ギリシア問題は6月30日のIMF(国際通貨基金)への債務履行期限を超えて宙づりになっている。一気にユーロ圏離脱やドラクマ復活へと進むのか、それとも一時しのぎの更なる支援策で合意するのか、それとも事態の根本的な解決を図る動きがついに出てくるのか。この文章が掲載される頃には見通しが立っているかもしれない。
もちろん中東を専門とする筆者にとってギリシア関連はまったくの素人である。しかし、ギリシアが抱える問題には、地中海を囲む隣国であるアラブ諸国にのし掛かる問題と、同根の部分があるのではないのか。ギリシア問題は、歴史的に遡ってみれば、「中東問題」の一部とも言えるのではないのか。そんなことを、6月30日深夜に債務不履行の「カウントダウン」を報じるBBCの現場中継を、アラブ首長国連邦アブダビで眺めながら、考えていた。
「中東―危機の震源を読む」欄への久しぶりの寄稿に際して、筆者の「リハビリ」も兼ねて、歴史的視野からの中東論を、ギリシア問題を引き合いに、類推や飛躍も大いに交えて、論じてみることを許していただきたい。
ギリシアはヨーロッパなのか
7月6日にイスラエルを訪問したギリシアのコチアス外相は「ギリシアのいないヨーロッパはジョークだ」とインタビューで語ったという('Europe without Greece? Joke,' says Greek foreign minister, AFP )。
古代ギリシア文明が、科学と人間主義の哲学、そして民主主義の政体を生み出し、近代西洋の諸学と政治体制の模範とされて、近代ヨーロッパの理念的基礎となったことは言うまでもない事実だ。しかし近代のギリシアが、古代ギリシア文明とどのようにつながるのか。話は単純ではない。
近代のギリシアが本当に「ヨーロッパ」なのか、と問えば、多くの西欧人が首をかしげるだろう。イギリスやフランスやドイツなど「先進」的な西欧諸国は、古代ギリシアを近代西洋文明の精神的な拠り所としつつ、近現代のギリシアのことは「後進国」として見てきたことは否定できない。西欧諸国とギリシアには今も大きな経済格差があり、軍事政権や有力家系の支配が長く続いた政治体制、ギリシア正教の宗教・文化など、ヨーロッパよりもその外の途上国との政治文化的な類縁性がギリシアには見られる。
イスラーム世界としてのギリシア
それも当然である。第1次世界大戦までは、近代のギリシアのかなりの部分はオスマン帝国の版図であった。
それに先立つ19世紀の前半に、アテネを中心とした地域が先行して独立し、近代のギリシアを形作り始めてはいた。フランス革命やドイツ・中欧の民族主義の高まりが波及したギリシアで1821年にオスマン帝国に対する反乱が勃発する。ギリシア独立戦争である。1832年にギリシア王国が独立するまでの間、西欧およびロシアの列強諸国は競合して介入した。
『キオス島の虐殺』ウジェーヌ・ドラクロワ(1798-1863)1824年作。ルーブル美術館所蔵
国だけでなく、西欧市民社会も熱狂的にこれに関与した。義勇兵として駆けつけて現地で病死した詩人バイロンも、バイロンの詩に触発されて反オスマン宣伝画と言うべき大作「キオス島の虐殺」を描いたドラクロワも、「アラブの春」に熱狂して各国の体制転覆を支援して現地に赴き、国際メディアで論陣を張り、決死の潜入を行ってドキュメンタリー映像を撮ってくる、今の欧米市民社会に見出される面々の同類と考えれば分かりやすい。
ローマ帝国とその片割れのビザンツ帝国に受け継がれた環地中海文明の中核としてのギリシアは、1453年のコンスタンチノープル征服以来、全面的にオスマン帝国の支配下に入り、イスラーム文明圏の一部に統合されていた。第1次世界大戦の時点でも、最大のギリシア人人口を抱える都市は依然としてイスタンブールであり、次いでサロニカ(現在のテッサロニキ)であった。オスマン帝国の首都イスタンブールはもちろんだが、地理的に「ヨーロッパ」側に位置するサロニカにしても、オスマン帝国が最終的に崩壊する段階までその版図の中に残った。
サロニカはギリシア人だけでなく、トルコ人などのイスラーム教徒や、ユダヤ教徒が共存する街だった。オスマン帝国の「緩やかな専制」の典型例だろう。サロニカはトルコ建国の父ケマル・アタチュルクの生まれた都市でもあり、オスマン帝国末期に、ケマルを含む青年将校を中心とした「青年トルコ人」たちの「統一と進歩委員会」が拠点を置いて、スルタン・アブデュルハミト2世の専制政治を打倒する革命運動を推進したことでも知られる。
「古代ギリシア化」されて生み出された近代ギリシア
一方、近代の独立国家としてのギリシアは、辺境の町と化していたアテネを中心に成立した。この小国は、西欧列強が競合してのテコ入れによって急速に作り変えられ、近代化の道を歩み始めた。1832年に成立したギリシア王国の初代国王はギリシア人ではない。ドイツ南部のバイエルン王国の王子オットー・フォン・ヴィッテルスバッハがギリシア風に「オソン1世」を名乗って就任した。列強の駆け引きと妥協の産物である。後には同様の理由から、オソン1世は廃され、デンマーク王家からゲオルギオス1世が迎えられて据え付けられた。
興味深いのは、ギリシアの近代化は、当時の西欧人が胸に抱く「古代ギリシア」をモデルとして行われたことだ。分かりやすいのは建築の分野である。外来の国王たちは西欧、特にドイツやオーストリアあるいはデンマークから「お雇い外国人」的な建築家・技術者を呼び寄せた。そこから、当時西欧で流行していた古代ギリシア・ローマに範を取った「新古典主義」の建築が、さらには「ギリシア復古様式」の建築が、盛んに行われた。
現在アテネに並び立つ多くの「ギリシア風」の建築物は、パルテノン神殿などの古代遺跡を除けば、近代に、主にドイツの建築家が、古代ギリシアの様々な様式・意匠を折衷して建てたものなのである(アテネの主要な建築物へのドイツ・オーストリア人建築家の関与については、池内恵「ギリシア 切り取られた過去」『外交』Vol. 12, 2012年3月, 156-159頁、クリックしてダウンロード)。
その典型例を、多くの読者はニュース映像ですでに目にしている。EUの提示する緊縮策に反対を叫ぶ群衆で埋まったアテネ中心部のシンタグマ広場に聳え立つ国会議事堂は、元来はオソン1世の宮殿として、1842年に建てられたものである。オソン1世の父であるバイエルン王ルートヴィヒ1世は、宮殿造営の資金を出し、お気に入りの建築家フリードリッヒ・フォン・ゲルトナーに設計させた。
BBCなど国際メディアでギリシア問題を報じる特派員は、必ずと言っていいほど、この新古典様式の大伽藍のファサードを背景にして立つ。ドイツ人をはじめとした西欧人の想像の中の古代ギリシアに範を取って作られた、近代ギリシアのねじれた歴史を無意識に暗示しているかのように見える。
切り詰められたギリシア
ギリシアは西欧のいわば「内なる植民地」だったのではないか。オスマン帝国に支配されイスラーム世界に組み込まれていた前近代ギリシアを切り取り、西欧人の想像する古代ギリシアを植え付けていった。そこに「西洋化」を受け入れ、古代ギリシア人の末裔としてのアイデンティティを発見した近代ギリシアとギリシア人が誕生する。
アテネを首都としてギリシアでは民族主義が高揚し、第1次世界大戦でオスマン帝国が崩壊すると、ギリシア人の故地とみなす最大の版図を取り戻そうと目論み(メガリ・イデア=大ギリシア主義)を掲げて、サロニカをはじめとしたヨーロッパ側の領域を制圧し、アナトリア半島に上陸する。しかしケマルを中心にした旧オスマン軍人・知識人らによるトルコ民族主義の台頭と結集により撃退され、アナトリアの占領地を放棄して、現在のギリシアの領土に切り詰められた。何よりも、中世のギリシア人にとっての首都であるイスタンブール(コンスタンチノープル)を奪い返せなかった。
トルコ共和国勢力は、ギリシア人だけでなく、同様に独立国と版図拡大を狙うアルメニア人やクルド人などの諸民族の攻勢も撃退し、アナトリア半島の大部分への支配権を奪い返し、イスタンブールのヨーロッパ側を死守した。オスマン帝国のバルカン南部の領域を東欧諸国と争いながらどうにか確保したギリシアとトルコの間で、「住民交換」が行われた。すなわちアナトリア半島にいたギリシア正教徒と、ヨーロッパ側にいたイスラーム教徒を交換する、強制移住である。多くの人々が生まれ育った土地を追われ、飢えや虐殺で多くの人命が失われた。
第1次世界大戦後のオスマン帝国分割に伴った惨禍は、現在シリアやイラクの内戦下で進む住民の多数の難民化と、似通うところがある。それは偶然の一致ではなく、オスマン帝国の崩壊に伴う、帝国治下の諸民族・諸宗教の、自立した国民国家への統合の際の不全という問題が、現在のアラブ諸国と当時のギリシアに共通しているからではないか。
ギリシアの「親離れ」は可能か
2世紀をかけて行われてきた西洋化・近代化によって、全面的に作り変えられたかのように見えるギリシアでさえも、金融支援をめぐるドイツを筆頭とした西欧「先進」諸国との激しいやり取りの中で、アラブ世界と共通の、オスマン帝国の旧領域・属領が内包した問題を、底流でなおも引き摺っていることを露わにする。
ギリシアはその祖先と文明がヨーロッパの源流であるという、もっぱら近代の西欧先進国側が抱いた観念によって、「非西洋」としての扱いを形式上・理念的には受けなかった。どれだけ努力してもトルコがEUに入れてもらえないのに対して、ギリシアが当然のようにEUに加盟し、多くが無理と薄々感じていたユーロ導入すら許されたのは、近代ギリシアが古代ギリシアの末裔であるという観念があったことによる。冷戦という文脈ではトルコもギリシアも共にNATO(北大西洋条約機構)の最前線で共産勢力と対峙した。相違は文化と文明的起源だけである。その起源にしても、近代に西欧人主導で「想像」されたものなのである。
しかしギリシアの近代化と国民国家形成の実態においては、アラブ諸国と共通した、旧オスマン帝国版図の諸国民に対する西欧列強の植民地支配の様相が色濃くある。ギリシアはドイツとの激しいやり取りの中で、忘れていた脱植民地化の過程を今辿り直そうとしているのかもしれない。そこに、ギリシアのアラブ諸国やトルコとの共通性が見えてくる。政治経済的な苦境に直面した時に、極右ではなく極左のポピュリズムが台頭する様は、やはり西欧先進国よりもアラブ諸国に近い。
チプラスを「かなり遅れてきたナセル」と形容すれば、さすがに類推の度が過ぎるだろうか。しかしエジプトで1950-60年代にアラブ民族主義を唱道したナセルが栄光の絶頂に達したのは、1956年にスエズ運河を国有化し、英仏の支配に刃向かった時だった。エジプトは前政権(王政)の債務不履行によって西欧列強の管理下に入り、スエズ運河は英仏に差し押さえられた。クーデタで台頭したナセルが、いわば「金なら返せん!」と踏み倒したところ、国民は歓呼の声を上げた。借金を踏み倒せば信頼と面目を失うのが文明社会のルールだが、一方の側が不当と感じる、非対称な関係の下での債務は、いっそ踏み倒してしまう方が支持を呼び覚ますことがある。それが途上国の民族主義の主要な要素である。一度踏み倒せばもう二度と借りられなくなるので早晩行き詰るはずだが、ナセルはソ連に接近し、米ソを両天秤にかけて資金援助を引き出し続けようとした。ギリシアがEUと決別してロシアや中国の側に走ってしまうことを恐れたのか、見かねた米国が割って入ろうとしていることも、1956年のエジプトと英仏の対立との類推を誘う。
チプラス政権が緊縮策を要求するドイツに対して牙を剥き、国民がそれを支持するのは、ドイツを中心とした近代西欧の「親」たちから、「古代ギリシア」という夢を投影され、それに合わせて成長することを条件に過度に甘やかされて育った「子」としての近代のギリシアが、遅まきながら、本当に親離れする反抗期を迎えたことを意味するのかもしれない。しかし親子共々老齢に達して活力を失い、懐具合が寂しくなってからの諍いには救いがなく、時に陰惨な結果を招きかねない。また、ギリシアの行動様式がどこか「地中海東方の悪友」たちに似てくるのも、気になるところである。
池内恵
東京大学先端科学技術研究センター准教授。1973年生れ。東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程単位取得退学。日本貿易振興機構アジア経済研究所研究員、国際日本文化研究センター准教授を経て、2008年10月より現職。著書に『現代アラブの社会思想』『イスラーム世界の論じ方』(2009年サントリー学芸賞受賞)、本誌連載をまとめた『中東 危機の震源を読む』などがある。
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(2015年7月8日フォーサイトより転載)
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