もしもあなたの大切な人が、あなた自身が「依存症」だと告げられたらどうすればいいだろうか。厚生労働省が発表したデータによると、アルコール依存症に限った話で言えば、女性の社会進出や、高齢化を反映して、女性・高齢の患者数が増加傾向にある。
1月17日に開催された「私たちが依存症になる理由」というテーマのもと開催されたトークセッションには、約20年もの間、依存症の臨床に関わってきた斉藤章佳(さいとう・あきよし)さんと、自身も過去に買い物依存症だったと話す作家の中村うさぎさんが登壇した。
前半では、依存症の根底には、性の問題が潜んでいると斉藤さんは語ったが、ここでは、その性の問題の根っこにある男尊女卑的な価値観に触れながら、依存症からの回復モデルについて探っていく。
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■出演者プロフィール
斉藤章佳(精神保健福祉士・社会福祉士/大森榎本クリニック精神保健福祉部長)
中村うさぎ(人の本質的な欲望を追求する作家・エッセイスト)
左:斉藤章佳さん/右:中村うさぎさん
性暴力の本質は性欲ではなく、支配欲。その背景にある男尊女卑的価値観
中村うさぎさん(以下、中村):女性は男の人に、威張られたりとか、意味もなく大きい態度をとられたり、マウンティングされたりすることが多いので、苦痛は溜まるわけですよね。そういう抑えつけられた復讐感というのが、ラディカルな方向にいくとフェミニストの攻撃性になっていくのかなと思って見ているんですけど。
男尊女卑じゃなくなったからと言って、性暴力がなくなるのかというと、これはどうなんですか?
斉藤章佳さん(以下、斉藤):どういう理論構築して、性暴力を考えるのかにもよるんですけど、『男が痴漢になる理由』の中で言いたかったことは「性犯罪を性欲の問題に矮小化して語るのをやめましょう」というのがひとつです。
性暴力の本質は、性欲ではないんです。そこにあるのは、男尊女卑的な価値観だったり、支配欲や征服欲だったりします。彼らの言葉を借りれば複合的快楽とも言えますね。だから、性欲の問題だけにとらわれてはいけません。
それに実は、性欲の問題に集約しちゃうと、加害者にとって有利に働きやすいという構造もあるんです。
中村:そうなんですか?
斉藤:性欲の問題になってしまうと、「男の性欲は、コントロールすることが難しい」から「それじゃあ、仕方ないね」というように諦めてしまう傾向があります。もちろん、これでは根本的な解決にはならない。
そこで、本質はなんなんだろうか、と考えたときに出てくるのが"男尊女卑"という日本の男性優位社会に根強く残る価値観なんです。日本社会は男尊女卑の社会だと、大々的に言っている人ってあまりいませんよね。だから、まずはそこを明確にするべきだと思っています。
今、「#Me Too」(※)の活動とかで、女性の方の声があがってきていますけど、日本ってイマイチ広がり切ってないんですよ。この広がらない要因のひとつが、男性側の対話力の脆弱さと男尊女卑的な価値観だと思っています。
前に、取材の中で、男尊女卑の考え方や価値観を学んでいくのは「社会」ではなくて、「家庭」の中だという話をしました。私たちにとっての最初の男女間ロールモデルって父と母なんですよね。
※#Me Too:ハリウッドプロデューサーのハーヴィー・ワインスタインによるセクハラや性的暴行の被害が報道によって明らかになり、そこから女優アリッサ・ミラノなどのツイートによって始まったセクハラや性的加害に立ち向かう運動。(参考:性的被害に「Me Too(私も)」 世界、そして日本で闘う人たち|Buzz Feed NEWS)
中村:うん。たしかに。
斉藤:私も当然、自分の両親の日常的な関係性を見て育ってきました。「父が母にどう接しているか」とか「母が父にどう接しているか」とかです。
それを見ていると、母が父(というか男性に)に忖度している場面がたくさんあったんです。地域性も関係あるかもしれませんが、地方の田舎だったので「女性は前に出てくるな」とか「女性がものを言うな」という考えが根強かった。
こうしたロールモデルを見ていれば、そういった男尊女卑的な価値観を自然と学習をしていきます。でも、社会に出たときに「これはおかしいな」とか「こういう考え方だと今のトレンドについていけないな」ということで、自分の価値観をアップデートしなければいけません。
でも、そういうアップデートの機会がない人もたくさんいます。私はDV加害者プログラムも15年前から携わっているんですけど、出会ってきた加害者たちの根底にはやはり根強い男尊女卑的価値観があるように思います。
私たちにとって、匿名性の高い人は"人間"じゃない?
参加者:すみません、男尊女卑的な価値観は原家族でインストールされるとのことでしたが、家庭内に性加害が起きやすいパターンはなにかあるのでしょうか? もしも仮に男尊女卑の価値観がその家庭に根付いているとすれば、夫が妻を貶めているとか、兄が妹に暴力を振るっているとか。
斉藤:そうですね......性の問題には個別性、つまり個人のストーリーというものがあります。ですので、一概にこういうパターンがあるとは言えないのですが、ケースとしてあるのは、DV家庭には高率に子どもへの性虐待のケースが含まれていることと、もうひとつは家庭内性虐待をする加害親が、外で性犯罪をくり返しているケースというのは出会ったことないんです。
その逆もあって、外で性犯罪をくり返す加害者が、娘や妻に性暴力をしているというケースにも臨床場面で出会ったことがありません。出会ったことないだけで、実際には存在しているのかもしれませんが、私はこのふたつを分離して考えるべきなのかなと思っています。
中村:痴漢とかレイプをする人って、相手の女性を"人"だと思っていないケースがあるじゃないですか。それと同様のことを栗本薫さんが『コミュニケーション不全症候群』という本の中で言っているんです。
栗本さんには、とても良いママ友がいて、その人は誰にでも優しくて感じの良い女性だった。ある日、栗本さんは電車の中で彼女とすれ違ったときにバーンとぶつかってしまったんですね。でも、そのママ友の人はひと言も謝らずに立ち去ってしまった。彼女はぶつかった相手が栗本さんだと気付いていなかったんです。栗本さんはその時、「そのママ友さんにとっては知り合いだけが"人間"で、それ以外の匿名性のある人々は"人間"じゃないから、ぶつかっても謝らないという二面性があるのだな」って考えたんですね。
この話と同じように痴漢加害者の人も、家族は大事にする。なぜなら"人間"だから。だけど外にいる女性は、名前も顔もないただの"女"という記号だから触ってもいいんだってことになるとしたら、その逆パターンもあるんじゃない?
つまり、家庭内性虐待をする男性にとっては、外で出会う人たちはみんな"人間"だけれども、家庭内の妻や子どもは"人間"じゃなくて、自分の所有物だという価値観を持っている可能性があるんじゃないかなって思うんですけど。
斉藤:それは過分にありますね。私は性犯罪をくり返す人と接する機会が多いのですが、彼らは被害者に対しての想像力が圧倒的に欠如しています。
加害男性には「あなたの娘が同じ被害を受けたらどう感じますか」と必ず聞くんですね。
そうすると彼らは自分の身内が性暴力被害に遭うことを想像して「殺しにいくかもしれません」と答える。これは誰でも想像できることですよね。ただ、もう一歩先に踏み込んで「では、あなたは殺されてもおかしくないことをしたんですね」と言うと、そこで彼らはハッと気づくわけです。
ハッとするということは、自分の加害者性については完全に忘れているということ。自分がそうした行為をしたということをリアルに想像できていない。「殺しにいく」と言ったけれど、その行為を自分がやったということが完全に抜け落ちてしまっている。これは家庭内の性虐待においても、同じことが言えると思います。
最近、強姦をする加害者に共通するキーワードが見えてきて、それが《自暴自棄》なんです。
中村:自暴自棄ですか?
斉藤:そうです。男性が追い詰められて、極限状態になった時の反応は「自死(自殺)」か「性暴力」、つまり「自分を殺す」か「相手を破壊する」かの二者択一なんです。どうせ死ぬんだったら、強姦してから死のうという発想ですね。
また、痴漢加害者の男性が、被害者の恐怖を想像できないのは、男性が性の対象として消費される経験が圧倒的に乏しいからだと感じています。女性は性の対象として消費されることが社会やメディアの中で多々ある。男性はそういった経験が少ないので、"消費されること"のリアルな恐怖を想像することが難しいのかなと。
中村:たしかにそうですね。
男性に「被害者の気持ちになってみろ」、「お前が女性に触られたらどうだ」と言ったとしても、あまりそこに脅威は感じなさそうです。でも、「体格の良いプロレスラーみたいな人に身体を触られたらどうだ」って言ったらそこで初めて恐怖を想像できるのかもしれない。
斉藤:ここは男女間において圧倒的に差がある部分ですよね。私たち男性は、性欲のはけ口として見られた経験がないので、そこに加害者性の欠如があるんじゃないかなと。男性も性の対象として消費される経験があれば、加害者の人たちが、性暴力を振るわれる女性の怖さを想像できるんじゃないかなと思います。
"加害者性"は、権力関係の中でこそ発生する
中村:さきほどDVという話がありましたが、それは男性だけに限った話なんですか? 女性から男性に対するDVなどはない?
斉藤:事例としてはあると思いますが、そういったケースにはまだプログラムで出会ったことがないですね。
中村:肉体的なDVに限らず、例えば言葉の暴力とかをパートナーにぶつけている女性は一定数いるんじゃないかなって思ったりします。
斉藤:そうすると、これは「女性の加害者性」という話になります。
私は女性の加害者性という分野はまだまだ理解不足で......おそらく児童虐待の場面とか、介護などのケアの現場に出たりすることがあるのかな、と思います。
中村:ケアの現場。
斉藤:女性の加害者性は、男性の"自分より弱い存在への暴力"みたいな形として出やすいわけではないと思うんです。つまり「タテ」の支配ではなく、「ヨコ」の支配という形で出やすいのではないかと。
よく上野千鶴子さんの言葉を借りるのですが、「男は殴って女を殺すけれども、女はケアをして男を殺す」という社会学的な視点で読み解いた表現があります。これは両性の加害者性を表す秀逸な表現だなと。
逆にお聞きしたいのですが、中村さんは女性の加害者性ってなんだと思いますか?
中村:なるほど。私が思うのは、女の人が加害者性を持っていないはずがないということ。ただ、レイプとか暴力とかみたいに表面化することが少ないから、まるで女性にはそれがないみたいに思われているかもしれない。
私の場合は、男性に金を貢ぐのも加害者性だったのかなって。この人を私なしでは生きていけないようにしようっていう考えがあった。
斉藤:それは一種のケアですよね。
中村:そうです。彼が自力では買えないような服や車とかを買ってですね......。
前の夫が「ポルシェが欲しい」と言った時も内心では「なんでだよ」って思いながらも「ここで買ってあげたらこの人は私に感謝するだろうな」って考えたり、そういう計算が働くわけです。
当時の私にはそれだけの経済力があったし、前の夫は働いていなかった。それは私が「働かなくていいよ」って言っていたからなんですけど(笑)。
前の夫は芸術家を気取ったようなタイプだったんです。「俺はこんなところでウダウダしている人間じゃない」みたいなことを言っていてね。だから「私が働いてお金を稼ぐから、あなたは自分のやりたい小説でも書いて」と言っていたんだけど、彼は何も書かなかったのね(笑)。
私の場合に限って言えば、そういう関係にあった男をフッたら、この人はどんなに惨めだろうってことを想像するだけで気持ち良さを感じていた。
だからその「女は男をケアで殺す」っていうのは、こういうことを言うのかなって思いました。
他にも男の人を支配することに喜びを感じる人はいると思うんだよね。会場にいる皆さんの中で女性の加害者性について感じることはありますか?
参加者:ちょっと前に豊田真由子元衆院議員が、元秘書に暴言を吐いたり、暴行したとされた問題があったじゃないですか。あれは議員と秘書という上下関係から生み出された加害者性なのかな、と思います。自分が権力を手にした瞬間から、下の人へ強く出てしまうのは男女ともに同じなのかなと。
斉藤:加害者性の発現は必ずそうした権力関係の中で発生します。性暴力、DV、児童虐待、高齢者虐待、家庭内暴力......そういう意味では男女の加害者性は比較対象ではなく同類の性質を持っていると思いますが、女性は自分自身の加害者性に気づいていたりするのか、すごく興味があります。
中村:してないと思うよ。少なくとも当時の私は、男性を支配しているという感覚はなくて、ただ貢いでいたという感覚の方が強かった。
セックスにおける女性の加害者性について思うことがあるんですけど。私は女性の中に「セックスをさせてあげているわよ」みたいな意思を感じる。
男の人はセックスが我慢できないとか、セックスをさせてくれる女性を女神のように思ってしまうとか、そういう説があってさ、それをうまく利用している人もいると思う。
斉藤:仮にそうだとすれば、女性の加害者性は社会において見えにくいですよね。
中村:そうだと思います。自分が優位に立っていると思っていたのに、その実、支配されていた男の鬱屈が性暴力に出やすいのかなって思ったことはあります。
斉藤:ただ、これひとつ線引きをした方が良いと思っています。今話されていたセックスの話は、あくまでも合意のある関係の中でのことですよね。性暴力というのは、合意のない中で行われる暴力ですので、その中では圧倒的に力の強い男性がその場を支配して、弱い者を傷つけることで征服欲だったり、支配欲を満たしているのだと思います。
依存症とは、人にうまく依存できない病気
参加者:ひとつよろしいでしょうか。私は、依存症になってしまうと、生涯依存先をめぐる旅に出ることになるというか......依存することによる快楽を覚えてしまうと、そのループから抜け出せなくなるような気がしていて。
例えば、買い物依存症から抜け出したとしても、次はセックス依存症や恋愛依存症になったりするんじゃないかなと思うんです。「それが生活に影響を与えないようなものであれば良し」とするしか回復の方法はないのかなって思うんですけど、斉藤先生はどうお考えですか?
斉藤:依存症におけるそういった現象を私は「モグラ叩き現象」と呼んでいます。ひとつ手放してもまた別の問題が出てくるという......これってずっと続くモグラ叩きのようですよね。
たしかに社会の中で問題の少ない「ハマるもの」にシフトしていけば、何かに耽溺している状態は変わらないですが、周囲に困る人は少なく、自分自身もそこまで損失はない。これは社会的に不適応を起こさない依存症からのひとつの回復モデルなのかもしれないです。
参加者:それでは、そこに移行していくしかないんでしょうか?
斉藤:あとはその人自身が楽に生きているかどうかが大切だと思います。これは自己受容と関わってくるのですが、例えば薬を使っていても酒がやめられなくても、手首をたまに切っていても、過食嘔吐をしていても「I'm OK」だと思っていれば、その人はやっぱりハッピーだと思うんですよね。
依存症からの回復で一番重要なことは、無理に自己肯定感を上げることではなくて「今の自分でOKなんだ」という自己受容の感覚です。
例えば、自暴自棄に薬を使っていたり、お酒をやめられなかったり、自己破壊的行動がやめられないときは「I'm "not" OK」なんですよね。それが「I'm OK」に少しずつ変わっていく。まだ、薬はとまってないけど、「私は私で良いんだ」と思えている状態が重要なのかなって。
そして「I'm OK」っていう状態になるためにはやはり他者に受け入れられる経験が必要です。だからこそ《仲間》との繋がり――ツイッターやフェイスブックのフォロワーではなく、目と目を見て話合える人の存在――が大事だと思います。
中村:でも自己受容って言葉で言っていても、なかなかできないじゃないですか。「私はOK」なんて言っても、実際にそう思うことが難しい人もいるような気がするんですよね。
参加者:例えばアルコール依存症だった人が、仲間との絆で断酒をできていたとしても、そうした人間関係っていうのも壊れやすいものじゃないですか。自分が大切だと思っていた人がいなくなっていくとき、どうなってしまうのかなって思います。だからこそ、新しい人との絆を広く持っておくというか、多くの依存先を見つけていく必要があるというか......。
中村:リスクを分散させるということですよね?
斉藤:依存先を増やしておくのは大事なことだと思います。小児科医の熊谷晋一郎先生は「自立とは依存先を増やすこと」「希望とは絶望を分かち合うこと」だと仰っていました(※)。
これは依存症の回復にすごくフィットする言葉なんですね。
日本の男性的な思考だと、人に頼ったりとか、弱みをオープンにすることに対して「男らしくない」とか「弱い男だ」というイメージがあります。でも依存症の臨床に関わっている立場から言わせていただくと、そういう思想を持っている人ほど実は脆く自死をしています。一方で、回復し続けている人は他者に頼ることがスキルとして上手になっていくんです。
つまり裏を返すと、依存症とは人にうまく頼れない病気なんです。
繰り返しになりますが、日本ではこの部分が逆に考えられています。自分で解決ができて、孤独に耐えられる人が強い、と。ですが、自立している人とは、他者に助けを求めることができる人のことだと思います。助けを求めるには謙虚さが必要です。だからこそ、小さな依存先をうまく増やしていくことは、回復モデルのひとつになると思います。
2018年3月2日(金)にこちらの記事で紹介した内容の拡大版が開催されます。興味のある方は以下のリンクをご参照ください。
取材協力:A Day In The Life
新宿二丁目にあるゲイ・ミックス・バー。
取材・Text/DRESS編集部 小林航平
(2018年2月26日「DRESS」より転載)