リンク先の記事を読み、少し前のオフ会のことを思い出した。
そのとき集まったのはアニメ視聴歴三十年以上の同世代。今期の深夜アニメについてひとしきり意見交換をした後、ふと誰かが『ガンダム THE ORIGIN』の話題に言及した。
「そういえば今度、アニメ化されるんだよな、誰か映画館に行くのか?」
「配信でいいんジャマイカ?」
「ザクとサラミスとマゼランがワラワラ出てくるんだぞ、お前、観に行けよ......」
とはいえ新作の話もそこそこに、いつしか話題は歴代ガンダムへ。
「ガンダムUCの赤い人はやっぱり残念だった」
「シャアは、初代ガンダムの頃が一番輝いていた」
「ニュータイプのなり損ないだから仕方ない」
「カミーユが最強のニュータイプ」
「俺は"しかも脳波コントロールできる!"の人を推す」
「強化人間がアリならGガンもガンダム00もアリじゃないか?」
「つくづく、オタクというものは度し難いものだな!」
ああ、ベタベタなガンダムネタのオンパレード......。
もし、見ず知らずのアニメファンがこの掛け合いを観ていたら、中年オタクが老廃物を垂れ流す醜悪な場面と感じるかもしれない。いや、間違いなくそうだろう。ここには独創性も新しい知見も無い。マンネリズムがあるだけである。
しかし、内向きの体験としてはそう悪いものでもない。共有された知識と文脈、お互いに勝手知りたる者同士だからこそ、掛け合いは淀みなく、言葉のキャッチボールはリズム感を帯び、愉悦の色を帯びていく。付き合って間もない相手・年齢も大きく離れている相手では、こういうのはとてもやれない――見ず知らずの相手にこんな事をやったら、空気の読めない懐古ガンダム厨扱いされ、オフ会の隅っこで置物をやる羽目になるだろう。
"ガンダム念仏会"。
歴代ガンダムを肴にしたテンプレート的会話である。その内容は高度に様式化されていて、あたかもサブカルチャーの化石のようだ。
そのかわり、各人が台詞を暗記し文脈をシェアしているだけあって、唱和の声は淀みない。"垂乳根"といえば"母"が来るのと同じように、Vガンダムに言及すればバイク戦艦やカテジナさんがやって来るし、ニュータイプのなり損ないといえばシャアなのだ。掛け合いひとつひとつの必然性は、天の運行にも等しい。
ここでは"ガンダム念仏会"を挙げたけど、世代柄、私は"エヴァンゲリオン念仏会"や"葉鍵念仏会"にも出くわす。"エヴァンゲリオン念仏会"などは開闢から十数年が経ち、そろそろ熟成感が備わってきた。もう少し上の世代の人は"宇宙戦艦ヤマト念仏会"なんかをやっているのかもしれない。
若い人も、他人事じゃないですよ
こういう話を書くと、年若いアニメ愛好家の人は「老害だ!」「そんなおじさん/おばさんにはなりたくない」といった感想を持つかもしれない。
でも、若い人だって必ず老いるし、いつかおじさん/おばさんになっていくんですよ。そして作品ひとつひとつを一生懸命に愛しシーンに心を寄せている限り、思い出は堆積し、ひとつひとつの時間はかけがえのないものになっていく。
わりと最近の作品で言うと、例えば『魔法少女まどか☆マギカ』に熱中し、仲間と語り合ったアニメ愛好家の人にとって、その思い出は尊いものになり始めているはずだ。賭けてもいいが、あと十年も経てば、あちこちの居酒屋で立派な"まどか念仏会"が開催されるだろう。「魔法少女が魔女を生むなら、みんな死ぬしかないじゃない!」が炸裂するのだ――いい歳したおじさんやおばさんによって。
人生も趣味も、前を向いていなければ錆びついてしまう。だからといって、人はいつも前だけ向いていられるわけではないし、夢中になった時間は忘れがたい思い出や文脈を生み出していく。わざわざ狙ってやるものではなかろうけど、なにかの折に"念仏"が唱和される瞬間には、やたら嫌悪するのでなく素直に楽しむところがあっていいんじゃないかなと思う。
(2015年2月22日「シロクマの屑籠」より転載)