオーガナイザーを務めた人物だ。組合活動の中で周囲から認めてもらうために常に苦労してきた、と彼女は話す。「何度も何度も試練を受けなくてはなりませんでした。でも結局は、男性の同僚の怒りを買うだけでした」
「他の女性のために道を切り開くことがどんな経験なのか、私には分かります。先駆者でいることがどんなに大変か、成功するためにどれほど余分に努力しなくてはならないか……」と、サポルタは語る。
「ヒラリーは、『ごめんなさい。でもこれはやらなくちゃならないんです』と言えない伝統ある州で伝統的な役割を背負いながら、世間の注目を集めた最初の女性なんです」と語るのは、カリフォルニア州の代議員、アンドレア・ヴィラだ。「ヒラリー支持」のバッヂをたくさん付け、Tシャツにはこう書かれている。「Well-Behaved Women Rarely Make History(行儀の良い女性が歴史に名を残すことはめったにない)」
ジェニファー・ヴィドリン(57)は、「これは感傷的になりますよね。私は(ルイジアナ州の)ビル・プラットで初めての女性市長ですし。将来アメリカ大統領になる初めての女性候補を目撃しているのですから」と語った。
■ クリントン大統領への期待と課題
初の女性候補となったクリントンにそれだけの資質があることも、女性たちに自信を与えている。彼女たちはこの事実を繰り返し強調する。クリントンが単なる「お飾りの」候補として片付けられないようにするためだ。女性たちの多くが、男性ほど能力はないと非難されてきた。そして女性は今でも、同じ仕事をしていても男性より収入が低い。
「最終的に彼女がその役目を担うことを望んでいました」と、マサチューセッツ州シュルーズベリー在住のロベルタ・ゴールドマンは語る。彼女はクリントンの長年のファンだという。「ヒラリーは、これまで見てきた大統領の誰よりも頭が切れる... 彼女はすばらしい! 今後しばらく、あれほどの人が現れるかどうかわかりませんよ」
「これは本当にすばらしいことです。とりわけヒラリーにとって ... 彼女は最も資質のある人です。私たちは彼女のあの手腕に託すことになるでしょう。そのことは私たちがもっと社会に関与していく励みとなるのです」と、クリーブランド在住のテリー・ハミルトン・ブラウン(54)は言った。彼女は黒人の大統領を見ることになるとは思いもしなかったし、黒人大統領どころかアメリカ初の女性大統領が実現するかもしれない事態を考えもしなかったという。
バラク・オバマ大統領とヒラリー・クリントン氏が共に民主党大会の3日目のステージに登場した。
しかし、クリントンの長い政治経験こそ、エスタブリッシュメントだという非難は止まない。ドナルド・トランプの台頭により、今回の選挙戦は不利な闘いを強いられている。クリントンの支持者たちはジレンマを抱えている。大統領としての資質がない女性候補をアメリカ国民は選ばない。だが一方で、その資質を得るためには、長い政治経験を積まなければいけない。
クリントンが政治家の一家の一員という事実は驚くほどのものではない。これまで多くの女性たちが政治の世界にある壁を打ち破れたのは、彼女たちが政治家一家の一員だったからだ。
1970年代まで女性が政治の世界に進出するのにもっとも一般的な方法は、自分の夫の後を追うことだった。調査会社ピュー・リサーチセンターによると、1916〜1980年の間に国会議員となった90人の女性のうち、34人が夫の議席を引き継ぐか、夫の死後継承するかのいずれかだった。アメリカ国民は、伝統的に自分たちの知っている人物の妻が政治家になれば、彼女たちにより寛容だった。
アイオワ州の修道女ジャン・セブラさんは、年齢は「65歳以上」だという。党大会に参加し、アリーナ上部の最後列に座っていた。ステージの様子はよく見えなかったが、「こんなことが起きていることに」とても嬉しい気持ちだと語った。
「私はもう歳ですから。私たちが子供のころは、大統領になるなんて夢はありえないことでした」と、セブラは言う。若いときに「女性大統領になってみたら」と言われたらどうしたかと尋ねたら、彼女はしばらく間を空けてからこう言った。「正直言って、そんなことを言う人なんてはいなかったと思いますよ」
「今では、女性たちにもっと多く機会が与えられています」と、彼女は付け加えた。「今、若い女性や女の子たちにはこういうロールモデルがあるのです。それが彼女たちにとってとても大きいことなんです」
(敬称略)
ハフポストUS版より翻訳・加筆しました。
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