作家、村上春樹さんが約50年前、兵庫県立神戸高校(神戸市)に在籍中に学校図書館で借りていた本のタイトルが、村上さんに事前の承諾なく報道された。報じたのは神戸新聞で、10月5日付けの夕刊と電子版「神戸新聞」NEXTに、学校図書館の帯出者カードの写真とともに掲載。これに対し、「図書館は利用者の秘密を守る」ことを掲げてきた図書館界からは、問題視する声が相次いで上がっている。なぜ、図書館は村上さんが借りた本のタイトルを秘密にするべきなのか? その背景には、“リアル図書館戦争”の歴史があった。
■「図書館の自由に関する宣言」に抵触?
問題となっている記事は、村上さんが在学していた神戸高校の元教諭が、学校図書室の帯出者カードに村上さんの名前が書かれているのを発見したというもの。「世界的作家の早熟な読書体験」として、本のタイトルが報じられた。記事には村上さんが書き込んだ帯出者カードの写真も掲載され、村上さん以外の当時の生徒の氏名、学年、貸出日なども読み取れた。
日本図書館協会の「図書館の自由に関する宣言 1979年改訂」では、実践すべき項目のひとつとして、「図書館は利用者の秘密を守る」を掲げ、利用者の読書や利用の事実を外部に漏らさないこととしている。
第3 図書館は利用者の秘密を守る
1 読者が何を読むかはその人のプライバシーに属することであり、図書館は、利用者の読書事実を外部に漏らさない。ただし、憲法第三五条にもとづく令状を確認した場合は例外とする。
2 図書館は、読書記録以外の図書館の利用事実に関しても、利用者のプライバシーを侵さない。
3 利用者の読書事実、利用事実は、図書館が業務上知り得た秘密であって、図書館活動に従事するすべての人びとは、この秘密を守らなければならない。
(「図書館の自由に関する宣言 1979年改訂」より)
この宣言は、戦前にあった思想統制から図書館を守るために戦後、採択された。法的な拘束力を持つものではないが、図書館界では「図書館の憲法」と呼ばれるほど重要だ。今回の報道について、図書館界からはこの「利用者の秘密」に抵触するのではという声が上がっているのだ。
■神戸新聞「報道することは公益性が高いと判断」
神戸新聞社の小野秀明・編集局次長はハフポスト日本版の取材に対し、村上さんの読書体験を掲載した理由を次のように回答している。
「村上さんはノーベル賞候補にも挙がるなど、日本を代表する世界的作家で、その存在は今や一私人の域を超え、動静は社会的関心事であると考えます。とりわけ文学形成過程は研究対象になっていると考えています。
村上さんが神戸・阪神間で過ごした青春時代、図書館の蔵書を読みあさったことは一般に知られていますが、今回の取材で、①読んだ本の具体的な書名 ②英米文学に造詣の深い村上さんが約50年前の高校時代、仏文学にも接していたこと―が新たに分かりました。その事実を報道することは、公益性が高いと判断しました」
神戸新聞は掲載にあたり、村上さんや帯出者カードに書かれていた当時の生徒たちに、事前の承諾は得ていなかった。帯出者カードの写真を掲載したことについては、小野局次長は、「村上さんの自筆署名入りの図書帯出カードについて、当事者の方々からの承諾は得ていませんが、事実を裏付ける価値のある資料(研究の元となる材料)として、そのまま掲載しました。しかし、村上さん以外の方々については、配慮に欠けたと考えています」とコメントした。
この報道を受け、「図書館の自由に関する宣言」の趣旨の普及や、図書館の自由を侵害する事例の調査を行っている日本図書館協会の「図書館の自由委員会」は10月13日、神戸新聞社側と面談。問題だと考えている点を伝え、図書館の自由に対する理解を求めた。
■「読書は民主主義の根幹であり、個人情報」
そもそも、なぜ図書館は貸出履歴といった利用者の読書や利用の情報を守らなければならないのか。「図書館の自由委員会」の熊野清子副委員長によると、「読書は民主主義の根幹であり、個人情報」であるという。
「読書の自由は、憲法第21条で保障する表現の自由にその根拠を持ち、表現の自由の裏返し、表現の受け手の知る自由として位置づけられます。送り手がいくら情報を自由に発信しても、自由に受け取る受け手がなければ、表現の自由が保障されているとは言えません」
日本のみならず、「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(日本は1979年に批准)でも、表現の自由についての権利に「あらゆる種類の情報及び考えを求め、受ける自由」を含めている。図書館は、自由に表現された情報を自由に受けることのできる場としての役割を担っているのだ。
熊野副委員長によると、戦前、図書館は国民教化の施設として、国の目的に合致するよう思想統制に利用されてきた。その反省から、戦後の図書館は「図書館の自由に関する宣言」を掲げ、「利用者の秘密」は守るべきものとしてきた。
「明治時代以来、内務省や軍部が良くないと考える本は、出版段階から検閲により発禁、図書館の本も利用制限されたり、没収されたりしました。良い本を読めば良い人に、悪い本を読めば悪い人になるという考えからです。戦後も、文部省の優良図書選定問題や悪書追放運動などの『良書主義』は残っています。
学校での読書指導も、良い本をこのように読ませてこんなに良い子を育てますと実践報告が出されます。一方で、こういう本を読んだから犯罪を犯すんだ、という考えで、凶悪犯罪の容疑者の部屋にこんなビデオやこんな本がいっぱいあった、とマスコミが暴きたてることもあります。しかし、読書と人間形成や行動の関係は科学的に立証されているとはいえません」
■「個人情報」と図書館の貸出記録の関係は?
また、個人情報という点から見ても問題が残るという。熊野副委員長はこう指摘する。
「個人情報保護法制上の個人情報としての取り扱いの面からも、正当に収集すること、本人の承諾なく収集目的と異なる利用をしないことが求められています。貸出の記録も、図書館が管理上の必要から貸出をしている間だけ保有し、返却されたら消去すべきものとされています。また、個人情報の中でも思想信条にかかることは機微情報として収集を制限されていますが、貸出履歴やその他、講演会への参加などを含めた図書館の利用事実は、集積すると個人の読書傾向をあらわすものとして、機微条項に触れます。
最近では、ビッグデータの活用が推奨されて、貸出記録を積極的な図書館サービスの拡張のために使ってはどうか、という提案や研究があります。同意を得た人のデータのみ、匿名性を高めて、という条件であっても、図書館の貸出記録や利用事実が自分の知らない間に他所に提供されているかもしれないと思うと、利用の抑制、委縮効果を招くことになると危惧されます」
■犯罪捜査と「利用者の秘密」が衝突
利用者の秘密を守っている図書館だが、捜査機関に犯罪捜査に必要だとして、貸出記録や利用状況の開示を求められるケースも少なくない。熊野副委員長によると、2011年に行われた「図書館の自由に関する全国公立図書館調査」では、捜査機関からの貸出記録等の照会(捜査令状のような強制力はない)を受けたことのある館は192館(回答した945館のうち20.3%)だった。そのうち、実際に提供した館は113館(58.9%)にのぼっている。
「照会状のみで開示しないことはこれまでの歩みでほぼ確立したと思っていましたが、2011年の調査では、約6割が回答していました。捜査令状があれば開示するのもやむを得ないと言われますが、たとえ令状があったとしても、その内容を十分に確認し、図書館員の立会いの下に、本当に必要なものに限って開示すべきです」と熊野副委員長は懸念を示す。
これまで、図書館が警察の捜査に協力に応じて利用者の情報を提供、問題視された例があった。国立国会図書館は1986年、グリコ・森永事件で大阪府警の口頭による捜査協力依頼に応じ、1984年分の複写申込書10万枚を提供している。1995年の地下鉄サリン事件でも、国立国会図書館の利用記録が差し押さえられ、その数は利用申込書約53万人分、資料請求票約75万件、資料複写申込書約30万件に及んだ。
熊野副委員長によると、アメリカでは2001年に起きた同時多発テロ後に制定された「愛国者法」で、図書館の利用記録や貸出記録、インターネット利用記録などを連邦捜査局が秘密裏に捜査できることとなり、米国図書館協会が反対を表明しているという。
■学校図書館問題研究会もプライバシー侵害を批判
図書館には、「利用者の秘密」を守ろうと努めてきた歴史があった。今回の神戸新聞の報道を受け、学校図書館問題研究会も10月18日、「村上春樹氏の高校時代の学校図書館貸出記録が神戸新聞に公表されたことに関する見解」を公表。見解では、「図書館の貸出記録が漏洩・流出することは決してあってはならないことであり、これは明らかに利用者のプライバシーの侵害」として、強く批判している。
兵庫県の「個人情報の保護に関する条例」は、本人の同意なく個人情報を外部に提供することを禁じ(第7条)、その適正な管理と保有する必要のなくなったものの廃棄又は消去を義務づけています(第10条)。また、職員には退職後も含めて守秘義務があります(第11条、「地方公務員法」第34条)。今回は、廃棄図書に入っていた図書カードが処分されず、さらにカードに氏名が載っている本人の同意なく外部に提供、公開されており、これらの条例や法律に抵触するものです。村上氏が社会的関心の高い公人であるというのは、提供や公開の理由になりません。
(「見解」より)
ハフポスト日本版は、神戸新聞社に「図書館の自由に関する宣言」における「図書館は利用者の秘密を守る」という項目を知った上で、掲載を判断したのかと質問。神戸新聞社の小野局次長は、「『図書館の自由に関する宣言』は図書館のあるべき姿や図書館が守るべき原則を掲げた文章として承知しており、尊重したいと考えます」と回答、「弊社としては今後、プライバシーの尊重には一層配慮した取材、紙面作りを徹底したいと考えています」としている。
「図書館戦争」シリーズを生んだ作家、有川浩さんは、近所の図書館に掲げられた「図書館の自由に関する宣言」のプレートを目にしたことが、作品執筆のきっかけになったとエピソードがある。小説では、検閲を強行するメディア良化委員会に対抗する図書隊の戦いが描かれているが、現実社会でも図書館はどのような役割を担っているのか、一層の理解を広めていかなければならない。
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