高校野球の「代打バットヌンチャク」を見て思うこと

いま、バッターボックスで代打の選手がやるパフォーマンスが話題になっていますね。
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こんにちは!縄跳びパフォーマーの粕尾将一(@macchan8130)です。

いま、バッターボックスで代打の選手がやるパフォーマンスが話題になっていますね。

2015年7月23日の高校野球の埼玉県予選の5回戦。上尾市民球場で行われた滑川総合と埼玉栄の一戦で、滑川総合の馬場優治選手(3年)がバットを振り回すパフォーマンスをしながら打席に立ちました。

その動画はネット上で反響を呼び、あのダルビッシュ選手までTwitterでつぶやいたほど。またこのツイートがきっかけで、アメリカのテレビ局にも取り上げられ話題になったようです。しかし、直後に埼玉県高野連から「危険行為」として注意が入ったとか。

しかし自分には、どうしても拭えない「不快感」が残りました。

面白ければ、楽しければOKなのか?

この選手の行為はパフォーマンスとして取り上げられています。そう、これはあくまで「パフォーマンス」なんですよね。

あの場所は野球の試合会場。甲子園をかけてしのぎを削る、真剣勝負の場だったと思うんです。本人の意図はわかりかねますが、真剣勝負の場に「パフォーマンス」を持ち込まれることに不快感があるんです。

アスリートは一点の差を埋めるために、死にものぐるいで練習をします。競技は毎試合が真剣勝負。勝つか負けるかのギリギリで戦っているのです。

こんな状況で「パフォーマンス」をされたら、周囲の選手はどのような感情を持つでしょうか。

正々堂々と「プレー」で目立ってほしい

今回の一件で、選手と高校はすごい注目を浴びました。海外にまで話題が飛ぶとは本当にすごい拡散力です。

たとえば野茂投手のピッチングフォームは独特で話題を呼びました。でもあれは良いボールを投げるために必要だったからこそ。イチロー選手のバットを立てる動作も同じです。

では本当に、彼のバットヌンチャクは良いプレーに必要だったのでしょうか?

「ルールにないからと何をやってもいいわけではありません。ルール以前にマナーがあり、それ以前にモラルがあるんです」(埼玉県高野連・高間専務理事)

自分が観客としてスポーツを見るのは、意地と意地のぶつかる真剣さが好きだからです。お互いに譲らない緊張感あるプレーをみて、一緒にその臨場感と高揚感を味わいたい。

こうしたパフォーマンスは、せっかく緊張感を吹き飛ばしてしまいます。

次世代には「記憶」よりも「記録」を目指してほしい

一部には「記憶に残ったからいいじゃん」というコメントも見られました。

しかし、自分は次世代にこのやり方を真似してほしくない。勝負の結果を求めてしのぎを削るのがスポーツです。目立てばいい、観客の記憶に残ればいいというのは、どうしても納得できません。

記録より記憶じゃありません。記録を残すために必死になる姿が記憶に残るのです。今後、注目を浴びることを目的に安易なパフォーマンスする次世代が増えないのを願ってやみません。

(2015年7月25日「なわとび1本で何でもできるのだ」より転載)