どうすれば、知らない人達をちゃんと撮影できるかを考えた。毎日仕事が終わると街に出ては、気になった人に声をかけ、写真を撮らせてもらった。
人をしっかりと撮れるカメラマンになるため、先輩たちに教えを乞い、路上で色んな事を学んだ。
真正面から被写体に向きあって撮る事が好きだったし、良いカメラマンってのは、そういうものだと思った。
そして、カメラは良い出会いも作ってくれた。芸能人だとは知らず、雰囲気の良い夫婦だったので写真を撮らせてもらった。その時の写真や撮影の時に過ごした時間をすごく気にいってくれて、後日、写真の仕事をくれた。
それは俺にとって初めての写真の仕事だった。医者に撮影許可をもらい、週に数回病院に通い、抗がん剤の影響で髪の毛が抜けていく様子を病院のシャワー室で撮ったり、一緒に病院を抜け出し、近所の公園でタバコを吸ったりしていた。
10月、骨髄移植のためのドナーが現れるのを待つ余裕がなくなり、臍帯血移植を行うしかないとの事で、神奈川の病院から東京・虎ノ門の病院に転院になった。
虎ノ門の病院には彼の友達が、よくお見舞いに来ていた。彼は、いつもバカな事ばかり言い、皆に笑顔を振りまいていた。
俺とタバコを吸いに外に行った時には、病院の愚痴や恋人との事、死ぬ事への不安や、最大でも5年位しか生きられないだろう事、どうやって今迎えている人生の晩年を過ごして生きていくかを話したりもした。向かいのベッドの人が「家族に治ったら旅行に行こうねと言われるのが辛い、治るわけないのに」と、何度も夜中にひとりベッドで泣きながら呟くそうだ。
そんな声を聞きながらも、いつも生きるって事を彼は考えていた。
しばらくはそんな入院生活が続くと思っていたが、彼の症状は良い方向には向いていかなかった。血液の状態が悪く、たった1パーセントの可能性に賭けて、臍帯血移植を決断した。
臍帯血移植の日、病院に呼ばれたのは俺1人だけで、恋人は来ないの? と聞くと「本当は誰にも会いたくなかった。これで死ぬかもしれないのに笑顔でなんかいられないじゃん」「でも、ろでぃーにだけは撮って欲しかった」「キャパみたいに有名な写真家になれよ」とポツリポツリと言って不安そうな顔でベッドに横になった。
臍帯血の注射を何本か打ち、眠るというので、「また明日来るよ。おやすみ」と言ったのが彼との最後の会話になった。集中治療室にいる彼の身体に付いた心電図などの各種センサーが、彼の命が徐々に消えていくのを知らせ、彼の母親が最後の挨拶に来た。年老いた母親が別れを告げ病室を出ると強心剤などの投薬を止めてもらった。彼の恋人がすでに冷たくなり浮腫んだ手を握りしめている。
彼女の眼に涙が溜まり、それが頬を伝い、マスクを濡らす。80ミリのレンズを付けたハッセルブラッドでピントの合う最短距離まで寄って、フィルムが無くなるまでバシャッ、バシャッとシャッターを切った。
家に帰り、現像したフィルムを見た時に、俺は報道写真を本気でやらなくてはいけないと思ったのを覚えている。彼が亡くなった事で、俺が抜け殻みたいになったんじゃないだろうかと何人かの写真仲間が心配してくれたが、喪失感みたいなものはなく、いつものように街へと出ていた。
そんな2011年、アラブの春が渋谷の街に訪れ、あの震災は暗室の中で迎えた。初めて写真の仕事をくれた小林すすむさんがスキルス性胃がんで入院した。
妻のあきこさんから電話をもらい撮影させてくれと頼み、4×5インチの大判カメラを持って病室に入った。
2人とも別れの時間がすぐそこにある事を理解していたようだった。すすむさんは、「ろでぃーは特別なカメラマンだから早く有名になれ」と自分の事より俺の心配をしてくれた。
ベッドの脇に三脚を立て、いつものようにしゃべりながら大判ならではの所作をしてファインダーを覗くとすすむさんは俳優の顔になっていた。
ファインダーから眼を離し、無理しながらこっちに笑顔を向けるあきこさんと俳優小林すすむさんを見ながらポラを一枚だけひいた。島崎ろでぃー写真展「銃撃」は、2月7日まで、東京・渋谷の「Galaxy 銀河系」で開催中。
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