PRESENTED BY メットライフ生命

「人一倍生きなくちゃ」3度の大病を乗り越えた林家木久扇・木久蔵親子の噺

人間はいつどうなるかわからない。だから、もし落語がなくなっても、生きていけるようにしとかなきゃって思ってるの。
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「『笑点』の黄色い人」でおなじみの落語家・林家木久扇さんは、幾度もの病を家族と笑って乗り越え、復活した後もテレビや高座でおなじみの笑いを届けている落語界のベテランだ。今では木久扇さんの長男である2代目・木久蔵さんも落語家になり、どんどん活躍の場を広げている。

今回、心も身体も家計も豊かな状態である「ヘルス&ウェルネス」を掲げるメットライフ生命のパートナーシップのもとに、林家木久扇さん、木久蔵さん親子にインタビューする機会を得た。落語家として、家族を持つ父親として、1人の人間として、どんなことを思いながら家族と共に困難を乗り越えてきたのだろうか。親子で“笑い”を生業とするお2人にお話を聞いた。

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■『笑点』の舞台袖には看護師さんがスタンバイ?「安心して具合悪くなれる」

——『笑点』も50周年を迎えて、また新たに生まれ変わりましたね。

木久扇:新メンバーに林家三平さん、司会が春風亭昇太さんに代わって、笑点はずいぶん若返ったね。

木久蔵:歌丸師匠がお辞めになる前は、平均年齢が66歳でしたからね。

木久扇:そう。サラリーマンだったらほぼ全員定年(笑)。歌丸さんなんて、最後の方は正座もできないから椅子に座ったままになってたし、ギリギリまで酸素ボンベを着けてて直前にチューブを外して舞台に出てくるから、顔にチューブ跡つけて出演されてたんですよ。

木久蔵:親父も胃がんの時は点滴しながら出てましたしね。命がけで出演して「わかりません」て回答してた……(笑)。前に昇太師匠が言ってました。「『笑点』は娯楽番組じゃなくて人間ドキュメンタリー番組だ」って。

木久扇:実は『笑点』の舞台袖には看護師さんが待機してるんですよ。全員分の保険証とお薬手帳を預けてあって、白衣姿で真横からじぃーっと見てるんです。全然、笑ってくれないの。でも、看護師さんがいてくれるから、安心して具合悪くなれるんです(笑)。

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■「もう喋れないかもしれない」喉頭がんにも負けない家族の裏話

——木久扇さんは喉頭がんで「笑点」もお休みされてましたね。治療中のことを教えてください。

木久蔵:親父は過去に3回も大病してるんですよね。腸閉塞に胃がん。それで昨年喉頭がんになった時は、さすがに家族も騒然としましたね……。

木久扇:咳がコンコン止まらなくて、病院で診てもらったら喉頭がんのステージ2だと言われました。そのうち声が出なくなりましてね。放射線か抗がん剤か、入院するのかしないのか、いろいろ考えましたが、僕は何より声を守りたかった。抗がん剤治療で髪の毛が抜けちゃうのもテレビ映りが悪いし、入院もしたくないし、通院しながら放射線治療を受けることにしてね。

木久蔵:がんって「こうすれば治る」がない。治療の効果も人それぞれだから、放射線を照射して効くかどうかもわからない。ただひたすら癌細胞が小さくなるのを祈るしかない。家族にとっては嫌な時間ですよ。

木久扇:そんな時に、おかみさんとかみんなが、ウチん中にばっかいるとおかしくなっちゃうからって、外に連れ出してくれたの。帝国ホテルでランチしたり、宝塚を観たり。家族と一緒にゆっくりできてそれはそれでいい時間でした。でも、1日中一緒にいると、おかみさんがあれこれうるさいんですよ。「ほら、食べ物をこぼした」とか「だから言ったじゃないの、新しいズボンはやめなさいって」とか。ずーっと文句ばっかり言ってるの。下町の人だから涙もろいし、思いやり深い人なんだけどね。扱いは乱暴なの(笑)。

木久蔵:親父は声が出なくて何も言い返せないから。母親はだいぶ気分が良かったみたいです(笑)。

——喉頭がんの告知を受けた時、木久蔵さんやご家族はどんな風に受け止められたんですか?

木久蔵:正直、喉頭がんの時はもうダメだと思ってました。ついに来たかと。だってまったく喋れないんだから、もう末期なんだろうなと思って。声はもう戻らないだろうとあきらめてましたね。親父は絵も描けるし、他の商売もできるのかもしれないけど、やっぱり本道は落語だから。幹の部分が取られちゃうと思うといたたまれなくて……。

母親も家族もみんな弱気になってましたね。でも周り全員がそうなっちゃいけないと思って、それなら「僕はのんきでいよう」って思ってました。こんな時だからこそ、「笑いたい」って思うのはとても健全なこと。闘病中だからって、本人も周りにいる家族も、暗くてつらいだけじゃいけないって思ったんです。

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■闘病中でも商魂たくましく。喉頭がんの時に生まれた新商品!?

——それでも木久扇さんは治療中にも色々な活動をされていたとか。

木久蔵:この人、生きるか死ぬかの闘病中にもちゃっかり稼いでましたからね(笑)。

木久扇:だって仕事できなくなったら「入金」がなくなっちゃうし(笑)、家族とお弟子さんの生活もあるから大変なんですよ。治療は1回15分くらいの通院だから時間はいっぱいあるし、声が出ないなら得意の絵で稼ごうって。知り合いの編集者に片っ端から連絡して、「仕事をください」と。それが実って「みんなが元気になる 学校寄席入門シリーズ」の本を出しました。

木久蔵:通院中に撮影してるから写真がけっこう色白なんです(笑)。

木久扇:それから新商品も出したんです、「木久扇ナポリタン」。このイラストも僕が描いたの。

木久蔵:治療中に東京オリンピックが決まったんですけど、親父が「大儲けできるチャンスだ!」って言い出して。オリンピックに向けた新商品を作り始めたんです。放射線治療してて味覚は大丈夫なのか?って(笑)。

木久扇:だって世界中からお財布が集まってくるんだから。このパッケージの絵も僕が描いたの。国旗は訪日観光客が多い順になってるんです。みんな自分の国旗が入ってるとうれしいでしょ?(笑)

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(手前)木久扇ナポリタン (奥)みんなが元気になる 学校寄席入門シリーズ 1~4

■木久蔵ラーメンに象…冒険しては大失敗

——木久蔵ラーメンを始め、武勇伝がたくさんありますよね(笑)

木久蔵:バルセロナオリンピックの時にスペインでラーメン屋をオープンして……。

木久扇:大失敗。シエスタでお昼寝しちゃうから、ランチタイムに客がこない。夜もみんなワイン片手にゆっくり食べるからラーメン1杯で何時間も粘られて。

木久蔵:ラーメン屋は回転率が勝負なのに(笑)。

木久扇:タイで象を買ったこともあるね。湘南の海岸辺りで子どもを乗せてひと儲けしようって。

木久蔵:そしたらワシントン条約にひっかかって日本に連れて帰ってこられず。また失敗(笑)。

木久扇:タイから毎月、餌代の請求書だけ届くの。病気になったら「注射を打ってもいいか」って電報が届いて。また請求書が増える。一儲けするつもりが逆に支出ばっかり増えちゃって。

木久蔵:親父は何かひらめくと、すぐ行動するタイプ。そこは尊敬しているところですね。失敗する度にすったもんだはありますが、自分で責任をとってるから偉い。まぁ、家族もそれならしかたがないな、と。親父には「しょうがない力」がある(笑)。

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■東京大空襲を経験。「生きなくちゃ」という気持ちは人一倍

——木久扇さんは何度も病気を乗り越えられて、変わったことはありましたか?

木久扇:もっと日々を丁寧に。細やかにやろうって思いましたね。たとえば礼状を自分で書くとか、できることをもっとちゃんとやっていこうって。あとは何より家族との時間を大切にしたいと思いました。忙しくてほとんど一緒にいられない時期も長かったから、これからは家族との時間を意識して作ろうと思って。あとは、なるべく先のことをどんどん約束しちゃう。そうすると「そこまでは生きなくちゃ」てなる。好奇心旺盛だから、やりたいこともまだまだあるからね。

人間はいつどうなるかわからない。だから、もし落語がなくなっても、生きていけるようにしとかなきゃって思ってるの。僕は小学校1年生の時に東京大空襲を経験していて、友達や知り合いが次々に亡くなった。辺り一面が焼け野原で、下町から富士山が見えるくらい何にもなかった。その時に比べたら、病気は自分のことだからなんとかなる、自分のことだから治してやろうって思える。人一倍「生きなくちゃ」て思いは強いと思う。

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■「親父が胃がんになった時に覚悟を決めた」木久蔵さんにとっての“親父の背中”

——木久蔵さんはどのような心境の変化がありましたか?

木久蔵:親父が胃がんと診断された時、「もし親父が死んだら、家族もお弟子さんもみんな路頭に迷ってしまう。俺が稼がないと。そのためには何ができるのか」——そんなことを真剣に考えましたね。それで結局、業界では一番厳しいって言われている春風亭小朝師匠の門を叩いたんです。売れるために、少しでも多く仕事をもらうために、もっともっと修行しなくてはと、悩む間もなく飛び込んで。父親が死んだ時に後悔だけはしたくないと思いました。

——「後悔しないように」何か意識していたことはあったんでしょうか?

木久蔵:親父が生きているうちに「真打になること」「孫の顔をみせること」この2つだけは絶対に叶えようと心に誓いました。こんなことは、親父が病気になってなかったら考えなかったと思います。そしてこの2つはすでに叶えられたので、本当に良かったですね。

やっぱり落語家としてやりがいを一番感じるのは「自分で作ったネタがウケた時」なんですよね。それでいうと、ウケた時の「ドッカン」というボリュームがまだまだ親父には敵わない。それをいつか越えたいですね。そして父親に認められたい。右腕のような存在になりたいです。

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■念願の3世代共演でCDデビューが実現!夢は紅白出場!?

——4月にはお孫さんも一緒に3世代でCDデビューもされましたね。

木久扇:孫2人と倅と僕の3世代、そして元オフコースの鈴木康博さんと一緒に、題して“木久ちゃんロケッツ”です。曲のタイトルは「空とぶプリンプリン」!ありがたいことにNHKのみんなの歌でも流れてます。

木久蔵:歌は鈴木康博さんが作曲してくれて、作詞とあとイラストも親父ですね。

木久扇:「戦争したらおいしいお菓子が食べられなくなっちゃうよ」ていう平和を願うメッセージを込めた歌詞なんです。戦争はやっぱり僕の原点で、あの経験があるからこそ、病気になっても「治してやる」て思えるし、何かあっても家族が困らないように、毎日できるだけのことをしようって思うから。

アンパンマンのやなせたかし先生に話したら、「ヒットさせたかったらキャラクターは空に飛ばすといい」というアドバイスをもらって。だから登場するキャラクターみんな飛んでるの(笑)。そしたらこれがアニメーションにもなって…。これはうれしかったね。喉頭がんで声が出なくなるかもしれないってとこから、それが治って2年目で孫とも共演して歌まで歌えるなんて。幸せだね。この勢いで、初の3世代ユニットで、紅白出場を狙います(笑)。

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木久ちゃんロケッツ「空とぶプリンプリン」(NHKみんなのうた

笑いが絶えない親子の噺。

そこには、戦争を生き抜き、病気を乗り越え、家族の笑顔を必死に守ろうとする父親の姿があった。そんな父親の背中を見て、家族もまた父親の笑顔を守るために、それぞれが前向きに考えて動くことで、みんなで前に進んでいけるのだろう。

「落語家」としての使命とともに、家族を想う気持ちが、笑いと共に脈々と受け継がれている。

(執筆:飯嶌寿子)

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私たちがより充実した人生を送るためには、身体の健康だけではなく心が健全であること、そして、経済的なリスクや不安を軽減することも大切です。

メットライフ生命では、保険商品で経済的なリスクをカバーすることに加え、心をケアするサポートから病気のご相談まで、“あなたに寄り添うサービス”を通して、いくつになっても活き活きと楽しく過ごす皆さまを応援します。

<林家木久扇さん プロフィール>

1937年、東京生まれ。1966年から日本テレビ「笑点」のレギュラーメンバー。1973年には真打ちに昇進。1992年8月、(社)落語協会理事に就任。2007年に、「木久蔵」の名前を息子に譲り、「笑点」で公募した「木久扇」を襲名。親子でダブル襲名興行を行なう。アート、ラーメン、絵画、歌、役者、エッセイなど、下町の粋を伝えるマルチな落語家としてお茶の間に人気。

<林家木久蔵さん プロフィール>

1975年、東京生まれ。玉川大学文学部芸術学科演劇専攻卒業。1995年、林家木久蔵(初代)へ入門。翌年、前座入り。林家きくおとなる。1999年、二ツ目に昇進。2007年、真打ちに昇進し、二代目・林家木久蔵を襲名。

<著書>

●がんに負けるな!免疫力を上げるポジティブ生活術(主婦の友社)

●林家木久扇のみんなが元気になる学校寄席入門(彩流社)

●親バカ力のおかげですー福を呼ぶ、人の育て方(岩崎書店)