チェ・ゲバラは、まだ医学生だったとき、友人のアルベルト・グラナードとモーターバイクによる南米縦断旅行を試みます。もっともバイクは、途中で壊れてしまい、主にヒッチハイクと密航によって、アルゼンチンのコルドバから目的地のベネズエラのカラカスまで辿り着くことになります。その顛末は、ゲバラ自身の手記『モーターサイクル・ダイアリーズ』に記録されています。
ゲバラとグラナード、当時この二人の医学生の関心の中心は、革命でも社会主義でもなく、ハンセン病とその患者にありました。旅の途中、彼らはいたるところで、ハンセン病施設に立ち寄り、ときにはそこに滞在して、患者たちとの交流を深めています。相棒のグラナードは、旅の最終地点カラカスのハンセン病患者の村に留まりましたが、ゲバラは故国アルゼンチンで医学部を卒業してからグラナードに合流することを決意します。
チェ・ゲバラはその旅の途中、日記に次のように綴っています。「いつか何かのきっかけで僕らがハンセン病に真剣に取り組むようなことになるとしたら、その何かとは、どこへいっても患者が示すあのやさしさであるに違いない」。
「患者の示すあのやさしさ」には、これまでに私自身も何度となく出会ってきました。私の友人や仲間たちも、おそらく、同様の体験をしているはずです。そのやさしさの背後には、しかし、患者たちが体験してきた、そして多くの場合、いまもその只中にある、絶望と孤独があります。人が人と触れ合うこと、言葉を交わすこと、あるいは同じテーブルで食事をするといったことが、どれほどにかけがえのないことか、彼らは痛切に感じているように思います。もちろん彼らの気持ちは、それほど単純に説明できることではないのかもしれません。少年時代にハンセン病を発症して以来、70年以上もの間、ハンセン病療養所で暮らし続けているある日本の回復者から、こんな言葉を聞いたこともあります。「自分はひどい差別を受けてきたが、私を差別してきた人たちを、私は赦したいと思う。彼らを赦すことで、自分の人生は豊かになると信じているから」。
結局、ハンセン病医師、チェ・ゲバラが誕生することはありませんでした。大学卒業後、カラカスのグラナードのもとに向かう途中、社会革命の波に巻き込まれ、フィデル・カストロと出会い、キューバに行く先を変更しました。その後、キューバの工業大臣となったチェ・ゲバラが、ウルグアイの米州機構の会議で、ケネディ大統領の提唱した「進歩のための同盟」を激しく非難したことは、よく知られています。
しかし、ゲバラとジョン・F・ケネディの間には、もしかすると共感できたかもしれない、ある一つのテーマがありました。ほかならぬハンセン病です。ケネディは、ハンセン病の世界的制圧を掲げ、アメリカ合衆国で初めて「世界ハンセン病の日」を制定したことにより、死後の1967年にダミアン・ダットン賞を受賞しています。もしかしたらケネディもどこかで、ハンセン病患者の「あのやさしさ」に出会っていたのかもしれません。