アジアゾウ「はな子」の死から1年、絶えない献花 銅像やナンバープレートにする取り組みも

アジアゾウ「はな子」が死んで、26日で1年です。花をたむける人はまだ途切れません。

井の頭自然文化園(東京都武蔵野市)のアジアゾウ「はな子」が死んで、26日で1年です。花をたむける人はまだ途切れません。はな子を銅像やナンバープレートにして、後世に伝える取り組みも進められています。

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アジアゾウ「はな子」がいたゾウ舎に、死後1年に合わせ献花台などが設置されました。設置は28日までの予定=2017年5月20日、東京都武蔵野市の井の頭自然文化園、猪野元健撮影

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ゾウとしては国内最高齢の69歳で死んだ、はな子=2016年3月、東京都武蔵野市の井の頭自然文化園、猪野元健撮影

井の頭自然文化園は20日、当時のまま残されているゾウ舎に献花台やメッセージを書くノートを設置しました。はな子のファンが次々に訪れました。

東京都杉並区の小学2年の女の子は、はな子の絵をノートにかいていました。「遠足で会ったはな子ちゃんに、また会いたかった」。神奈川県横須賀市の小学3年の女の子は「1年間ありがとう」と書きました。「天国から見守ってくれていると思いました」

ゾウ舎の前のベンチで、さびしさから涙をふいていたのは、東京都清瀬市の飯間信子さん(75歳)です。40年以上前からはな子に会いに来て、ひとりぼっちのおばさん同士で「会話」をしていたそうです。家の庭にはな子の墓をつくり、線香をあげているといいます。「私は年をとって体が動きにくくなってきました。でも、はな子ちゃんは狭いところで一人でずっと頑張って生きた。私も負けちゃいられない」

5月中旬、記者はゾウ舎のはな子がくらしたスペースに入らせてもらいました。静かでした。はな子が死んでからよせられた、感謝の思いをこめた絵や写真などがかざられていました。はな子は孤独な一生といわれましたが、多くの人に愛されていたとあらためて実感しました。

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人気者だったはな子=2016年3月、東京都武蔵野市の井の頭自然文化園、猪野元健撮影

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はな子が死んだ日から、多くの人が花を持ってゾウ舎を訪れました=2016年5月、東京都武蔵野市の井の頭自然文化園、猪野元健撮影

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ゾウ舎ではな子が長年にわたり飼育されていたスペースには、絵や写真がかざられています=2017年5月、東京都武蔵野市の井の頭自然文化園、猪野元健撮影

文化園から近い吉祥寺駅の北口駅前広場に今月、はな子の銅像が登場しました。全長2・5メートル、高さ1・5メートル。右前足を上げているのは、親しい人が来たときにあいさつするしぐさです。

はな子を形にして残したいという声が地元からあり、武蔵野市や文化園などが協力して、銅像を作るお金を集めました。はな子の原型を作るなど、制作の中心になったのが、美術家の笛田亜希さんです。

笛田さんは子どものころからはな子に親しみ、美術家としてはな子の絵などの作品を制作してきました。銅像は、元気だった50歳代の姿をイメージし、飼育係が撮影した写真などからしわや耳の厚さ、爪の形などにこだわりました。

「はな子がいなくなった喪失感をうめる存在になってほしいし、はな子を知らなかった人にも存在を知ってほしい。手で触って、銅像がツルツルになるように育ててもらえればうれしいです」

武蔵野市では、今年で生誕70年を迎えるはな子をかたどったご当地ナンバープレートを、7月から枚数限定で交付する予定です(125cc以下の原動機付自転車向け)。

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吉祥寺駅前にできたはな子の銅像と、原型を制作した笛田亜希さん=2017年5月20日、武蔵野市

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富山県高岡市の梶原製作所で、はな子の銅像の制作を進めました=笛田さん提供

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5月1日の「市報むさしの」に掲載された、ご当地ナンバープレートのイメージ図

【アジアゾウのはな子】太平洋戦争中、東京の動物園のゾウは「逃げ出すと危険」として殺されました。戦後、1949年にタイから東京にきたはな子は、「平和のシンボル」でした。しかし56年と60年に飼育員ら2人を死なせる事故を起こし、「殺人ゾウ」といわれた時代もあります。せまいゾウ舎で1頭で飼育をする動物園に批判もありました。飼育係は、ゾウの国内最高齢になって死ぬまで、親身になってはな子の世話を続けました。

小学生向けの日刊紙「朝日小学生新聞」2017年5月24日付に掲載した記事を再構成しました。媒体について詳しくはジュニア朝日のウェブサイト(https://asagaku.com/)へ。